春秋館 <一話完結型 連続小説>

様々な人たちが今日も珈琲専門店『春秋館』を訪れます。
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Order9. 心の隙間

公開日時: 2022年5月19日(木) 19:40
文字数:1,550

 黄金色のプラタナスの葉が舞い落ちる季節。

 少女は大学での講義を終え、いつものようにここ『春秋館』にピアノを弾く為にやって来た。

 だけど今日は何故かその扉をすぐに開ける事ができずにいる。店の裏にある、いつも青年が休憩タイムに使う狭い通路に、もう十分以上もぼんやりと立ちつくして空を見上げていた。

「天高く馬肥ゆる秋、か……」

 ことわざの通り、秋の空は澄み渡って高く、気候も良く食欲も増しそうだ。それは少女が好きな季節のひとつ。そしてもうひとつ好きな季節は春。どうしても好きになれないのは夏と冬だ。

 こうして今、好きな季節の真っ只中にいるというのに、やがてやって来るであろう冬を思い憂鬱になるとは、なんとも皮肉なものである。

 少女は、オリーブ色のカーディガンの袖を直しながら店の壁にもたれた。その目に、風に流され歪に変形している飛行機雲がふんわりと映っている。

 穏やかな季節。穏やかな空間。

 憂鬱になるとはいえ、本格的な冬の訪れまではまだ一ヶ月以上もある。何も不安な事などないはず。なのに時折押し寄せる孤独感に、少女は今苛まれている。木製の扉の向こうから時々漏れて聴こえる青年とお客の笑い声。

 それは少女が大好きな空間だった。青年がいつか、自分に与えた場所。初めてあの椅子に座った日から、自分にとってこれ以上の至福の時はないと思った。この時間を守るためなら、どんな事でもできるだろうとまで思った。

 だが、それ故時折押し寄せるこの恐ろしい程の虚無感に、少女は不安を感じていた。器用で何でもひとりでこなし、いつも自信に満ちている青年。

 もしかして自分はこの店に必要ではないんじゃないかと思う時がある。自分などいなくても、彼ひとりで充分お客は満足するのではないかと。

 そして、一年の半分を遠い異国の地で過ごす青年との埋まらない距離。そんなものに、少女は失意を感じていた。

 少女はもたれていた壁から背中を離すと、ゆっくりと扉の前まで歩を進めた。だけど、やはり扉を開く勇気が出ない。

 もしもこのままこの扉を開けずに帰ったら……。そしてそのまま黙って来なくなったら、どうするんだろう、あの人は。

 少女は、自分の考えに驚いた。

 自分にとって最高の至福の時間を、自分の手で壊そうと考えるなんて。

 わたしはどうかしてる。

 青年がいる。わたしのピアノが聴きたくて通ってくれるお客もいる。わたしの場所は確かにある。それ以上、何を望む事があるというんだろう?

 わたしは何を求めているんだろう?

 彼に、いったい何を望んでいるんだろ?


「入らないんですか?」

 突然低いバリトンが真横で聴こえ、思わず少女は飛びのいた。

 それは、一週間に一度のペースで現れる近所の予備校生だった。相変わらず無表情で、右手にはネイビー色のショルダーバッグを抱え、銀縁フレームの眼鏡を掛けている。豆粒のような鋭い目もいつもの通りだ。

 彼は、相変わらずの不器用顔で少女を見つめている。

「あ、入ります」

 少女が急いで返事をすると、彼は木製の扉を開け無言のまま彼女を促した。レディファーストのつもりらしい。少女はその不器用な彼の行動がどうにも似つかわしくなく、おかしくてつい内心ほくそ笑んだ。

 彼に促され、半ば勢いで店内に入ると、青年が常連客のひとりとカウンター超しに歓談していた。そしてふたりに気づくと、「いらっしゃい」と涼しい瞳を細めた。

 その瞬間、さっきまでの戸惑いや迷い、恐れが魔法のように消えてなくなった。少なくとも今のこの空間にいる間はもうそんな想いに苦しむ事はないだろう。

 帰らなくて良かった。

 青年とは正反対のタイプの予備校生に、なんだか救われたような気がした。少女は感謝すると、入り口近くの椅子に腰を掛けた彼を返り、

「温かいモカブレンド、すぐに淹れますね」

 そう言って、この日初めての最高の笑顔を向けた。

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