「久しぶり。やっと帰って来たのか。今度はどこに行ってたんだ? 店放ったらかしにして」
「ここのコーヒー飲まないと、一日が始まらないんだよ」
「待ってたのよ、店長! おみやげ話をしてよ!」
その日、春秋館のカウンターは賑やかな常連客で賑わっていた。夏季休業を終え、やっと店が再び開店した日だった。
数ヶ月振りに見た青年は、夏休み前よりも少し髪が伸び、ほんの少しだけ健康的に日焼けしていた。
お客に囲まれて永い旅の話をする彼はとても楽しそうで、生き生きとして見える。ピアノ弾きの少女は、何故か自分だけ取り残されたような気分になり、「今日はわたしの出番はなさそうだな」とピアノの鍵盤を持て余したように指でなぞりながら見つめていた。
季節は九月も下旬である。青年の帰国は予定よりも数週間遅かった。秋とは言え、未だ窓の外のプラタナスの木々は青々として秋晴の美しい景色を映し出している。
「お姉さんも大変だね。一番稼ぎ時の夏休みに、バイト先が閉まってたんじゃ」
流行らないグレーの野球帽をかぶった年配の客が、不意に少女に声を掛けてきた。人懐っこい目のその客は、時々少女にリクエストをする常連客のひとりだった。
「その間、大学の勉強とピアノの練習ができましたから」
ピアノ弾きの少女は「何故わたしに声を掛けるんだろう。彼の話を最後まで聴いていればいいのに」と内心思いながら短く答えた。
午後八時位を回った頃だろうか。客足が減り、一組、また一組と姿を消していく。
「じゃあな、店長。また明日来るよ」
「またね。久しぶりに会えてよかったわ」
「コーヒーうまかったよ。ごちそうさん」
そんな常連客達の言葉を、青年は笑顔で見送った。
「お疲れ様」
青年は、少女にも声を掛ける。しかし、少女は目を伏せたまま小声で呟いた。
「わたし、今日は何もしなかったわ。みんなあなたの話に夢中で、誰もピアノなんて聴いてないもの」
少女は、自分が何故か少し不機嫌な事に驚いていた。
「君も聴いてくれてた?」
「旅の話? ううん」
少女は、正直に答える。
「そっか。じゃあ、もう一度話するかな」
不機嫌顔の少女とは裏腹に、青年は相変わらずご機嫌顔で大きく一度肩を回す。
「いいですよ、疲れてるのに。今日はもう早く閉めて休めばどうですか?」
少女は、青年と目を合わさないまま店の片付けを始めた。何が気に入らないんだろう。少女は、自分でもわからない感情に戸惑っていた。青年が帰って来て、またこの店に活気が戻り、嬉しいはずだったのに。またここでピアノが弾ける日をずっと待ち遠しく思っていたのに。
もしも今「何で怒ってるの?」と訊かれても、何も答えられない。怒る理由などまったくない。誰に何の落ち度もないのだから。あったとすれば、勝手に怒っている自分自身だけだった。
しかし青年は少女に何かを尋ねる事はせず、店の看板の灯りを消して戻って来た彼女に向かってお願いをした。
「じゃあ、ここで寝るから、何か一曲弾いて」
「ここでって……?」
驚いて見ると、青年はピアノに一番近いカウンターの席にうつ伏して、もう瞼を閉じていた。
「余計に疲れても知らないから……」
少女は呆れ顔になりながらも、ピアノの鍵盤に指を置いた。瞬時に心が落ち着くのを感じる。
そして一度大きく深呼吸すると、一番好きなショパンのノクターン第二十番を弾き始めた。
青年は、さっきの格好のまま両手に顔をうずめ、安らかな寝息を立て、いつも間にか本当に眠りについているようだった。その寝顔はいつもの自信に満ちたものとは違い、どこかあどけなさの残る少年のようにも見えた……。
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