今まさに浴びて来たかのような血に染めた甲冑の騎士が、そこに立っていた。
それがいつ現れたのか、誰にも分からなかった。
知らぬ間に、扉は奥に向かって開かれていた。その扉の内側、半分闇に包まれた中に騎士はいた。まるでずっと前からそこに据え置かれてでもいたかのように。
気配もなければ殺気もない。騎士は誰を見るともなく、ただそこに佇んでいた。
今まで見たこともない甲冑だった。胴回りから肩にかけて力点が置かれたつくりで、力強い上半身に優雅さを備えた長い足周りが映える。過度な装飾は見られず、機能的で動きやすそうな作りだ。肩甲から背後へと暗い色の外套が垂れている。ややうつむき加減の面立ちを印象づける冑には、正面に長い角が一本。面頬は冑に付属するのではなく、あらかじめ騎士が顔にはめているようだった。仮面に似ている。そしてその仮面は赤かった。真っ赤だった。その真紅の仮面に、二つの眼窩だけが空いている。何も見ていないかのような、暗い二つの孔。
だが、彼らが動きを止めた真の理由は、甲冑の形でも仮面のせいでもなかった。
その甲冑は無垢の鉄ではなかった。上等な織物で包まれてでもいるかのように、つややかで白かった。いや、もとは白かったはずというのが正しいだろう。その白い織物包みの全身が、かすれた赤黒い色で覆われている。彩色を施したのではなく、後から赤い何かを体中に塗りたくったような、不自然でいびつで、そして不吉な赤い色。
彼らが、歴戦の勇士だからこそ分かる。
そう、あれは血の色だ。
全身を、今まさに浴びて来たかのような血に染めた甲冑の騎士が、そこに立っていた。
兵の誰もが、身じろぎ一つせずに見つめている。
生まれて初めて出会ったフェルゾム。霧の中から現れる人外の魔物、一人で千騎を斃すといわれる地獄の騎士だ。
クリムラントの鼓動も早まる。たった一人、これ見よがしの罠に違いない。だがこの距離なら弩で確実に射抜ける。振り返った彼に、弩を構えた兵士たちが頷く。一瞬の迷いを振り捨て決心した。やれ。クリムラントが心でそう思った瞬間、引き鉄を引こうとした兵士たちの頭に、どこからともなく飛来した矢が次々と突き立った。
「敵だっ!」
すかさず歩兵が盾を構えて防戦する。だがそのわずかな隙間をかいくぐり、矢は正確に兵士たちを斃していく。どこだ。敵の姿はまるで見えない。矢音の方角を見てもどこから射てくるのかわからない。城壁のそこかしこから湧き出てくるかのように矢の雨が降り注ぎ、兵士は次々と斃れていった。
逃げ場を探すクリムラントの眼に、石段の上の門が映った。あの騎士がいない。フェルゾムは姿を消していた。扉は開いている。あの中には何が待ち受けているか分からない。だがこのままでは成す術もなく全滅してしまう。
「石段を上れ! 中に入るんだ」
意を決して兵士を誘導する。
容赦なく襲ってくる矢を盾と拾った扉で防ぎつつ、兵士たちが後ずさりに門をくぐる。矢が次々と扉に突き立ち、足を射抜かれた歩兵がうめき声とともに石段から転げ落ちた。左ほほに傷のある老兵が、石段を飛び下りると落ちていた盾で守る。だが自分もそこから動けない。クリムラントと二人の部下が門から飛び出す。矢が飛び交う中、全員で傷ついた歩兵を引きずり上げ、どうにか中へ入るとすかさず扉を閉めた。矢は扉が閉まりきるまで、隙間から執拗に中へと飛び込んできていた。
荒い息をしつつ素早く内部を見回す。
そこはやはり控えの間だった。見たところ部屋に罠や仕掛けはなさそうだ。だが調度品はほとんどなく、がらんとしている。高い石壁に設けられた小さな天窓から、幾筋かの光がほのかに差してくるだけだ。壁際に質素な卓や数脚の椅子が転がっている。ぽつんと残った棚には、壺や水差しがそのまま置き忘れられていた。
部屋の左右に扉があるが、両方とも大きな木の台でふさがれ数名の兵士が張り付いている。不意打ちを受けはしたが、彼らは精鋭らしく今やるべきことをきびきびと行っていた。
残った兵はざっと七十名。うち手傷を負ったものが数名。フェルゾムの攻撃が正確で執拗だったため、外で射られたものはほとんどが即死だ。負傷者の応急手当てをさせ、各分隊長を集める。
誰もが今しがたの矢の襲来と、そして彼らの前に現れたフェルゾムの姿を思い起こしている。
その思いを振り払うように、クリムラントは命令した。
「よし、城内の索敵を始めるぞ」
いつまでもここに立て籠もっているわけにはいかない。一刻も早く外の軍団と繋ぎを取り、後続隊の突入を手引きしたかった。でなければ自分たちの命も危うい。数本の薪と、壺の底にわずかに残った灯し油を見つけ、松明の用意をさせる。城門から続く通路の暗さを思い起こすと、この先も灯りが必要だろう。
「一隊七名だ。歩兵三名、うち一名は盾を捨て手槍だけを持て。動きを軽くしろ。突撃兵二名、弩を持て。弓兵二名、うち一名は伝令を兼ねろ」
手傷を負った兵士には、数名の護衛をつけて部屋に残すことにした。分隊長が部下の編成を始める。
「……隊長、弩も弓も足りません」
フェルゾムの攻撃は、あきらかに弩弓兵が標的だった。死んだほとんどが弩を持った突撃兵か弓兵で、彼らの武器は遺体とともに外に落ちている。もう取りには戻れない。仕方なく武器は有り合わせのもので賄うこととし、クリムラント自身を除き七名一分隊に編成しなおすと八分隊ができた。負傷した六名に四名の兵士を広間に残し、四分隊ずつで左右の扉から侵攻する。フェルゾムと遭遇したらもちろん迎え撃つが、まずは城内と外界との接点、つまり外に通じる出口を探すことが肝心だ。
赤ら顔の突撃兵は、目じりに傷のある兵士と同じ組になった。二人とも弩と矢をまだ持っている。
年かさの兵士が広間に残る兵士たちを見た。足に傷を負い、動くのがままならない者が二人いる。一番の重傷者は脇腹に太い矢を受け卓上に寝かせられていた。長くは持たないだろう。彼は肩からかけていた矢筒をはずすと、自分の弩と一緒に、残る兵士に手渡した。
「もし奴らが来たらこれを使え」
手渡された兵士は、心得たように頷くと礼を言った。隊列に戻ると、物言いたげなそぶりの若い兵士を見る。
「弩はお前に任せる。お前のほうが俺より早い」
そういって、腰の剣に手をかけた。
頬に傷のある老兵は反対側の扉から侵攻する隊にいた。自分の手弓をしっかりと持っている。老兵はこちらを見ると、何かを伝えるように頷いた。それが幸運を、という合図だったのか、それとも別れのあいさつだったのか、二人にも分からなかった。
兵士たちが、それぞれの扉の前に集まる。ふさいでいた台をどかし、扉を開けた瞬間に備えて応戦の体制をとった。分隊長が扉に手をかけ一気に開く。すかさず弩と弓が中を狙ったが、誰もいない。反対側も同様だ。二つの扉とも暗い通路へと続いていた。松明に火が灯され、それぞれ第一の分隊から通路へと侵攻した。
若い兵士たちは、右手の扉から第二分隊として進んだ。通路は暗く、左奥へと続いている。全員が、前を行く分隊のさらに前方の闇を注視していた。
通路は突き当りで左に折れ、しばらく進むと左右に分かれた。そこで二隊が分かれる。彼らの後ろにも一隊ずつが続き、皆で通路を進む。暗く狭い通路に、松明の燃える音だけが響く。
しばらく進むと、暗がりに人の背丈ほどのくぼみが見えた。近づくと石のらせん階段が上へと続いている。これを上がれば上階に行けるはず。うまくすれば城壁の上にまで出られるかもしれない。まずは若い兵士の隊が上り、様子を探ることとなった。松明を持った分隊長を先頭に用心深く上っていく。
一行はやがて上階についた。続く通路に敵がいないことを確認すると、下の分隊を呼ぶ。二つの隊が分かれて様子を探る。造りは階下と同様で、狭く、光はなく、冷え冷えとして息が詰まる。先へ行くとまた道が分かれる。途中に数段の階段もあり、その都度上がったり下りたりもした。記憶を頼りに、なるべく外壁に近づくようにと道を選んでいるつもりだが、皆だんだんと方向感覚がなくなっていく気がする。
「畜生、まるで迷路だ」
一人の兵士がつぶやいた。
――――――――――――――――――――
上階の通路を反対側に進んだ一隊も、同じように真っ暗な中で、どこを通っているのか、どの方角に向かっているのかが次第に分からなくなってきていた。運よくまた階上に上る階段にでも出くわさないか、という思いで歩いているようなものだ。
いくつめかの角を曲がると、今までより幾分広い通路に出た。壁には長方形の大きなくぼみがある。松明で照らすと、それはずっと先まで等間隔についており、その一つから細い光がもれていた。近寄ってみるとくぼみの頂点に縦長の小さな孔があき、そこから光が差し込んでいる。
顔を寄せて覗くと、彼らが初めに入った郭が見下ろせた。敵の矢に斃れた兵士たちが目に入る。顔を離して仲間を呼んだ。
「見ろ。狭間だ。俺たちはここから射られたんだ」
他の兵士も穴を覗く。矢じりがぎりぎり通る程の幅で、上下も手のひらより短いくらいだ。床に、ちょうどその穴に差し込めるほどの石片が落ちている。平時はこれを差し込んでいるのだろう。自分たちを襲った矢の秘密が分かった。これほど小さく細い狭間で、使わぬものは同じ石でふさがれていたのでは、表側からはただの石壁としか見えない。巧妙に隠された狭間だった。そして、この小さな狭間からあれほど正確に矢を放ってくるフェルゾムに、兵士たちは改めて言葉を失った。
奴らの技量は、明らかに自分たちを数段凌いでいる。本当に自分たちで斃せるのか。誰も言葉にしなかったが、思いは皆同じだった。
「他の狭間の栓も外せ。明かりが入る」
分隊長の言葉に、兵士たちが石片を外していく。通路に数条の光の帯ができ、外部とつながったことで兵士たちは安堵した。自分たちのいる場所もおおよその見当がついた。狭間から除くと、城壁はまだ上に続いている。今いるのは城内の二階あるいは三階らしい。ということは、どこかにさらに上へと続く階段もあるはずだ。
「よし、上への道を探そう。行くぞ」
その時、空を切る音と共にいきなり分隊長の頭ががくんと前にのめった。
見開いた隊長の目が下を向く。のど元から赤く染まった太い矢が突き出している。呆気にとられる兵士たちに、分隊長は何か言いたげに口を開いたが、がぼっという音とともに血の塊を吹き出すと、そのまま床へと突っ伏した。
第二の矢が飛来し歩兵の盾を貫く。兵士たちが即座に壁にへばりつき、盾の陰に身をひそめる。
分隊長は死んだ。声を挙げる暇もなかった。敵の姿は見えない。だがこちらは外から差し込む光の帯で、相手から丸見えのはず。自分たちが狭間の石を抜くまで待っていたのか。光を浴びて一瞬気が緩むその隙を窺っていたのか。
もし通路が初めから明るかったら、もっと用心したはずだった。自分たちで狭間の秘密に気づき、自ら光を呼び入れたからこその安堵があった。では、落ちていたあの石の栓は何だ。こちらに気づかせるための罠だったのか。
兵士たちは、弄ばれているような気がした。自分たちの考えなぞ及ばない、とてつもなく大きな何かに、すでに飲み込まれているようだった。
いや、この城こそがその何かなのかも知れない。
第三の矢が唸りとともに飛来し、壁に当たると跳ねかえって背後の暗がりへと転がっていった。
「このまま下がれ」
先頭の歩兵が命じる。
「待て!」
左壁の兵が遮った。
「後ろはいかん。前に突撃だ」
中年の、戦歴も長い兵士だった。
「何を言ってる? 死ぬ気か!」
「いや、隊長一人を射るのはおかしい。後ろに退かせて待ち伏せているかもしれない」
「フェルゾムだぞ。俺たちだけで大丈夫か?」
「一矢ずつ射てくるところを見ると一人だろう。しかも矢から見て弩だ。一気に突撃して、次をかわせばもう使えない」
他の兵士たちも顔を見合わせながら考える。お互いが頷きあった。
「わかった」
右側の歩兵が賛同した。
「隊長の仇を討つ」
「よし、行くぞ……すすめっ!」
盾とともに左右の歩兵が飛び出す。四人が続き、通路を一気に駆け抜ける。
行く手の石柱の陰に甲冑の半身が見えた。弩を構えた突撃兵が、狙いを定めて射る。矢は吸い込まれるように相手の胸に命中した。後ろの弓兵も矢を放った。それも当たったのを見て前の歩兵が叫ぶ。
「止まれ! 弩弓、続けろ!」
二人の歩兵が盾で護り、後ろの兵士が続けざまに弩と弓で射る。放った矢が次々と突き立ち、衝撃で甲冑が後ろに倒れる。
「やった!」
兵士たちの口から声が漏れ、皆の手が止まる。用心にと、弓兵がもう一矢打ち込む。だが相手は動かない。
六人は顔を見合わせ得心すると、少しずつ近づいた。全員がことさら盾に隠れるようにじわじわと迫る。やったのか。フェルゾムを倒したのか。あの魔物をおれたちが屠ったのか。
倒れた敵にすべての注意を払っていた彼らは、今通った通路の天井にぽっかりと孔が開いていたことに、誰一人気づかなかった。
手槍をもった歩兵が意を決して甲冑を突いた。穂先が脇腹に突き刺さる。だが、何かがおかしい。槍を引き抜くと、倒れている甲冑ににじり寄る。
「気をつけろ」
兵士の一人が松明を拾ってきた。受け取った歩兵がかざしながら甲冑を見る。広間の戸口で見たものとはだいぶ違う。投げ出されている脛当をおそるおそる掴むと、振り返って言った。
「……中身がない」
他の兵も近寄り、つま先でつついてみる。たしかに手ごたえがない。
空の甲冑。何だ。いったい何が起こっている。
そう思う六人の背後に、天井の孔から血まみれの騎士が音もなく降りてきていた。
突撃兵が背後の気配に気づく。振り向いた目に赤い仮面が飛び込んでくる。剣を振りかぶる間もなく、フェルゾムの長大な剣が彼らを一閃した。二人の首が、剣を握った手指もろとも壁に飛ぶ。返す刃で、弩を構えた兵士の頭を冑もろとも両断する。血と脳漿とが床にぶちまけられた。中年の歩兵が声を挙げ、大盾を振り上げると渾身の力で打ち下ろす。だが、フェルゾムは人とは思えぬ動きでその盾をかいくぐり、歩兵の胴を薙ぎ払った。赤い臓物が宙に飛ぶ。切りかかった歩兵の胸に剣が深々と打ち込まれ、げふっという声が漏れた。骨と肉とを打ち砕くと、抜き取られた大剣はしたたる血とともに、残った兵士の手槍をやすやすと撥ね退け、即座に首を斬り跳ばした。
通路に静寂が戻る。
フェルゾムが手に提げた大剣のきっさきから、緩慢に血が滴る。石畳に響くそのかすかな音に聞き入るかのように、騎士は血の中に散らばる六人を見下ろしていた。
やがて、ゆっくり身をかがめると、足元に広がった血溜まりに片手を漬ける。そしてその赤い液体を、いくぶん白さが残っている己の胸甲へと塗り込んだ。
まるで神聖な儀式のように、血に濡れた騎士は頭を垂れたままその場に跪いていた。
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