彼らはまだフェルゾムの真の恐ろしさを知らなかった。
ササーンが、一心不乱に馬を走らせる。
早くしなければ出し抜かれる。手綱を振るって馬を駆りたて、東に広がるスヴォルト軍を駆け抜ける。
奴らが火薬を使うのなら、この計略は予想しておくべきだった。
ザクスールの騎兵を北面から離すことが目的か。馬を駆るササーンの目の端で粉塵が上がり、鈍い爆発音が聞こえた。先ほど落馬したフェルゾムの自爆だ。どこまでも我々を見下している。苦々しく思う彼の後ろで、断末魔の爆発音がまた響いた。
城を左手に見ながら、全速力で北側に続く斜面を駆け降りたササーンに、崩落した崖が見え始める。大量の土砂がなだれ落ち、土煙が城の北側全体を覆っていた。ふもとの歩兵部隊が退却していくのが見える。
してやられた、とササーンは思った。フェルゾムは、オラードとスヴォルトに攻撃を集中させると見せかけ、ザクスールの軍勢が手薄になったところを北側から逃げる手だ。だが、それにしても半数以上を囮に使うとはおかしい。上位の者だけが逃げる気か。フェルゾムらしくない。
彼らが何を考えているのか未だ見当がつかない。だが今は目先のことが重要だ。ザクスールの包囲を破ってフェルゾムが逃げたとあっては、この同盟での我らの面目は丸つぶれとなってしまう。
スヴォルト軍から離脱した騎兵隊も、自軍へ向かって必死に馬を走らせる。
彼らの眼に、崩落した崖から転がり落ちていく数個の物体が見えた。麓のザクスールの陣を断ち割るように転がり、そこかしこでもうもうと白煙を上げ始める。大型の煙玉だ。あれに紛れてフェルゾムが城を出てくるはず。
ササーンが馬上から、脇を駆ける側近に命令した。
「騎兵の弓隊を率いて崖まで行け! 射程内に入ったら崩落部分を狙って矢を放て!」
弓隊が向きを変え、一直線に崩落した崖へと向かう。だが矢の届く距離となる前に、斜面に動くものが見えた。立ち込める煙の中を、何かがザクスール軍に向かって駆け降りていく。
間に合わなかった。
ササーンは歯噛みした。ここからでは自軍への指示も出せない。そして斜面から流れる煙でザクスールの重装歩兵隊が覆われ始めたとき、突如として一隊の騎士団が煙の中から飛び出した。
前衛の歩兵が蹴散らされ、血しぶきが上がる。
「フェルゾムだ!」
その悲鳴に近い叫びは、ザクスール軍の歩兵部隊に瞬く間に広がった。
一昨日から噂しか聞かなかった彼らは、今初めてフェルゾムの騎士を見た。全身を血に染めたその姿を。白煙の中、怪物の浮き彫りがされた盾を掲げ、禍々しい形の得物を手に突進してくる。
血に濡れた騎士たちは、煙にまかれた前衛の歩兵を突破するとザクスールの陣営に躍り込んだ。甲冑で覆った馬の胴にも煙玉がしこまれ、駆け抜ける後ろにも、もうもうと白煙が流れる。
「弩は使うな! 同士討ちになるぞ!」
弩弓隊の隊長が叫ぶ。
弩は長弓と違い、力を加減し山なりに撃つことができない。水平に近い射角では、この煙の中で味方同士を狙っているようなものだ。重装歩兵が向きを変え、盾と槍で囲い込んで食い止めようとするが、煙に巻かれて視界が乱れ、右往左往する兵士はフェルゾムが走り抜けざまに振るう武器で次々に斃された。
間近に見たフェルゾムの姿は、まさに今まで聞かされていた霧の中から現れる地獄の悪鬼そのものだ。
「防御陣形を敷け!」
「煙を消せ、土をかけろ!」
「弓隊、前進しろ!」
あちこちで怒声の指示が飛ぶ。包囲したものの指揮系統が乱れ、このままではフェルゾムを仕留められない。
「全軍、煙から離れろ!」
やっと自軍の左翼に到達したササーンが命じた。
だがフェルゾムは離れる歩兵たちを追い、ザクスールの陣を縦横に駆け巡る。ササーンは、弓兵に攻撃を命じた。隊長が言い返す。
「味方の歩兵が近すぎます」
「多少の犠牲は構わん。絶対に逃がすな!」
騎兵隊と弓隊がフェルゾムに向けて矢の雨を降らせ始める。
フェルゾムたちがかわしながら、歩兵の合間を縫うように馬を駆る。だが、その騎士たちを追って執拗に矢が降り注いだ、巻き添えになった周囲のザクスール兵が次々と斃れる。
やがて、ほぼ同時に二騎の馬に矢が当たり、騎士たちが落馬した。周囲から大歓声が上がる。
フェルゾムにも矢は当たる。フェルゾムも落馬する。フェルゾムも死ぬ。歩兵が槍を構えて二人を取り囲む。
だが、彼らはまだフェルゾムの真の恐ろしさを知らなかった。
落馬した騎士たちは、立ち上がりざまに槍を捨て、一人が重厚な造りの戦棍を振りかぶると、もう一人が馬の鞍から長大な剣を引き抜き、持っていた盾を歩兵めがけて投げつけた。鋼鉄製の盾が唸りを挙げ、前衛をなぎ倒す。その崩れた隊列を目掛け、二人が猛然と切り込んできた。
長剣を振るうフェルゾムは、柔軟な身のこなしと目にもとまらぬ剣さばきで、間合いの取れなくなった兵たちを次々と切り捨てていった。隣では、盾と戦棍を巧みに操る騎士に兵士たちが打ち砕かれ、血煙りとともに倒れていく。
ひしめき合うように取り囲んだ軍勢の中で、血まみれの騎士が動くたびに兵士の作る輪が移動する。その後に、斃された者たちが無残に転がる。
フェルゾムの長大な剣が右に左にとひらめき、長槍が枯れ枝のように断ち折られ、歩兵たちが甲冑ごと切り裂かれる。戦棍を持った騎士が、兵士の急所を次々と打ち砕く。左手の盾も縁が鋭く研ぎ澄まされ、打ちかかる剣を防ぎつつ斧のように兵士たちを断ち割っていった。
ササーンは、首を回して他のフェルゾムを探した。
落馬した以上、あの二人はいずれ斃せる。兵士の損害はやむを得まい。早く他のフェルゾムも仕留めねば。
自軍のマヨール騎兵団が四騎のフェルゾムを追撃している光景が目に入る。彼らは、ザクスールが誇る最強の騎兵隊だ。一騎打ちはせず、剣と槍とでフェルゾムたちに集団攻撃を仕掛けていく。
彼は素早く計算した。二日間で討ち取ったフェルゾムが二人、スヴォルトとオラードの陣に合わせて十四人、今相手にしている六人を含めて二十二。
バレルトの言った通り二十六人だったとすれば、あと四人いる。どこだ。
城を振り返ったササーンの眼に、またも白煙の中から再び飛び出してくる騎馬が映る。数は三騎。先のフェルゾムに崩された陣営の中を、一直線に駆け抜けていく。
歩兵たちは落馬した二人のフェルゾムに気を取られ陣形が築けていない。その中を三騎が突き進む。先頭を走る巨漢の騎士は、牡牛のように曲がった角の冑をかぶり、大型の戦斧を振るって行く手の兵士たちを次々となぎ倒した。その後ろに、黒い鋼の湾刀を携えた騎士と、長柄の馬上刀を持った騎士が続く。脇目も振らず、北へ向かってまっしぐらに駆けていく。
歩兵を相手にしていた二人の騎士は、彼らを認めるとそれぞれ左右へと分かれ切り込んだ。兵の輪がつられて動く。陣形が割れ手薄になったその間を、あっという間に三騎が駆け抜ける。
「奴らを追えっ、逃がすな!」
そう叫ぶササーンの声も、混乱する兵士の声にかき消される。瞬く間に陣営を駆け去った騎馬を目で追う兵士たちに、くくく、というくぐもった笑い声が聞こえた。
フェルゾムの赤い仮面の下から、その声は聞こえていた。
戦場の喧騒の中にいながら、それははっきりと兵士たちに聞こえた。仮面によるものなのか、それともフェルゾム自身のものなのか、それは人の声などではなく、地の底から聞こえてくるような重苦しい響きがあった。
血まみれの騎士たちが、笑い声を挙げながら周囲の兵を見回す。
突如、宙を跳ぶように兵士に斬りかかった。今までにも増して恐ろしい膂力だった。縦横無尽に剣と戦棍を振るう。フェルゾムたちの上げる笑い声の中で、兵士たちが切り裂かれ、潰され、ひしゃげていく。
恐怖に駆られた弩弓兵たちが弓を射るが、そのほとんどがかわされ周囲の仲間に命中した。太い矢で射られた兵士たちが、血肉を吹き上げながら次々と斃れる。その弩弓兵もフェルゾムの餌食となった。
笑い声と血の狂宴だ。
混乱する兵士たちはただの獲物となり、押し合いながら右往左往をするたびに肉片と化していく。
たちまちのうちに、辺りが屍に覆われる。だが、ついに矢がフェルゾムたちをとらえた。二人の身体に次々と矢が立ち、彼らの動きが止まる。周囲から一斉に槍が突く。
兵士たちの動きが止まり、辺りが静まり返る。二人の仮面の下から赤い液体がしたたり落ちた。フェルゾムの血だ。
仕留めた。フェルゾムを仕留めた。
だが、くぐもった笑い声は止まなかった。そしてそのまま、彼らの手が震えながら顎の下へと差し入れられた。
「いかん! 下がれっ」
歩兵隊長が叫ぶ。その瞬間、騎士たちの身体が爆発した。血と肉片と、そして仕込まれていた鉄球と甲冑の破片が、衝撃と共に兵士たちをなぎ倒す。
煙が落ちつくと、あちこちからうめき声が聞こえていた。鉄片で被弾し、手足を吹き飛ばされた血まみれの兵士たちが転がる。
白煙と、フェルゾムの爆発の煙と、きな臭いにおいが周囲に立ち込める中、ササーンまでもが、最後に残った一人のフェルゾムの存在を失念していた。
――――――――――――――――――――
陣営の中ほどでは、マヨール騎兵団が先のフェルゾムたちを包囲したものの、あまりの強さに手をこまねいていた。切りかかるたびに数名の騎兵が犠牲となり、三十二名の隊のうち、すでに半数近くが斃されている。
そのフェルゾムたちが、新たに駆けてきた三騎を認めると一斉に方向を変え四方に分かれた。その騎士たちを追う軍勢も方々に散らばっていく。それを見たササーンが、慌てて側近に命じる。
「やつらは城から出てきた三騎を逃がすのが目的だ! あれを狙え!」
だが、素早く動く騎兵たちにはうまく号令が届かない。フェルゾムの陽動にはまった騎兵たちの合い間を三騎が駆け抜ける。彼らだけは周囲との戦いを最小限にとどめ、陣内を駆け廻りながら、突破口を探していた。
業を煮やしたササーンが、ついに自ら馬を走らせる。直線距離ではこちらのほうが近い。側近たちが続く。
彼は軍師だが、馬と剣の腕は並み居る武将に引けを取らない。
あのフェルゾムを逃がしては、ザクスールの名は地に墜ちる。何としてもここで仕留めなければ。
必死に三騎を追う。
フェルゾムの騎馬は道を阻まれながら進むため、徐々に距離が狭まっていく。もう三騎は目の前だ。だがとうとう陣に隙ができ、フェルゾムたちが後方の輜重兵陣地に達した。これを抜けられては、裏手に深くつながる森に逃げ込まれてしまう。
三騎は輜重隊の衛兵を蹴散らし、あちこちに張られた天幕や糧食の積荷の間を駆け巡った。武器を持たない馬丁や従者たちが、血まみれの騎士に恐れ慄き逃げ惑う。
たった三騎に後方陣地は大混乱だ。
ササーンらが左右から無我夢中で追いすがる。
追いついた側近の一人が、左手から黒色の湾刀をもつ騎士に斬りかかる。が、騎士は馬上で剣を受け流したとみるや、逆手に持ちかえた湾刀を返しざま、対手の首筋を一閃した。側近が仰向けに落馬する。
それを見たササーンが、馬上刀の騎士へと迫った。
「逃がさんっ!」
渾身の力で剣を振り下ろす。だが騎士はあざやかにかわすと、黒い羽飾りのついた馬上刀を一閃してササーンの持つ手綱を切断した。
残った手綱に首を引かれた馬が右にそれる。脇を走っていた側近の馬と激突し、二頭は騎手ごともつれるように大地へと倒れ込んだ。
痛みをこらえてササーンが立ち上がった時、三騎のフェルゾムはザクスール軍を抜け、はるかに続く暗い森の中へと姿を消して行った。思わず歯噛みをして天を仰ぐ。
逃げられた。逃げられてしまった。
一足遅れでやってきた騎兵隊にフェルゾムを追うように指示したものの、ササーンにはもうフェルゾムを捕まえられないことが分かっていた。せめてすぐに取って返し、残りのフェルゾムを仕留めねば。
馬に乗り自軍に戻ろうとしたその時、ソルヴィグ城からひときわ大きな爆発音が響いた。思わず振り仰いだ城から、真っ黒な煙がもうもうと上っている。
おかしい。占拠しても火はかけない盟約だったはずだ。とすると、あれも奴らの仕業か。
彼は、フェルゾムの数が一人足りないことを思い出した。
これも企み通りか。あの炎の勢いでは城中に入った兵士も皆巻き添えだ。一人でも多くの将兵を道連れに、すべてを灰にしてしまうつもりか。ササーンの心に新たな闘志が沸き起こる。逃げたフェルゾムの責めは追わねばならぬ。ならばこちらも、残るすべての奴らを道連れにしてくれる。
彼は馬に乗ると自軍の中枢を目指した。
だが、城からの煙を見たフェルゾムたちにも、その時異変が起こっていた。
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