次の日。
仕事中もウメと俊三郎先生の戦いのことばかりが頭を過った。
仮にウメが俊三郎先生に負ければ、ライトノベル作家としてのデビューは厳しくなる。
出版どころか現状の読者数では出版自体が怪しくなるだろう。
そうなれば、もうウメの物語を本で読むことは――。
そこまで想像して頭を振る。
ネガティブになりすぎてはダメだ。
俺にできることはないのか。
どうにか巻き返す方法はないのか。
そんなことばかりを考えているせいか、うっかりデスクの上のお茶をこぼしてしまった。
「うおッ!」
しかも、こぼす際に指先にかかってしまった。
ホットではないのでヤケドの心配はないものの、反射的に声を上げてしまう。
「ちょっと、宗次郎君、大丈夫!」
隣の小島先輩が驚いた顔でこちらを見ていた。
「す……すみません。大丈夫です。気をつけます」
差し出されたティッシュでお茶をふき取る。
自然とため息が出てしまった。
「ウメ先生が心配なの?」
小鳥先輩の声音は心配そうだ。
あまり心配をかけたくないので、返事に困っていると小鳥先輩が続けた。
「心配なのは分かるわ。でも、君の担当はウメ先生一人じゃないのよ」
「そうです……ね」
「葉月先生の『放課後のプチ魔王狩り』二巻目、入稿作業があるんでしょう? 勢い乗ってる作品よ。切り替えて」
叱っているようで、心配するような優しい口調。
そうだ、俺の担当作家はウメだけではない。
しかも、今は葉月先生とウメの「二人だけ」に絞ってもらっている。
それでうまく回せなければ、十人、二十人と担当を持つことなんてできる訳がない。
「はい!」
俺は気持ちを切り替え、葉月先生の作品の入稿作業に取り掛かる。
入稿作業とは原稿や表紙などの完成データを印刷会社に引き渡す工程だ。
うちはデザイン部門があるので、校正作業を終えたデータをデザイン部門が仕上げ、担当がチェックした後に印刷会社に入稿する。
印刷会社は受け取ったデータを最終チェック用に印刷して送り返す。
それらをチェックして問題なければ印刷工程に入ってもらう。
俺は表紙、帯、内容と順々に最終チェックを行った。
重版が決まった一巻に引き続き、イラストも内容も十分な内容だ。
小島先輩が言うように勢いがある作品だ。
今回成功すればコミカライズの話も来るだろう。
失敗はできない。
できるだけのことはやった。
だが、それはウメの時だってそうだった。
全力で取り組んでも――結果が出ないことはある。
「宗次郎君、また悪い方に考えてる?」
「す、すみません」
そんなに顔に出やすいのだろうか?
「自信をもって!」
「はい!」
俺はゲラを校正部に送付し、自分でも確認した上で、問題ない旨をメールで送信した。
ちなみにゲラとは印刷会社から送られてくる最終確認用の試し刷りのことだ。
この工程が終わると印刷が行われ、サンプルの納品が行われた後に書店へ出荷される。
このタイミングでのミスは取返しがつかない。
前の部署でも経験しているものの、緊張感を持って慎重にチェックする。
なかなかに神経をすり減らす作業だ。
帰りの電車。
心配事で眠れていないせいか、根を詰めすぎているせいか、つり革に捕まりながら意識が途絶えそうになった。
いけない、しっかりしないと。
三週目の結果は俺とウメの二人で確認することになった。
秋葉さんも伏見編集長も忙しいらしい。
よくよく考えれば、編集長がプライベートな時間まで使って協力するなんてあり得ないことだ。
汗臭いおっさんだとばかり思っていたが、今になって二人の協力がどれだけ貴重な時間だったのか思い知る。
ただ、こうして顔を出さなくなった事実を鑑みると、二人はウメのことを「諦めたんじゃないか」と邪推してしまう。
電話で話した際の様子が、少しおかしかったのだ。
「いやぁ、まぁアレだよ。難しいかもしれないけど、がんばってね。ドゥフ」
「宗次郎君、すまないね。ごほん。しかしアレだ。がんばりたまえ。ごほん。ウメ先生にもよろしく言っておいてくれ」
二人の驚くように高かったテンションは息をひそめていた。
でも、それはある意味では仕方がないのかもしれない。
二週目の圧倒的大敗を目にすれば、誰だってやる気をなくす。
俺だって色々と考えたけど、もう勝つのは無理なんじゃないかと頭の片隅で思っている。
ウメは今、どんな気持ちで鉛筆を走らせているのだろうか?
机に向かう後ろ姿だけじゃ、その気持ちまでは分からない。
十二時……。
俺はウメに声をかけ、一緒にローテーブルの前に座る。
ノートパソコンを広げてアクセス数を確認する。
不安なのだろう。
ウメは膝の上で拳を握っていた。
少しでも彼女の不安を和らげたくて、何か言葉を発そうとする。
でも、何も出てこない。
こんな時、どんな風に声をかければいいのか分からない。
情けない。
だが――。
もしかしたら、今週はアクセス数が逆転しているかもしれない。
それだけのことはした。
二週目の結果を受け、反省し、見直して、相談に相談を重ねた。
あんなに頑張って書いていたウメを、俺はこれまで見た事がない。
ウメの作家人生が懸っている。
その事実が、彼女を突き動かしていた。
あのウメが本気を出したんだ。
せめて良い勝負はしているはずだ――。
色々な気持ちが交錯する中、恐る恐るアクセス数を確認する。
結果は――。
先週に引き続き「惨敗」だった。
読者数を伸ばし続ける俊三郎先生の数字には到底及ばない。
だが、ウメの作品は先週よりアクセス数が多くなっていた。
数千の増加ではあるものの、ウメが頑張った結晶だ。
ツイッターでの拡散、掲示板での書き込み、まとめサイト……。
ネット上のあらゆる場所で俊三郎先生の作品が取り上げられ、口コミで瞬く間にライトノベルファンの興味を引いた。
インターネットが普及した今、コンテンツの評価は口コミという形で瞬く間に広がる。
勿論、好意的な口コミの多いコンテンツが必ずしも優良とは限らない。
しかし、一見するには十分な理由ができるし、今回のアクセス勝負に限って言えば、その一見にも大きな価値がある。
口コミが口コミを呼ぶ今の俊三郎先生の状況は、今後もウメと大きな差を生み出し続けるということだ。
ウメと俊三郎先生の作品の違いは一体何なのか。
俺はサイトで公開されている二人の作品を読み返したが、その決定的な差が分からない。
勿論、細かい部分のテクニックですごいと思わせる部分はあるし、いくつかの理由になりそうなものも見つけられた。
俊三郎先生の描くキャラクターは活き活きしていた。
かわいいヒロイン、キメどころでは活躍する主人公、毎話毎話ドキドキさせられて、続きが気になる構成。
しかし、ここまで大きな差が出てしまうだけの確固たる原因がどうしても分からない。
いや、だからこそ、かもしれない。
決定的な差がないのであれば、固定ファンが付く俊三郎先生に敵うはずがないのだ。
では、どうすればウメの作品は圧倒的におもしろくできるのか?
一つ分かることがあるとすれば――。
ウメの小説は「デビュー作が一番おもしろかった」という事実だ。
だが、何故デビュー作以降は圧倒的なおもしろさが失われたのか分からない。
これまで通り――いや、むしろアマチュア時代以上に努力して市場を研究した。
それなのに何故……。
原因が分からなければ、対策も打ちようがない。
俺の頭が回らないだけで「何か決定的な差」があるのは間違いないのだろうか……。
それが分からない担当編集なんて、ただの素人じゃないか。
しょせん、素人の力なんてたかが知れている。
俺はウメの作品が好きだ。
こうしてウメを担当することになったのは、人生で一番うれしい出来事だった。
でも、結果が出せないのであれば――俺以外の人間が担当だった方がよかったのではないだろうか。
俺が編集者になったのは間違いだったのではないのか。
そんなことまで頭を過っていた。
ウメは輝かしいデビューをしたので、結果を出している優秀な担当者がついたとしてもおかしくはなかった。
むしろ、そういう提案もあったという話も耳にした。
それでも、ウメは俺を編集担当者として選んだし、俺も希望した。
期待に応えたいと思い、これまで以上に本を読んだし、自分なりに分析や研究もしてみた。
俺にできることなんて限られていると何度も痛感させられたし、何度も挫折しそうになった。
それでも、ここまでやって来た。
やって来られた……。
それももう、限界なのだろうか……。
秋葉さんも伏見編集長も、口には出さないが、勝負を諦めている。
ウメを手助けできるのは、俺しかいない。
そんなことは分かってるのに……どうすれば良いのか分からない。
雨が降りそうな陰鬱な天気が目に入り、更に気持ちが落ちそうになる。
「なあ、宗次郎」
「……」
「なあッ!」
「あ、はい!」
気づくとウメがこちらを見ていた。
「キミはもしかして、自分が担当でなければ、とか思っていないかい?」
「……そんな……ことは……」
ウメにしては鋭い。
図星過ぎて目が泳いだのが自分でも分かってしまう。
「ボクはね。読者が喜ぶ顔を見たくて小説を書いていたんだ。キミもその一人だ。だから……」
「……」
「……そんな顔は見たくなかったな」
ウメは笑っていた。
でも、悲しそうで、だから、今自分の表情がひどいことに気づいた。
俺は立ち上がって頬を叩いた。
「まだ負けてないですよ。数字も上がっています。秘策を考えましょう!」
「うむ、その通りだ! ボクは諦めないぞ!」
ウメは――小さな身体にどれだけのパワーが秘められているんだ。
編集者が作家に励まされてちゃ世話ないぜ。
残り二週間で勝負がつく。
その結果次第では、ウメはあまりいいとは言えないラノベ作家デビューを果たすことになる。
あまり想像したくないが、デビュー作の売り上げも影響が響くだろう。
そもそもアクセス数やブックマーク数が悪ければ出版さえ危うくなる。
逆に俊三郎先生に勝てば出版のボーダーは超えるし、売り上げにも影響が出るだろう。
生きるか死ぬか。
俊三郎先生に勝つことは、ウメが作家を続ける上で必要最低限の条件のように思えた。
俺はどうすれば良いのか分からないまま、ウメの住む築三十年のアパートを見上げる。
その次の日の午後、会社に戻った俺はメールで不意打ちを食らった。
これまで仕事関係で俺宛てに連絡して来るのは、編集長か編集の先輩だけだった。
だからこそ、丸川出版の代表取締役――社長から「社長室へきて欲しい」とメールが届いているのを見て、心臓が止まるんじゃないかと思った。
勿論、この段階では何の話なのか全く分からないし、いい話だと思い込むこともできたはずだ。
しかし、俺はどうしても悪い想像しかできず、気持ちを落ち着かせることができなかった。
俺は急いで社長室に向かった。
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