砦で過ごす最後の晩、二人は地下牢にいた。
毎日の稽古、鍛錬に、クリシアは余計なことを忘れることにした。今は目的に向けて進むのみ。
やがて彼女の腕が上がってきたと見たセフィールは、一つの勝負を提示した。
起きている間であれば、いつどこでもよい、自分を木剣で打ち据えてみろ、と彼は言った。
不意打ち、騙し討ち、何でもありだ。もし身体のどこかにでも木剣を当てられたら、何でも一つだけクリシアの要求に従うという。クリシアが、顔はいつものまま、だが心中では俄然闘志を燃やす。この男にやり返す絶好の機会が訪れた。
だがもちろんのこと、彼女が思ったほどに甘いものではない。まず剣を教わりながらの鍛練中には、打ち込む隙なぞありはしない。しかも、わずかでも素振りを見せればセフィール自身が容赦なく打ち込んできた。俺が打ち返さないとは言っていないぞ。彼は平然とうそぶいた。
不意打ち、騙し討ちも厭わないと言われたが、調理や食事の最中に仕掛けることは彼女の自尊心が許さない。
それでも一度、井戸で水を汲んでいるセフィールの後ろから詰め寄ったことがある。半分は戯れだったが、振り下ろした木剣を水が入ったままの桶で難なく打ち返され、頭からたっぷりと水を浴びせられた。
クリシアの腕は確実に上がっている。食事の量も増え、体つきも変わりつつある。そして何より、常にセフィールの隙を突こうと付け狙ううちに、戦士にとって最も大事な野性ともいえる闘争心と緊張感が彼女の中に蘇ってきた。彼女自身、日に日に気力が満ちてくることを感じ始めている。
いつどこに居ても、常にセフィールの動向には目を見張った。それは城外でも同じだ。薪を拾いに行く時も廃物を捨てる時も、常に付かず離れず様子を伺う。
セフィールがまた沼に行くと言って出掛けたときは、用事を言いつけられたにも関わらずこっそり後を付けることにした。始終付け狙っていたこともあるが、この男がどうやって水鳥を仕留めるのかも見たいと思った。
気のせいか、沼に着いてこられるのを警戒しているようにも思う。そういえば、手桶を持っていたが何に使うのだろう。
セフィールが歩き去った後でしばらく間を置き、方角に当たりを付けて後を追う。しばらく進むと立ち止まり、手掛かりがないかと探る。
何度目かで耳をそばだてたとき、遠くで水音が聞こえた。落ち葉を踏む音に気を配りながら、ゆっくりと進む。やがて遠目にセフィールの後姿が見えた。その向こうに暗く静かな水面が広がる。
深い森の中、ひっそりと水を湛えた小さな沼の淵に、彼は佇んでいた。
もう少しよく見ようと慎重に近づく。
そのとき、ゆっくりと振り向いたセフィールの眼光が、いくつもの梢を貫きまともに彼女の眼を射抜いた。
息が止まる。これだけ離れた私の気配に気づくのか。
一気に肩の力が抜けた。何も言わずにまた水面に目を移した彼の後ろで、クリシアは悪戯を見つかった子どもよろしく、そろりそろりと近づいて行った。
彼女がすぐ後ろまで来ても、セフィールは無言のままだ。獲物を仕留めるのに音を立ててはいけない。クリシアも不動のまま佇む。
突然、水の撥ねる音がした。彼が手に持った長い枝を水面に突き立てたようだ。引き上げると傍らの手桶に差し込む。何をしているのかは身体の陰で見えない。覗き込もうと首を伸ばしたクリシアに、後ろ向きのままセフィールの声が聞こえた。
「なぜ追けてきた」
もう話しても良いらしい。
「お前が……どうやって鳥を捕るのか見たかった」
正直に話す。だが彼は後ろを振り向くとクリシアの顔を見ながら言った。
「ここに鳥はいない」
「では何をしに来た? 水鳥を捕りに来たのではないのか」
黙ったままのセフィールとの間に、おかしな気が漂う。
「あれは鳥じゃない」
その言葉にクリシアが困惑する。鳥の肉ではない。では何だ。
足元の手桶でごそり、と音がした。
彼女が近づく。ふと、見ないほうが良いような、何とも言えない気持ちが起きる。だがここまで来てしまったからには答えを知りたい。そっと手桶の上から覗く。
中には、人の手ほどもある蛙がいっぱいに詰まっていた。
「お前……まさか、これを私に食わせたのか?」
その夜、食事の卓にはそれまでと同様、蛙の脚の串焼きが上っている。
香ばしく漂う匂いを嗅ぎつつクリシアは無言だ。目の前で、セフィールは平気で口にしている。道理で鳥にしては細すぎると感じたはずだ。
確かに蛙や蛇もいざとなれば食べられると知ってはいたが、今まで食べたことはなかった。まして捕らえた蛙をセフィールが目の前で捌き味付けし、焼くところまで見た後では、今までと同じ態度でいることの方が難しい。
文句の一言も言ってやりたいが、彼女は黙っていた。今まで鳥肉だと信じて疑わなかった。そして、なまじの山鳥なぞよりずっと美味であることは間違いない。彼が黙っていたのは、蛙だと知れば食べる気が失せると確信していたからだろう。
折角黙っていてやったのに。セフィールの顔がそう言っている気がして、正面から見られない。
意を決して串代わりの枝を掴む。
昨日まで何度も食べた。この肉のおかげで私は変われた。そう言い聞かせ強引に口にする。頭は一瞬戸惑ったが、口の中に広がる味わいはこれまでと同じだった。何度も噛み締め飲み下す。全てが私の血と肉になるように。
そう祈りながら、食事を続ける。
一つ一つの出来事が、彼女の身体と心をこれまで考えられなかったほどに鍛えていることは事実だ。砦の生活にも慣れ、どこに何があるかも全て覚えた。日課は精いっぱいこなす。セフィールには相変わらず打ち込めないが、そればかりを考えることはやめた。目の前に大きな壁があればこそ、これからもそれに挑み続ける心が生まれる。
彼女は、セフィールから教えられる全てをいかに己のものとするか、それのみを考え、彼に挑んだ。
それからの日々はずっとそんな調子だった。
そして、館から持ってきた食料が底を尽いた日、セフィールはこの砦での稽古の終わりを告げた。終に木剣を打ち込むことはできなかったが、それでも彼女は納得した。
――――――――――――――――――――
その夜、夕食を終えたクリシアは、ある決心をしてセフィールの許へと向かった。厩にはおらず、郭へと探しに出る。見える範囲にはいない。
耳を澄ますと微かに水音が聞こえる。音の方へと歩み出すと、城壁の陰にちらちらと灯りが見える。松明を灯したセフィールが水浴びをしているのだろう。
どうする。出直すか。戻りかけたが、途中で足を止める。佇む彼女の脇には、城壁沿いに作られた石段が上へと続いている。
しばらく考え込んでいたが、やがて足を忍ばせつつ石段を上り、城壁の上の歩廊へと出た。身を屈めながら進んでいく。あの男の後ろ姿が見えた。見つからないように暗がりに屈みこみ、首を伸ばしてそっと覗く。
彼は裸で立ち、桶の水をかぶりながら手布で拭っていた。
クリシアの顔が火照ってくる。
私はいったい何をしている。男の水浴びを盗み見るとは、恥知らずにもほどがある。だが彼女にとって、あの得体のしれない男のありのままの姿を見られる機会はほとんどない。
今日が終われば、また別々の暮らしへと戻る。セフィールが今までどこで何をしてきたのか、どんな些細なことでも良いから知りたいという気持ちは、抑えが利かないほどに強かった。
松明の炎に半身を照らされた彼の身体は、予想していた通りだった。無駄な肉は全くなく、と言って筋肉で膨れ上がっているわけでもなく、引き締まってしなやかな身体は、例えるならば獣のようだ。そして身体中を覆い尽くす傷跡。
クリシアが息を飲む。彼女の身体にも、頬以外にいくつもの目立つ傷がある。修業時代に付いたもの、戦の中で付いたもの、そして、囚われていた時に男たちに付けられた傷痕だ。
だがセフィールの身体の傷は、比べ物にならないほどに全身を覆っている。分かってはいたが、これほどとまでは思わなかった。まるで、剣で埋め尽くされた野を何のためらいもせずに突き進んできたかのようだ。
そう思ったとき、急に彼女の心が萎えた。
あの男の過去は知れない。だが、少なくともセフィールが今まで死と隣り合わせで生きてきたことは間違いない。そこには誰にも分かることのできない深い苦悩があったはず。
これはあの男に対してすこぶる無礼なふるまいだ。己の恥部である過去を必死に隠し続けてきた自分が、無暗に余人の過去に触れることは許されない。
彼女は恥ずかしくなり、来た時と同様忍び足で歩廊から降りた。
セフィールが水浴びを終え、松明を手に厩に戻ると、戸口にクリシアが立っていた。彼の顔を見るなり声をかける。
「特にすることがなければ、一緒に来てくれるか」
彼の手から松明を取り、先に立って進む。彼女が向かった先は、あの地下牢だった。
彼女が先立ち中へと入る。用を足していた片隅には、数日前から水を流し土を撒いた。多少は臭いも抑えられただろう。やはり女としての恥じらいはある。煙で燻して虫除けもした。
彼女は振り向くと言った。
「今夜は、ここで過ごしたい」
セフィールの顔を見つめる。
「わかった」
頷いて出て行こうとする彼を慌てて止める。
「お前にも一緒にいて欲しい」
彼はしばらく無言だった。
「だめか?」
探るように顔を見る。
「いいだろう」
砦で過ごす最後の晩、二人は地下牢にいた。
日中から曇っていた名残で夜空には月もない。クリシアの望みで寝藁も敷布も持ち込んでいなかった。二人とも、ごつごつとした固い地面にそのまま横たわる。通気が悪く松明は持ち込めないため、中は暗かった。
クリシアはなかなか寝付けない。今日も身体はくたくたのはずなのだが、無性に気が張り眼が冴えている。傍らにあの男がいるせいだ。暗がりに姿はほとんど見えないが、ひしひしと存在を感じる。身じろぎもせず横になっている。寝息一つ聞こえない。
寝ているときでさえ私を圧倒しているな。
彼女は後悔し始めた。なぜ一緒にいて欲しいなどと言ってしまったのか。一人の方が気が楽だったのではないか。だが、この男と共にいればこの地下牢がまるで違うものに思える。あの恐怖も孤独も消えてしまう。
やがて意識が遠のいて行く。彼女は夢うつつのまま、またあの不快な腕たちが伸びてくるような気がした。払っても払っても腕は纏わりつき、やがて彼女の自由を奪うと思うが儘に蠢く、だがそこにあの声が聞こえた。
安心しろ。お前はまだ闘える。
その声が腕の群れをかき消し、彼女の身体に空いた孔を埋めていく。
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