メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第四十話 牢と木剣

公開日時: 2021年5月16日(日) 17:00
文字数:2,951

これは私だ。意味もなく身を砕かれ、最後の力で足掻き、やがて死ぬ。あの地下牢の私だ。

 散々に哭き、喚き、身悶えた末、やがて彼女は、地面に突いた手に何かが触れる感触で眼を開いた。無数の脚を生やした地蟲が甲の上に這い上ってくる。

 慌てて振り払う。兵士として育った彼女は野外の蟲には慣れている。だがやはり気色の良いものではない。


 身体をくねらせる蟲を見下ろしていると、恐怖と嫌悪に加え底知れぬ憤怒と憎悪までもが沸き起こってきた。木剣を取ると、いきなり蟲を打ち据える。胴を潰され千切れた地蟲が断末魔でもがく。

 壁を見た。眼を凝らすとあちこちに蟲がいた。彼女は叫び、目につく蟲たちを片っ端から木剣で打ち殺し始めた。

 セフィールに対する怒りを、蟲たちに当たり散らす。潰された蟲が次々と地に堕ち弱々しく蠢く。それをまたも木剣で突き、叩く。


 これは私だ。意味もなく身を砕かれ、最後の力で足掻き、やがて死ぬ。

 あの地下牢の私だ。

 頬に伝わる涙も、歯噛みする口から洩れる嗚咽も、構いはしなかった。動くものがいなくなるまで、延々と続けた。

 

 どれだけ経ったのか。

 血走った目で周囲の壁を見ていたクリシアは、終に動くものが見つからなくなったことを知った。身体中で息をしている。この痩せ細った身体で、これだけ動けたとは信じられない。どっと疲れが出て来た。腰を下ろす。汗みずくだった。

 身体中の痛みが一気に出てくる。彼女は倒れ込んだ。四肢が千切れそうだ。手のひらには肉刺ができ、ずきずきと疼いていた。

 今しがたまで殺し続けた蟲たちに自分が重なる。頭の中が空になった。


 惨いことをした。蟲には何も罪はない。安住の地に突如現れた脅威に、何一つ理解できぬうちに殺される。

 しかも私が真に打ち据えたいのはあの男だ。セフィールだ。腹いせに、何の関わりもない弱いものたちを殺戮した。何という愚かで残忍な真似を。罪の意識が芽生えてきた。そのまま眼を閉じる。意識が遠くなった。

 

 クリシアは瞼を開けた、と思った。だが何も見えない。一瞬何が起きたかと戸惑う。夜だということが分かった。半日以上眠っていたか。

 起き上がると体中が痛む。我慢しつつ手探りで壁際まで進み、水筒を見つけるとまた水を飲んだ。空腹を感じる。だがここに彼女の食べられるものはない。あるのは革袋の中の麦餅だけだ。どうする。試してみるか。

 手探りで麦餅を取り出す。固くてそのままでは到底噛めない。水筒の水を含むと麦餅を咥える。口中の水に浸し舌で塗り込むようにすると、だんだんと崩れてきた。かすかな塩味が口に広がる。ぼろぼろと崩れた破片を咀嚼する。飲み込めるか。

 暗闇で上を向き、喉の奥に落とすようにして飲み下す。できた。だが、問題はこの後だ。受け付けないものはすぐに吐き戻してしまう。そのままじっと待つ。

 咽喉の奥がじわじわとむかついてきた、中のものがせりあがってくる。目を瞑って耐えた。息を止める。だが無理だった。口の中にどろどろとした酸っぱいものが溢れ、えずきながら全て吐いた。

 苦しさに涙ぐむ。悔しさと憤りを感じながら、彼女は毛布に身をくるむと横たわった。眼を閉じてまた眠れることを祈りながら。

 

 クリシアが次に目を覚ますと、陽が上っていた。だが今が一日のうちの何時なのかは分からない。これもあの時と同じだ。虚ろな目で牢内を見渡す。何も変わっていない。

 彼女は尿意を催していた。入ってきた扉と天窓に挟まれた隅に進むと、股穿きと下着を下ろす。壁に背中を向けてしゃがみ込み、なるべく音をたてないように放尿する。聞こえはしまいが、やはり外にいるセフィールを意識していた。ただ、その相手は恐らく私に注意を払ってはいまい。

 用を済ませると、吊り下がっている水筒に手を伸ばす。昨日より重い。新たに水が足されている。革袋を検めると、齧った麦餅は消えていた。そしてこうじの実が三つ。寝ているうちに差し替えたのか。


 暗闇では私が起きているか眠っているかは分からないはず。しかも寝ていたとしても、わずかにでも音を立てればこちらも気づく。それなのに、巧妙に中身をすり替えるとは。

 力量の差を改めて思い知らされ、またしてもセフィールに対する怒りが膨らむ。だが柑はありがたい。これなら食べられそうだ。皮をむくと、一房を外して口に含んだ。甘酸っぱさが広がる。こんなに甘い味も、以前は受け付けなかった。だが、今は嬉しいほどに美味だ。

 唾液と共に少しずつ飲み込み様子をみる。何ともなさそうだ。

 彼女はゆっくりと一つを食べ終え、また少し水を飲むとそこで止めておいた。食餌が日に何度差し入れられるのかが分からない。彼の真意が図れないことには、常に余裕を持っていたかった。

 

 少し身体を動かすと、昨日の痛みは薄れつつあった。床に落としていた木剣を握る。手のひらが痛むがどのみち他にすることはない。これがあるということは、鍛錬しろと言うことだ。

 彼女は、床から突き出している囚人用の杭を相手に、木剣を振り始めた。昨日のような無茶はせず、自分の身体を感じながら、セフィールの代わりだと思い込むと、手と目つきに力が籠る。疲れたら休む。身体の緊張が全て解けてしまわないうちにまた始める。それをくり返す。柑の実は二つとも食べた。

 そして三日目が暮れた。

 

 その夜、クリシアは眠るか眠らないかを考えていた。昼間は感じなかったが、暗くなるとやはりあの地下牢が目の前に迫ってくる。怖くて息が早まった。昼間の疲れで手足は棒のようだが、意識は冴えて眠れない。

 何度か用を足したせいで、牢内には悪臭が漂い始めている。それが、真っ暗闇にあの地下牢ではないかと錯覚させた。今にも男たちが入ってくるような気がする。そして、それから始まるあの思い出したくもない行為の数々。それを男たちに媚び入り平然としていた自分が、この世にいるべき価値の無い者であることを痛烈に感じる。

 目を瞑り耳を塞いでも、それは語りかけてくる。短剣の一振りのでもあれば今にも咽喉を突いてしまいそうだ。


 ――短剣。


 そうだ、あの夢の短剣。彼女はまた思い出した。あれから何度か見るたびに、あの短剣は次第に現実味を帯びてくる。それが何なのか、彼女にはまだ分からない。

 

 やがて、意識がふわふわと漂い始めた。白い月が見える。彼女は裸だった。いつ服を脱いだろうか。悪寒を感じて後ろを振り向く。あのたくさんの腕が、鞭のように迫ってくる。身体中にまとわりつく。穴と言う穴に潜り込んでくる。


 やめて、と叫びたかった。あの短剣が手に触れた。セフィールに教えられた通りにそれを振るい、触手を次々と切り裂く。股間に蠢くそれに突き立てる。男の顔が見えた。頬にあばた傷がある。あの男だ。地下牢にいた頭目の手下。彼が叫ぶ。声は聞こえない。だが、クリシアにはそれがやめてくれ、と言っているように思えた。

 

 悲鳴を挙げて飛び起きた彼女は、しばらく荒い息のままじっと向かいの壁を見つめていた。いつの間にか眠っていたようだ。


 首を回して見上げると、天窓の外は白茶けている。日の出の頃だ。あの夢はさして長くはないように思うが、起きるといつもそれなりの時が経っている。不思議なものだ。


 そして、私が剣を突き立てたあばた面の男。あれはなんだ。まさか、私はあの男を刺したのか。地下牢から逃げたときの記憶が戻ってきたのだろうか。

 だが、もし私があの男を刺したとして、ではあの短剣は、いったいどこから来た。

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