まっ白のウェディングドレスに身を包んだ女が店に飛び込んで来のは、午後三時を少しまわった頃だっただろうか。二組の客はもちろん、いつも冷静沈着な青年も、この時ばかりは一瞬ぽかんとした顔をした。
彼女は木製の扉を背に、しばらくは声も出ないほど大きく肩で息をしていた。
「いらっしゃい」
青年は、すぐにいつもの表情に戻り、いつものように微笑んだ。そして冷たい水をグラスに注ぎ、彼女の一番近くのテーブルに運ぶ。彼女は席につかず、立ったまま水を一気飲みすると、緊張した硬い表情で、青年の顔をおずおずと見つめた。
「……匿って、欲しいんです」
びしょ濡れのウェディングドレスの裾をひっつかみ、すがるような目で青年に訴えかける。それが逃げた花嫁最初の言葉だった。
「この辺に、ウェディングドレスを着た女性が通りかかりませんでしたか?」
「いや、見なかったですね」
青年の渇いた返事に、まっ黒の背広を着たふたり組の男は一瞬顔を歪める。明らかに疑いの眼差しだ。
「こっちの方に走って行くのを目撃した人が何人もいるんですがね……」
「さぁ。最近の雨で、ご覧の通り窓も曇ってますし。ガラス越しにも外はあんまり見えないんですよ」
青年は飄々と答える。他の客も、そ知らぬ顔で首を傾げている。
胡散臭そうに顔をしかめ、ふたり組は店を後にした。
青年は、ふたり組が去るのを待って、店の奥に隠れた花嫁に声を掛けた。
「もういいよ」
青年の自宅へと続く二階の階段の扉を開け、花嫁は顔を出す。すでに先程までのドレス姿ではなく、ダブダブの緑のシャツとジーンズに身を包んでいる。どうやら青年のものらしい。
「ごめんなさい。二階に上がったら置いてあったから……勝手に借りちゃった……」
いたずらっぽく舌を出した花嫁は、青年とそう変わらないほど若く見える。綺麗に化粧された大きな瞳は世界中の男を魅了するほどに魅力的だった。
「ありがとう……。助かったわ。他の人も、みんな知らない振りしてくれて……」
「みんな常連さんばかりだからね。あれ位、容易いことさ」
テーブル席に座った二組の客も、笑顔で頷いている。
花嫁は何となく微笑むと、長袖シャツの袖ぐりをまくりながら落ち着きなく視線を泳がせる。
「あのう……」
彼女は、窓の外を気にしながらも青年を上目遣いに見る。
「何も、訊かないの?」
「訊かないって、何を?」
「おかしな客よね。私の事、怪しいと思わないの?」
「別に。コーヒー、飲む?」
青年は、彼女の疑問には気にも留めないようにコーヒーを淹れ始める。
「ここに来る人はみんなワケあり。というか、生きてる人すべてがワケあり。君だけが特別おかしいなんて思わないよ」
青年は、もちろんこの僕もね、と付け加えた。思わず彼女は笑みをこぼす。
彼女は窓からは死角になる、一番奥のカウンターにゆっくりと腰を掛けた。
「変ね。そんな風に言われれば、余計に聴いて欲しくなっちゃった」
彼女は木製のカウンターに頬杖をつくと、左手にある漆黒のピアノに目を留めた。
「あのピアノは、あなたが?」
「いや。僕は弾けないんですよ。いつも弾いてくれてる子が今日は休みで」
「そうなんだ。残念」
彼女は、青年の淹れたコロンビアブレンドを一口飲むと、ほっと息をついた。
「おいしい……」
未だ日本列島を覆っている梅雨前線は、シャツを通して彼女の心まで濡らした。そんな心と身体に、フルーティーな香りのコーヒーが何とも言えないほど染み渡る。
「六月の花嫁……ずっと憧れだったんだけどな……」
彼女が、ポツリと呟く。
「でも、そこに幸せは見出せなかった……」
青年は、カウンターの中で黙って話を聴いている。
「あの人も、あなたみたいに寡黙な人だった」
「…………」
「そうやって、私の話に黙って頷いて、微笑んでくれてた」
「…………」
「でもね、父にバレてしまったの。あの人の事。それからあの人、どこかに行っちゃった。何があったのかわからない。でももうこの国にいないのかもしれないし、もしかしたら……」
そこまで言って、花嫁は一瞬口を噤んだ。
「どうしようもなくて。父の薦める男と結婚するしかもう道はなかった」
二組の客も、黙ったまま花嫁の告白に聴き入っている。
「でももう嫌なの。父の思い通りの人生は」
彼女は、きっぱりと言い切った。
「だから、逃げて来たの。父に、世界で一番格好悪い男になって欲しかったの」
雨は激しくなっていた。時折稲妻が光り、雷鳴を轟かせている。
どの位の時間、そうしていただろう。いつの間にか窓の外は薄暗く、夜の闇が手を広げてこの小さなログハウス作りの珈琲店を覆い始めていた。
店内は、雨音と雷鳴だけがBGMだった。誰も語らない静かな静かな時間が流れる。
二組の客は、しばらくするとそれぞれ席を立って精算をした。
板金塗装の自営業をしている常連の客は、「お嬢さん、人生色々だ。くよくよすんなよ」と声を掛けて雨の中帰って行った。
青年とふたりになった後も、花嫁はしばらくの間黙ったまま自分の時間を止めていたが、やがて名残惜しそうにコロンビアブレンドを飲み干すと、何かを決心したように口を開いた。
「もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「君の心が、それで癒されるのならね」
彼女は、冷えたコーヒーカップを抱えた手を震わせていた。
「今日はもう客も来そうにないな。……実は明日からこの店、夏季休業に入るんだ。つまり、君は最後のお客って事になりそうだ。良かったら、おかわりはいかが?」
花嫁は、満面の笑みを浮かべた。目の前の涼しい瞳の青年に、消えない想いを馳せた彼の姿を重ねながら……。
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