次の日。
俺は小鳥先輩にも相談したいと思ったが、先輩は席にいなかった。
作家との打ち合わせか、デザイン部との打ち合わせだろうか。
何だか今日は身体の調子が悪い。
視界がぼやけ、手足がやけに重く感じた。
立ち止まっては息を整えて歩き出すを繰り返した為か、編集部にたどり着くのに、いつもより時間がかかった気がする。
ふと、意識が途絶えそうになったが――。
気づくと誰かが肩を掴んでくれた。
「宗次郎君、大丈夫かい?」
心配そうな顔の編集長が立っていた。
初対面が迷彩服だった為か、スラックスにシャツ、ジャケットの姿はいつ見ても慣れない。
それにしても――。
「あれ……編集長、戻っていたんですか?」
社長の話だと伏見編集長は入院していたはずだ。
「ああ、左腕を骨折しただけだからね。すぐに退院できたよ。それより、ちょっと座りなさい」
説明の通り、伏見編集長は左腕にギブスをしていた。
俺が席に座ると、編集長は隣――小鳥先輩の席に座った。
伏見編集長は何故か深刻そうな表情で俺を見ていた。
眉間にシワを寄せ、真っすぐに俺の目を見る。
「顔色が悪いな。今日はもう帰って休みなさい。これ以上は心配だ」
「でも……」
「編集長。……私にとっての信頼は……担当作家一人一人とちゃんと向き合うことなんです」
やはり体調が悪いのか言葉がスムーズに出てこない。
ハンカチで汗を拭い、必死に言葉を探す。
「一人ダメだったら次の人……は私の考える信頼じゃないんです。作家さんたちは、仮に担当でなくなったとしても……生涯を通して付き合っていくかもしれない一人一人の人間なんです。だから……作家が諦めるまでは……無理してでも最後まで戦いたいんです」
言葉を紡ぐ度に編集長の顔が険しくなっていく。
よほど体調が悪そうに見えるのかもしれない。
「何故、そこまで……」
「ウメが……先生が、私を信頼してくれているからです。作家ができることは作品をよくすること。彼女はそう信じて頑張っているんです。だから……彼女が諦めるまで……私も諦められません」
伏見編集長は怪訝そうに俺を見ていたが、急にふっと笑った。
これまでの真剣な表情ではない。
俺が知っている迷彩服で好きなラノベを語る「いつもの伏見さん」だ。
「信頼……か。新人にしちゃあ色々と考えてるじゃないか」
「……そうですかね」
「……そういうの、嫌いじゃないよ。見えないもの、形がないもの。そういうものについて考えるのはとても難しいことだからね」
「じゃあ……」
「でも、私はこれ以上、キミたちの力にはなれない」
編集長の言葉と態度には、断固とした意思を感じた。
編集長は頭を掻き、弁解するように言葉を続ける。
「その……私には編集長としての仕事があるからね」
突然の態度の変化。
だが、少しだけ迷いのようなものも感じた。
だからこそ、俺はストレートに聞いてみた。
「伏見編集長も、秋葉さんも……急に冷たくなりましたよね。何かあったんですか?」
「何か? え、何の話だろ、気のせいだよ! アハハハ!」
めちゃめちゃ目が泳いでいる。
分かりやすい人だ。
よく分からないけれど、何かあったんだろう。
「それと、宗次郎君の気持ちは分かるけれど、編集者のかかわり方としてはちょっと過剰な部分もあるんじゃないかと思うよ」
言われてみてハッとなる。
「確かにそうかもしれないですね……」
「今は二人しか見てないからいいのかもしれないけど、担当人数が増えたらここまでのことをするのは難しくなる。社長にも直談判したらしいじゃん。ま、でも、あの人が一度決めたことをひっくり返すとは思わなかったな」
「そうなんですね」
「まぁ、でも、それほど惚れた作家がいるのは、編集者として幸せだとも思うけどね」
「……」
協力はできないけど応援したい。
編集長の言葉には、そうした気持ちを感じられた。
「だから、存分にやってみるといいよ」
「ありがとうございます」
失礼ながら、伏見編集長は仕事中に限って言えば本当に真人間だ。
私服が常にコスプレで、キャラ作りの為に遅刻したり、銃のケースにハンカチを入れている狂人とは思えない。
でも――。
この人が……編集長で本当に良かった。
心からそう思えた。
「ただし、今日はもう帰りなさい。いくら若いといっても、無理は禁物だ。それこそキミが倒れでもしたら、彼女の信頼を裏切ることになる」
「……そうですね。すみません」
――と言ったものの、焦りは消えない。
何かしてもしなくても、残り時間は少なくなっていく。
近くのネカフェで仮眠を取ったら体調も落ち着いてきたこともあり、多少の余裕もできていた。
夕陽が射す電車に揺られながら、俺は頭の中でグルグルと考えた。
経験が浅い自分ではやれることが限られている。
それでも、何かしらヒントが得られれば打開できるかもしれない……。
ふと、作家仲間ができて喜んでいたウメの横顔が思い起こされる。
思い返せば、これまでウメには一人も作家仲間がいなかった。
学生時代はカラオケに行ったり、服を買いに行ったりする友達はいた。
でも、作家志望の友達がいたという話は聞いたことがない。
パソコンが苦手だったので、ネットで知り合うこともなかっただろう。
それは俺も例外ではない。
本好きなので本の話はしてきたが、作家視点の話はできないのだから。
だからこそ――。
作家仲間と語り合うウメの姿が本当に嬉しかった。
生まれて初めての同族に興奮しない訳がない。
そんな横顔を思い出して、フフッと笑ってしまう。
同時に、その瞬間、俺の頭の中には、ある一人の人物が思い浮かんだ。
たった一人だけいる。
有益な助言をもらえるかもしれない人物――。
しかし、簡単に協力してくれそうにはない。
俺は迷った。
迷った挙げ句……その人物に話だけでも聞いてもらうことにした。
直ぐにスマートフォンを取り出し、電車を出て、ためらいつつも電話をかける。
電話は三コール目で取られた。
俺は電話の事情を説明し、どうにか会うことができないかお願いした。
電話口の相手は意外にも快諾してくれた。
東西線、半蔵門線、東横線に乗り換え、到着した中目黒駅から徒歩約三分。
再開発が進んだ駅の付近。
俺は早歩きの足を止めると、緊張する胸を抑えながら、夜の闇にそびえ立つタワーマンションを見上げた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!