「じゃあ、お姉さんも結構受験の時は大変だったんですね」
ヒョロリと背の高い少年がひとりで入って来たのは、日曜日の日暮れだった。客足も落ち着き、青年が少女のために冷たいグレープフルーツジュースを作ろうとしているところだった。
少年が今までも何度か店に来た事があるのを少女は覚えていた。色白で、お世辞にも健康的とは言えない顔つきをしていた。目の下にクマができ頬も少しこけていて、高校三年生だという事から明らかに受験勉強に疲れ果てているのが見て取れた。
お客が他にいなかったので、少女はひとつ椅子を挟んだカウンターに座り少年に話し掛けてみると、意外にも彼は饒舌に喋り出した。
彼は『守村昇一』と名乗った。青年もカウンターの中で黙ってふたりの会話を聴いている。
「そうね。あの時は大学に合格する事しか考えてなくて、周りが何も見えてなかったの。性格もギスギスして、かなり冷たい人間になってたわ」
「そうなんですか。ボクもそんな感じになっちゃってるのかもしれないな」
「それよりも、随分疲れてるみたい。ちゃんと休んでる?」
「ええ……ちょっと疲れてはいるけど、大丈夫です。ここでコーヒーを飲んでると、随分息抜きになるんです」
少年はそう言ってこけた頬に温かいコーヒーを一口含んだ。
「それは良かったわ」
少女は自分の店の事のように嬉しくなった。
青年に頼まれてここでアルバイトを初めて早一年余り。いつまで続けられるかわからないけれど、お客のこういった言葉を聴けるのが何よりも嬉しかった。
「昇一くんって、将来何がしたいの?」
「え、何がしたいって?」
「夢とか。何になりたいとか、どこへ行きたいとか」
「夢かぁ。考えた事ないですね。とりあえず大学入って、安定した企業に就職できたらいいかなって思う位で。そのために今頑張ってますから」
「そうなんだ……」
少年は、十七、八歳とは思えない位しっかりした口調で言った。目的はそれなりにしっかり持っている。だけどそれは決して「夢を語る少年の瞳」ではなかった。
〈わたしも受験の時は、きっとこんな目をしてた。ただ大学に入るためだけにがむしゃらに勉強してた。ただ言われるままに。本当の目的とか自分の夢なんて考える事もなく。そう、彼に会うまでは……〉
少女は、カウンター越しに青年を見た。ぼんやりと話を聴いていた青年は、少女の視線に気づくと、〝何?〟というように首を傾ける。少女は言葉もなく視線を外すと、ガラスの向こうの景色を見つめて顔を強張らせている少年に気づいた。
「……昇一くん、どうしたの?」
そう言った直後、ガランという音を立てて四十代前半位の女性が、エプロン姿のまま『春秋館』に鬼の形相で飛び込んで来た。
「昇一! あんたこんなところにいたの!?」
「母さん……」
「最近のあんたの様子がおかしいから塾に行ってみたら、あんたしばらく行ってないらしいわね。それどころか、祐くんに訊いたら喫茶店に入り浸っているなんて言うから、母さんびっくりしたわ。いったいどういうつもり? 受験までもう後一年もないのよ!?」
少年は黙ったまま頭を垂れた。
「黙ってちゃわからないでしょ? 塾が嫌なら、図書館に行くとか、家で勉強するとか、いくらでも方法はあるでしょう? なんでこんな水商売みたいな店に来る必要があるのよ?」
「あの!」
少女は体中の血液が逆流するのを感じ、反射的に立ち上がって大声を出していた。一瞬こちらを見た母親の目を見つめ、少女はつかつかと歩み寄った。怒りで全身が震えている。しかし、ここは青年の店で、自分はただのアルバイト。お客とケンカをするわけにはいかない。必死に怒りを静めると、精一杯穏やかな表情を作って言った。
「あの……彼、昇一くんは、時々ここでコーヒーを飲んでいるだけです。何も咎められるような事はしていません。受験生にも、一息つく場所と時間があっていいんじゃないでしょうか?」
母親は軽蔑の眼差しで少女を上から下まで見ると、「あなた、昇一のいったい何なの?」と言った。
「……大事なお客様です」
「なぁに、あなたここの従業員なの? それだけ? だったら口出ししないでちょうだい。〝彼〟だとか〝昇一くん〟なんて言わないでちょうだい。私はこの子の実の母親なのよ。この子の事は一番よくわかってるの。この子は現実から逃げて甘えてるだけなのよ。自分の置かれてる立場をちっとも受け入れようとしてないだけ。この三十分が受験生にとってどれだけ命取りになるか、わかってないのよ!」
「そんな……だけど、気分転換は必要です。一日の内少しでも勉強の事を忘れる時間がないと、プレッシャーに押し潰されてしまうのは子供さんの方じゃないですか?」
母親はせせら笑うように皮肉な笑みを浮かべた。
「子供を持った事のないお嬢さんが、大層な口利くわね。こんなプレッシャーに耐えられないなんて、この先どうやって社会で生きていけると思うの? この子がこんな店に通ってる間に、ライバルはどんどん実力をつけていくのよ。受験に失敗して転落人生を送る事になったら、あなた責任とってくれるの?」
二年前までの自分なら、母親に同じ事を言われたら納得していたかもしれない。でも、今なら大声で言える。
何故、受験に失敗する事が転落人生につながるんですか。
良い大学に入る事だけが、唯一の成功人生なのですか、と。
大人の都合で納得させられていたあの頃の自分を想い出し、胸が痛くなった。
この人も、どうかしてる。
少女は今度こそ怒りがピークになり、再び口を開こうとした。しかし、見兼ねてカウンターから出て来た青年が、少女をかばうようにふたりの間に「まぁまぁ」と割って入った。
「なぁに、あなた」
「僕はここの店長です」
青年はやんわりと言う。
「店長、あなたが? そんな若いのに?」
母親は、青年を胡散臭そうにジロジロ見ている。その視線は、本当に胸が悪くなりそうだ。青年の肩越しに文句のひとつでも言いたくなったが、さりげなく手で制され少女は再び口をつぐんだ。青年はいつもと変わらず落ち着いた様子で言う。
「ここはコーヒー店です。不安定な業種である以上、水商売である事も事実です。そしてここは、お客様にくつろいでコーヒーを楽しんで貰う空間です」
「……だから何だっていうの?」
「あなたは昇一くんの母親かもしれない。でも、僕のお客様じゃない」
「何よ、帰れって言うの? ええ、帰るわ。当然でしょ? 昇一、帰るわよ!」
母親は汚らわしいものでも見るような目で青年を睨み付けると、事の成り行きを不安気に見ていた少年の方に向き直った。
「昇一。今からでも塾に間に合うから。行くわね? もうこれ以上母さんに恥ずかしい想いさせないでちょうだい。塾の先生や友達に訊いて回るの、どれだけ恥ずかしかったかわかる?」
「……ごめん」
「わかればいいのよ。今回の事はお父さんには黙ってるから。その代わり、もう一度やったら許さないからね。わかった?」
「……わかったよ」
母親は満足気に微笑むと、「じゃ、お邪魔しました」と勝ち誇ったような口調で言って店を出た。少年は一度も顔を上げず、いくつかの硬貨をカウンターに置いて母親の後に続き店を出た。なんとなく虚しい空気が店を覆った。
少女は、青年から受け取ったグレープフルーツジュースを一口飲むと、カウンターに両肘をついて項垂れた。
「ごめんなさい。わたし、余計な事言っちゃった?」
「いいよ。君らしいなって思ったし」
青年の言葉に少女は少し気持ちが楽になり、同時に哀しみが込み上げてきた。
「受験の事になると、子供より親の方が必死になるみたい。子供は期待かけられて、やりたくもない勉強をやらされて……それをあなたの将来のためとか言われても、納得できないと思うの。だって、生きてるのは未来じゃなくて今なんだもの。若い内に苦労するのは大事よ。でも、それは望みもせず無理に与えられた苦労じゃなくて、自分で選んだ苦労であるべきじゃない? でなきゃ、乗り越えても達成感は得られないと思うの。ただ、悪夢から解放されたっていうだけじゃないの?」
「一理ありそうだね。家庭の事情なんてどこの家にもあって、他人が口出しできる事はないけど……。でも、彼はまた来るような気がする。でなきゃ、持たないだろ。精神的に」
「来るかな? だといいけど……」
青年は返事をする代わりになんとなく微笑むと、「じゃ、僕も一服させて貰うよ」と言って店の外へ出て行った。
彼の一番の至福の時。それは何もかも忘れて煙草の煙を吹かす時。誰も声を掛けられない彼だけの時間……。
ガラス越しに見える春の夕焼け。もうすぐやってくる梅雨の季節。少女の苦手な季節。受験生にとっても、追い込みをかける季節……。
少女はカウンターに肘をついたまま、何故かいつもより苦く感じるジュースを意味もなくストローでかき回し続けながら思った。
病める人もそうでない人も、ここが安らぎの場になれればいい。
ここにいる間だけは俗世間の事を忘れ、穏やかなひと時を過ごしてくれたらいい。
わたしと彼とで作り出すこの空間が、ここに来るすべてのお客様の存在を肯定するから。
だから、ここに来て下さい。
わたしの弾くピアノを聴いて下さい。
彼の淹れるコーヒーを飲んで下さい。
わたしと彼がいつも同じ空間を作り出す事ができる時間の限り……。
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