クリシア様が、丹精を込めて作っております……それが一番の理由かと
晩夏へと移り変わる日差しの下、モルトナの畑で、女たちが皆汗をたらしながら終わりに近づく収穫にいそしんでいた。
この作業が終われば、しばらくの休閑季が訪れる。最後のもうひと踏ん張りと、皆精を出して作物を刈り入れる。クリシアも混ざっていた。
彼女の生活は、あの日以来大きく変わっている。
朝起きると、手早く身支度をして一頭立ての荷馬車を自ら駆って畑まで行く。風呂は夜入ることに変えた。どうせ泥だらけの汗みずくになるのに、わざわざめかし込む必要もない。髪は後ろで束ね、もう左頬も隠さない。もともと嫌いだった化粧も止めた。
畑に着くとセフィールの作業を手伝う。初めのうちは、毎日が己の肉体との闘いだった。痩せた身体に無理をしてもすぐに息が上がり、物も持てず、土の上に倒れ込んだこともたびたびだ。その都度、畑を手伝う小作の女たちが介抱してくれた。
皆に迷惑をかけてばかりの役立たずと、彼女は自分自身を責めたが、以前のようにそれで諦めることだけはしなかった。
彼女ができるか否かに関わらず、仕事は次から次へと山のようにある。畑の草取り、虫払い、間引き、肥やり。
クリシアは、己の体力や立場をわきまえ、セフィールや周りの女たちに頭を下げながら日々いろいろと教わった。朝は一番に畑につき、セフィールと共に作業の下ごしらえをする。自分にできることを探し、どんな半端仕事でも嫌がらずに引き受ける。初めは恐々と接していた女たちも、彼女の今の人となりを知ると徐々に打ち解けていった。
やがて少しずつ体力も戻ってきたが、畑仕事に慣れないクリシアにセフィールも女たちも自尊心を傷つけない程度に気を遣ってくれ、彼女もそれを素直に受け入れる。以前なら言下に突っぱねていたであろう他人からの施しを、今は恐れずに聞き入れられる。
セフィールは、館の馬小屋から出る馬糞を厩肥にしていたが、それ以外にも近隣の農家から出た人糞も集め発酵させていた。
畑の外れにある肥小屋は近寄るとすさまじい臭いに誰もが辟易するが、この畑の作物の出来が素晴らしいのは、こうして作られる特別な肥のおかげもあるようだ。事実、館の花壇用にと臭いを抑えて作ったものをポルコフが使ったところ、花の咲き具合も良くなったらしい。セフィールは農地の手伝いに来る女たちにも肥の造り方を教えている。
畑に使い作物の実りをよくするものと、花の付きをよくするものはまた違うと彼は言っていた。この男は錬金術師のようなものだな、とクリシアは思った。
セフィールが蒸留して作る生薬の手伝いをすることも増えた。
彼が寝起きする小屋の裏手には、蒸留小屋の脇に新たな小屋が立ち数々の薬草が貯蔵されている。セフィールは、農作業の合間を縫って出かけては新たな薬草や木片、樹脂などを山ほど調達して来る。
今では、種から育てた幾種類かの薬草の苗も畑に植えられている。金の出所を問うクリシアに、兵士だった頃の給金の蓄えだといっていたが、彼女も余計な詮索は控えた。
小屋の中は多種多様な香りが混ざり合い、初めは気圧されたが、慣れてくるといろいろと嗅ぎ分けられるようになった。クリシアがそれぞれの名前や効能を問うと、セフィールは口数が少ないながらも返してくる。
農作業や薬草を介して、二人の会話は少しずつ増えて行った。
抱えきれぬほどの薬草を蒸留釜に入れても、滴り落ちる溶液は本のわずかだ。そのわずか数滴の液をセフィールは何にもまして大切なものの如く扱い、少しずつ溜める。
一緒に出た蒸留水にも薬液は溶け込んでおり、ほのかに香りがした。それは溜めておけないため、クリシアの館や、小作女たちに分けてやることもある。風呂に使うと身体によいし、洗濯に使うと毒消しや虫避けになるものもある。
裏表も分け隔てもなく、誰にでも等しく接するこの男の性だからこそ、女たちはむしろ信頼を高めているのだろう。
夕刻になり館へと戻ると、一日の作業で汚れた身体を洗い、へとへとになった身体を休める。帰ると真っ先に風呂へと浸かる。
泥だらけのまま部屋には入れず、何よりセフィールの肥を扱った日は彼女の傍に誰も近寄りたがらない。厩舎や馬糞には慣れているポルコフやレントールでさえ閉口した。
彼女自身も申し訳なく思うが、服を着たまま風呂部屋に行き、脱いだ衣服を自分で洗っていると、騎兵だった頃が思い出される。悪い気はしなかった。
収穫される野菜は館の食事に使う分を除き、叔父の城に届けられる。聞くところによると大層評判が良く、叔父、叔母を初め、城の者には喜ばれているらしい。さして農作業の手助けができているわけでもないが、自分が関わった作物が人に喜ばれることを、クリシア自身も働き甲斐と捉え、それが日々の充実感ともなっていた。
叔父のベルーノには、トレスが定期的にクリシアの様子を報告している。彼女をなるべく刺激しないようにと、当初は訪問を控えていたベルーノだったが、最近はめっきり元気になったと聞き、ある日訪ねてきた。さすがにこの日ばかりはクリシアも無難な服装をし、今の生活を語る。
叔父は、明らかに表情の良くなった姪の話に終始笑みを浮かべながら聞き入っていたが、畑の視察では早速セフィールに眼を止めた。
「この男が、例の小作人か」
付き従っているトレスに聞く。
セフィールがここに移り住んだ時点で報告していたが、面倒なことにならぬようにと詳細は控えてある。ただ優秀で信頼できるとだけの説明に、ベルーノは、トレスの眼に叶ったならばと納得していた。それが今回の件で証明されたこととなる。
領主の前に立ったセフィールが、黙って会釈をする。傍らでクリシアは内心はらはらしていた。この無愛想が叔父の不興を買わなければ良いが。
「農家の出とも思えぬが、どこの出自だ?」
叔父の問いに、彼が直答の是非を尋ねるような眼でトレスを見る。
「構わんぞ。直接わしに申せ」
「……ルクルドです。従軍もしました」
当たり障りのない応えに、クリシアらが胸をなでおろす。嘘とわかってはいるが、今はこの答えが何よりだ。
「そうか。お前の作る作物は格別に美味い。何かこつがあるのか」
そう訊くベルーノに、セフィールが答えに窮す。そもそもこの男は会話というものが下手だ。クリシアが横から助け舟を出す。
「肥です。特別なものを使っています。それに土の鋤き方や作付けなど、難しいことも彼は良くこなします。叔父上」
「なるほど。野菜も人と同じで、丹念に世話をすればよく育つな」
頷くベルーノに周囲がほっと安堵したとき、セフィールの声がした。
「クリシア様が、丹精を込めて作っております……それが一番の理由かと」
クリシアもトレスも目を丸くする。この男が世辞を口にするとは。だが一人気付かぬベルーノはその言葉に満面の笑みで何度も頷いた。得心のいったように畑を後にする。
叔父に付き従いながら、クリシアが畑に立つセフィールを一度振り返る。だが、その視線が自分を向いていることに気づき、慌てて前を向く。
あの男が私の世辞を言った。叔父の前で私を褒めた。彼のたった一言に、彼女は顔が火照って仕方なかった。
翌朝、クリシアとともにトレスがやってきた。昨日ベルーノは大層機嫌を良くして帰り、クリシアの変化の陰にセフィールの存在があると知って、褒美を与えたいと言い残したという。
「あなたにはあまり物欲というものが無いと思いましたので、即答は控えました」
一足早く畑に出たクリシアを眼で追いながら、傍らのセフィールに問いかける。
「ですが、何か不足しているものはありますか?」
彼はしばし考えていたが、やがてぼそりと、通行札が欲しいと言った。
「今の身分札では遠出はできない。生薬を探しに他国にも行けるようなものが欲しい」
トレスはしばし考えた。率直に言えば、この男は得体のしれないまま偶然の出会いでここに居る。そんな男に領主が認める通行札を渡してよいものだろうか。だが、彼は自分らの、いや少なくともクリシアの不利益になるようなことはしないはず。その確信が彼女にはあった。
「分かりました。手配してみます」
しばらく沈黙が続く。二人は畦道から畑のクリシアの様子を見守っていたが、不意にセフィールがトレスに訊いた。
「トレス。クリシアをしばらく俺に預ける気はあるか?」
唐突な言葉に彼女が振り返る。隣の男の姿を矯めつ眇めつ見ながら訊ねる。
「もう少し詳しく話してもらえますか」
そう言うトレスに、セフィールが説明した。畑の収穫は終わり、これからしばらくは痩せた土地を休ませねばならない。今なら彼女の介添えに力を割いても良い。ただし、ここではなく自分の選んだ地でやりたい。
「貴方が選んだ地とはどこです?」
その問いに、セフィールは館から馬でも丸一日はかかる山の名を出した。
「泊りがけですか?あなた方二人きりで」
「そうだ。ひと月ほど」
トレスの動きが止まる。
確かにこの男は信頼できる。だが、突然の申し出に適切な答えが浮かばない。心配というなら、むしろクリシアの方にその要因がある。
「……なぜ、そうしたいと思うのです?」
セフィールはしばらく言葉を選んでいるようだったが、やがて口を開いた。
「この館でお前たちに世話をされていては、変われないこともある。あの女は元兵士だ。自分の身の回りの世話も野宿もできる。そういった暮らしに戻すことも必要だ」
トレスは考え込んだ。確かにセフィールの言うことは分かる。だが今のクリシアがそれに耐えられるのか。この男が手助けするにせよ、そう急いてすることとも思えない。ただし、もしこの話をクリシア自身が聞けば、一も二もなく喜んで賛同するだろう。それだけは分かり切っている。
「一晩考えさせてください」
そういって彼女は立ち去った。
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「フィオレント殿」
王宮の回廊を歩いていた彼の後ろから、聞き覚えのある声がした。誰かは分かるがあえてゆっくりと頭を回す。近寄ってくるオームに、フィオレントが会釈する。
「ケイロンズ卿の代理でお出でですか」
「然様です」
余計なことは加えずに返答する。オームが、花の盛りも終わりに近づく庭に目をやりながら言った。
「やっと、暑さも峠を越しましたな」
「はい」
「と言っても、もうしばらく経てば、ファジーナでは寒くなり始めるでしょう」
「然様です」
「お互い、冬は足止めを食いますな」
取り留めの無い世間話をしつつ、彼はフィオレントの出方を探っているようだ。オームの領地クゼーロはファジーナより南に下った隣郡で、降雪量こそファジーナほどではないものの、同様に寒さは厳しい。冬に身動きが取れず、南方に比べ農地の作高の少ないことは、彼らが権力を拡大したい主たる要因ともなっている。
「ときに、モルトナの件ですが」
会話に間が持たなくなったと感じたオームが、ついに切り出した。
「その後、何か新しい話なぞは出ておりませんか?」
オーム卿がこの問いをしたことは、たまたまここで出逢ったが故の偶然か。それとも何か魂胆があるのか。ともあれ彼は首を横に振った。
「はい。今のところは格別何も」
「なるほど……」
心残りのある顔つきのオームに、だが彼は一言付け足した。
「ですが、何かあればまた報せが参るでしょう。我が主も気を配っております。手抜かりはございません」
「それは有難い。ぜひ、よろしくとお伝えください」
慇懃に礼を言って立ち去るオームの後ろ姿を、フィオレントが見送る。
この男はモルトナと言った。
バレルトでもなくアンブロウでもなく、娘の居るモルトナの名を口にした。この意味とは何だ。
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