メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第四十六話 悪鬼再び ―前編最終話―

公開日時: 2021年6月9日(水) 22:00
文字数:3,650

【メルロドスの杖 ―血を纏う騎士―】前編 完

 二日後、城館に戻った二人は皆に出迎えられた。


 往復の道のりも合わせ、ひと月近くも留守にしていたことになる。トレスもオルテンも使用人たちも、皆安堵の笑顔をたたえていた。

 クリシアの下ろした荷物をレントールが受け取り、イリアがかいがいしく汚れた服を掃う。


 彼女がセフィールを振り返る。ここで何を言えば良いのか。余りにも様々なことがありすぎて、今はまだ整理がつかない。

「マーカス、まずは礼を言う」

 クリシアが彼の顔を見た。だがすぐに視線を下ろしてしまう。そして今度は、今日までの日々をまるで懐かしむかのように、一つ一つの出来事を思い出し噛み締めるようにしながら、もう一度礼をつぶやいた。


 セフィールは目を伏せた彼女を見ていたが、やがて口を開いた。

「俺も一つ学んだことがある」

 皆が興味深く彼を見る。この男にしては珍しく殊勝な言葉だ。クリシアも眼を上げ、何を言うのか待つ。

 

「女に、いびきのことを言ってはならんのだな」

 

 意味が分からず、皆の視線が泳ぐ。その眼の前で、クリシアの顔つきだけがみるみる変わった。

「このっ……ばかもの!」

 震える声で叫ぶと、足早に館に入ってしまう。セフィールは彼女の元気に安心した様子で、そのまま帰っていった。

 

 使用人たちはしばらく見送っていたが、やがてソルティニが誰にともなく口に出した。

「今のは……何だ?」

 ポルコフもつぶやく。

「まさか、戯言ざれごとか」

 皆が顔を見合わせる。あの男が冗談を言ったのか。

 

 クリシアは、自室の窓から小さくなっていくセフィールの後ろ姿を見つめていた。戸口に近づいたトレスの足音に振り返る。

「長い間心配をかけたと思うが、この通り私は元気だ」

 彼女の目的を察していたクリシアが、先手を打って微笑む。目聡いトレスは、すでにクリシアの変化に気づいている。何より顔つきが違う。血色もよく、目の下の隈はとれ頬にも肉が付き始めていた。心も身体も、健康を取り戻しつつあることは間違いない。改めてマーカスの力に驚きつつ感謝もした。と同時に、最も気がかりな点を彼女に問うべきか否かは思い悩む。

 それが自分の務めではあるが、しかしそれはあまりにもさまざまなことに関わり、すこぶる言い出しにくい。


「トレス、お前の訊きたいことは分かる」

 立ったままの彼女に、クリシアが口を開いた。

 口元に少し笑みを浮かべながら、だが目元だけは依然とあまり変わらぬままだ。

「案ずるな。一緒にいたからと言って寝所を共にしたわけじゃない」

 最後の一夜の件は誤魔化した。わざわざ心配させることもない。トレスは嘆息すると、一言だけ言った。

「それは、安心いたしました」

 本心は別だ。そもそもクリシアの言うことをすべて鵜呑みにはしていない。今の話が真実なら、いびきなぞと言う言葉は出ないはずだ。

 だが、彼女が嘘をついていないことは分かった。少なくとも、男女の仲にはなっていないだろう。とはいえ、それが良いことなのか、今のトレス自身にも分からなかった。

 そして、クリシアは元気になれたことで、先々別の悩みを抱えることになるのではないか、あるいはそれはもうすでに彼女の中に芽生えているのではないか、という思いも、心の中には生まれていた。

 

 小屋に帰ったセフィールは、荷物を片付けると寝台に腰を下ろした。久しぶりに一心地をつく。

 正直な話、ここ数日間は一瞬たりとも気が抜けなかった。クリシアの気迫は、彼をそこまで追い詰めるほどに育っていた。万全とは言えない体調でありながら、並みの者には到底無理な域にまで彼女は弱音を吐かずに付いてきた。あの女の天稟はかなりのものだと驚嘆せざるを得ない。戦士として考えるならば、男でないことが唯一悔やまれる。女に生まれたが故に彼女は大きな代償を背負い、それは生涯憑りついたままだろう。

 

 セフィールは、最後の夜のことを思い返した。真実を言えば、彼はほとんど夜通し起きていた。クリシアがあの地下牢でどんな状態になるのか、それが知りたかったとも言えるが、今思えばそれとは違う心情も混じっていた気がする。

 俺はあの女を案じていたのだろうか。そんな心が俺にも芽生えていたのか。

 

 彼の目の前で、クリシアはしばらく寝付けなかったようだったが、やがて柔らかな寝息が聞こえ、そして突然それが喉の奥から絞り出すような呻き声に変わった。ゆっくりと身を起こし彼女の様子を見る。暗闇だったが、夜目の利く彼にははっきりとクリシアの姿が見えた。何かに圧し掛かられ潰されそうになるのを必死で耐えているような、荒い息遣いだった。どうするか逡巡した揚句、意を決して彼女の頬に触れてみた。じっとりと汗ばんでいる。手巾を出すとそっと額を拭ってやった。

 

 眠りの中でさえ、落ち着くことはできないのだな。

 

 頬の赤い傷から、痣の残る首筋へと順に手を下ろしていく。我知らず、あの時の言葉をまた口にしていた。

 

 ――安心しろ。お前はまだ闘える。

 

 目を覚まさないかと心配したが、やがて彼女は落ち着き、そのまま朝まで眠っていた。改めて、女と隣り合わせで横たわるのは初めてだと思い返す。思ったほど緊張してもいないのは、相手がクリシアだからか。

 時おり聞こえる彼女の微かないびきすら、彼の耳には心地よかった。

 

 頭を今の自分へと戻す。これからどうするべきなのか。このまま留まっていることが、いつかクリシアたちにとって思いもよらぬ災厄をもたらすような気もする。だが、今ここで彼女を見捨てることはできない。昔の自分では思いも馳せなかったであろう葛藤に、彼もまた変化を求められていた。

 

 セフィールは立ち上がると小屋の木戸を開け表へと出た。目の前に広がる畑を眺める。俺はいつまでここに居られるのだろうか。夕暮れ時の畑に穏やかな風が吹く。その風は、夏の終わりを告げるように涼やかで、少し乾いていた。

 

――――――――――――――――――――

 

 オラードと旧ヴェナード領との国境は、今では街道沿いに形ばかりの関所だけが残り、身分を明らかにすれば誰もが行き来できるようになっている。だがともにオラードの統治となったことで農政の格差も薄まると、生まれついた土地を離れる民もさして増えず、日に数人の旅人が通るだけという寂れた路もあった。関所の兵士などは暇な日常をもてあまし、夜ごと持ち場を抜け出しては、村はずれの居酒屋で一時だけの歓酒に酔いしれる。一昨年までの戦乱も、今では遠い昔と同じだった。

 

「ドゥーリコ! 何してるんだい。さっさと薪を取っておいで」

 夜も更けた居酒屋から、耳障りな女の声が表にまで届いてきた。木戸が開き、その一瞬だけ中の喧騒が暗い戸外へと流れ響く。

 

 下働きの少女は、後ろ手に木戸を閉めると店の裏手に積まれた薪の山へと向かった。表に灯りはない。夜風はもう肌寒く、近隣の家々は皆寝静まっている。草叢で鳴く虫たちに、地面を踏む自分の靴音の他は、壁を隔てて微かに漏れ聞こえる男女の嬌声だけだ。

 月明かりの下、細い両手に持てるだけの薪を抱え上げ、出て来た木戸に向かう。が、石塀の角で躓き、薪の束がばらばらとこぼれた。

 いけない、ぐずぐずしてるとまた女将さんに叱られる。

 慌てて拾い集める。

 

 太い薪が一本、暗い通りの中ほどにまで転がっていた。小走りに駆けより掴み上げる。身体を起こした時、初めて目の前にいる小山のような影に気づいた。

 驚いて立ちすくむ。通りには誰もいなかったはずなのに。恐る恐る見上げた少女を、馬に乗った巨大な人影が見下ろしていた。

 

 月の光を背に、頭巾をかぶった顔は真っ暗で、まるでぽっかりと空いた洞穴のようだ。だが周囲の光をすべて飲み込んでしまいそうなその暗闇から、自分を刺し貫くほどの鋭い視線を感じ、少女は思わず身震いした。

 馬に括り付けられた重厚な戦斧が鈍く光る。


 兵隊だ。でもこんなに夜遅く、どうしてこんな道を通るのだろう。

 

 気付くとその後ろにも二頭、馬に乗った人影が続いている。オラードには珍しい曲がった剣を佩いた一騎に、三頭目の馬の背からは槍のような長い柄がそそり立っている。

 いずれも無言で、しかも馬の鼻息すら聞こえない。目の前にいるのに、生きている人馬とは思えなかった。

 

 幽霊だ。戦争で死んだ兵隊が彷徨い出て来たんだ。

 

 背筋がぞわぞわとさざめき始める。見えない視線が、身体に潜り込んで来るのを感じた。視線がこの小さな身体の奥底までを侵し、自分が誰なのか、どんな者なのかを隅々まで索っていく。

 少女は泣き出しそうになった。見てはいけないものに出逢ってしまった気がした。

 

 べそをかき始めた少女を見て、先頭の影が顔を通りの先へと戻す。馬がゆっくりと歩きだした。恐怖に震える少女の前を、三頭の馬に乗った兵士が無言のまま通り過ぎて行く。

 少女は泣きながら首だけをゆっくりと廻し、去っていく三騎を見送った。余りに恐ろしく、目の前から消えてしまうまで逃げ出すこともできない。


 やがて彼らの姿は、闇の中へと溶け込んでいった。

 やっと心が落ち着き、店の中から腹立たしく自分を呼ぶ声が聞こえても、少女はしばらく動けなかった。

 


【メルロドスの杖 ‐血を纏う騎士- 前編】 完

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