参考:「Order4.」
https://novelism.jp/novel/6i6svXpDQeGK6kywkRA1EQ/article/LVfzIfBsQGKA6eZ_uJBJwQ/
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「こんにちは」
「あ、いらっしゃい」
「お久しぶりです」
「永い間休暇とってたからね」
「何度かあれから足を運んだんだけど……。本当に永い休みだったみたいね。閉店したのかと思っちゃったわ」
「ご迷惑かけました」
ピアノ弾きの少女は、交わされる会話が何となく気になって見ていた。お客の女性は、少女の知らない顔だった。だけど、やけに青年と親しく見える。青年と同じ年位で、とても大きな瞳の、笑顔の魅力的な女性だ。
「ホットコーヒー貰っていい? 種類はお任せで」
そう言って女性はカウンターの席に腰を下ろした。常連さんが好んで座る席だ。
「了解」
青年は、特に迷う事もなく自ら選んだコーヒー豆をドリッパーに入れ始める。
「リクエスト、してもいい?」
女性が少女に声を掛けたが、少女はしばらく反応できなかった。
「聴こえてる?」
もう一度声を掛けられて、少女ははっと目を見開く。
「あ、はい。すみません」
「この間は確か学校でお休みされてたんですよね。お会いできなくて残念でした」
「あ、はい……」
どうやら、やはり少女の知らないお客のようだった。
「ラフマニノフで何かお願いできるかしら」
「あ、はい……」
少女は同じセリフをくり返すと、気を取り直したように椅子に深く腰を掛け直し姿勢を正すと、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』を演奏し始めた。まるでチョコレートシロップのような甘く切ないメロディだ。
ピアノが始まると、しばらく聴き入っていた女性も、コーヒーが運ばれた直後にカウンターに向き直り、青年と再び何か会話を始めた。ピアノの音が邪魔で、その会話の内容まで聴こえない。ただ、女性と青年の楽しそうな笑顔が、少女の目の片隅に映るだけで……。
「コロンビアブレンド。もしかして覚えてた?」
「もちろん」
満足気な女性の瞳に、青年の伏せたまぶたが映る。
三十分ほどした後、女性は席を立った。曲が終わる度に次々とやはりラフマニノフの曲をリクエストし続け、少女はほとんど途切れなく演奏し続けた。同時に、会話がまったく聴こえないので、少しイラついていた。甘いメロディラインのはずが、どことなくとげとげしく重苦しい音を奏でている。
「じゃ、帰るわね」
女性がカウンターから立ち上がると、青年が精算をする。当たり前の光景。当たり前の会話が少女の耳に入る。
「また来るわ。ここ、本当に気に入っちゃった」
女性は、少しはにかんだように店内を見回して微笑むと、今度は少女に向かって「『ヴォカリーズ』良かったわ。涙出そうになっちゃった」と目を細めた。そしてもう一度青年に向き直ると、「じゃ」と言って右手を上げた。
青年も軽く右手を上げると、いつものようにお客の背中を見送った。
ただそれだけの事なのに、少女の胸はざわついていた。
「何か上の空じゃない」
店内の客がすべて帰りひと段落すると、青年が胸ポケットからタバコを取り出しながら言う。
「え、そう?」
少女は慌てて笑顔を作る。
「別に。何かいっぱいリクエストされたから、疲れちゃって」
「彼女、いっぱい曲知ってるんだな。彼女も何か音楽やってるのかな」
青年が「彼女」と言ったのが何故か気に入らない。
「さぁ。訊いてみたらどうですか」
「うん。また次でも訊いてみるよ」
会話が終わりそうだったので、少女は慌てて付け足した。こちらから訊かなければ、何も教えてくれない。青年がそういう人である事はよく知っていたから。
「今の人、わたしの知らないお客さんよね」
「ん? ああ、そう。夏季休業に入る前に一度来ただけだから」
「一度だけ? それにしては随分親しそうだったけど……」
「あ、そう? まぁ内容が内容なだけにね……」
青年は、くすっと笑った。彼の脳裏に、びしょ濡れのウェディングドレスの裾をひっつかみ、すがるような目でここに飛び込んで来た彼女の姿が浮かんだのだった。もう数ヶ月前の事である。
「内容って?」
少女は、さほど興味がないけれど訊いてあげるわ、とでもいうような口調で質問を重ねる。
しかし、新しいお客が入って来たので、青年は銜えただけのタバコを再びポケットに戻すと、また今度ね、と言うように目で合図をした。
「いらっしゃい」
近くの予備校に通う浪人生が無表情で入って来た。右手にネイビー色のショルダーバッグを抱え、銀縁フレームの眼鏡の奥に、豆粒のような、だけど鋭い目が特徴の若者だ。彼はチラッと少女の方に目をやると、彼女に背を向ける格好でふたり掛けのテーブルに腰を降ろした。見た目はちょっと恐いけど、いつも彼女や青年が親しく話し掛けると、バツが悪そうに目を伏せて小声で返事をする。
顔に似合わず照れ屋な若者だと少女は認識していた。彼は眼鏡越しに「モカブレンド」を注文した。
彼に続いて今度は主婦ふたり組が陽気にお喋りしながら入って来る。
「マスター、コーヒーふたつちょうだい! 段々日が短くなってきたわねぇ!」
再び〝春秋館〟の店内は、活気付き始めた。少女は少し気持ちが萎えたような気になっていたが、扉の向こうから吹き込む秋風に煽られるように鍵盤に向き直ると、ドビュッシーの『夢』を演奏し始めた。何でも良かった。ラフマニノフ以外の曲なら何でも。
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