今更、あの時の傷は消えない。もう取り戻すことのできないものもある。だが、今の私にもあの時にはなかったものがある。
クリシアが目覚めると、夜明けだった。
セフィールが立って天窓の先の小さな空を見ている。彼女が起き上がった音に振り向いた。
光を背に陰となった彼を前に、改めて心が狼狽える。男と隣り合わせに寝たのは初めてだ。
騎兵だった頃、もちろん野営や時には野宿もあったが、彼女は何くれとなく注意した。間違いが起こらずとも常に周囲の眼がある。痛くもない腹を探られる気はなかった。
だが、昨夜私はこの男の隣で眠り、しかもかなり深く眠っていた気がする。
起き抜けの顔をまともに見られていると気づいて、思わず視線を逸らす。もちろんセフィールはそんな彼女の心中を知ってか知らずか、無言のままだ。この男に目覚めのあいさつなぞ到底似合わない。
彼女は、またあの夢を見たような気がして不安になった。何か妙なことを口走らなかっただろうか。つとめて冷静を装いつつ訊く。
「夕べ、私は何か言っていなかったか?」
「いや。よく眠っていた」
「そうか」
安心しつつ、ふと思った。何故よく眠っていたと分かる。
「お前は起きていたのか?」
そう訊く彼女に、セフィールがいつもの冷静な顔で言った。
「お前のいびきを聞いていた」
顔にかっと血が上る。
「う、嘘をつけ! 私はいびきなぞかかん」
「本人にはわかるまい」
言葉に詰まる。
「もし、本当だとしても……女に向かってそんな言葉は吐かないものだ!」
捨て台詞とともに牢を出ていく。石段を駆け上がる跫が響いてきた。
セフィールが改めて牢内に目を巡らせ、昨日からのことを振り返る。彼女のあの言葉。この地下牢で眠りについた一夜。
ここでの修練は終わりだ。思った通りの仕上がりにはなった。満足して牢を出る。
石段を上り暗い通路を進むと、行く手に内郭への出口が見えた。暗い屋内とは対照的に、人を誘う明るい外。
ふと歩みを止め、しばし様子を伺っていたが、そのまま跫を忍ばせ通路を戻る。右手に空いている別の道を辿り、奥の石段から郭を望む城壁へと出た。上から覗くと、出入り口の脇に木剣を構えたクリシアが潜んでいる。見下ろす彼には気づいていない。
彼は心中で頷いた。
怒りに流されたと見せかけて、いや事実そうだったのだろうが、それを即座に利用したか。俺が油断して出て来るのを待ち構えている。上出来だ。
ゆっくりと城壁の歩廊を回る。やがてその姿はクリシアの眼の端に映った。彼女が素早く振り返る。ばつの悪そうな表情が浮かんだ。その顔から眼を離さず、セフィールが石段を降りていく。
ここに来たのは彼女の心の傷を治すための荒療治だったが、剣士としての鍛え甲斐も感じ始めている。クリシアの決意は、今度こそ実を結ぶかもしれない。
セフィールが石段を降りる。
諦めた表情の彼女に一歩近づいたとき、その足が突如地面にめり込んだ。体勢を崩した彼に、クリシアが宙を跳び襲いかかる。だが、渾身の気迫で打ち込んだ木剣は紙一重でかわされ、難なく両手を抑え込まれた。
セフィールが、膝まで埋もれた落とし穴から脚を引き抜く。地面に掘った穴に細枝を渡し、土と朽葉で巧妙に隠してある。土が落ちないよう細枝の上に張ってあったのは、彼が地下牢の鍵の件を教えたあの亜麻紙だった。
彼女が悔しそうに、だが爛々と光る眼で彼を見ている。その眼をまともに受けながら訊く。
「いつの間に、掘った?」
「……三日前。お前が薪を拾いに行った留守だ」
彼女が歯噛みしながら答える。
では、その時からいつかこうすることを計っていたのか。俺があのまま出てくれば良し。気づいたら歩廊を周りこの石段から降りてくることも考え、しかも自分の策が潰えたと見せかけて、二段構えで油断させる罠か。
自分との間合いも計り、穴は絶妙な位置に掘ってある。彼が手を緩めると、彼女がふん、と鼻を鳴らし木剣を納めた。
「今のはよかったぞ」
そう告げる彼に、クリシアは応えず井戸へと向かう。
その後ろ姿に思う。そうだ。かなり良かった。彼女には分からなかったが、今の一太刀はセフィールの前髪を掠めている。
俺の思った通りではない。それ以上の仕上がりだ。
二人は無言のまま、顔を洗い身支度を済ませた。帰るとはいえ、麓の村までこれからまた丸一日の行程だ。
荷造りをしてそろそろ発とうという時、クリシアがセフィールに少しだけ待つように言った。そのまま城塞の中に入っていく。暗く湿った通路を進み、突き当りの石段を降りる。地下牢の重い扉は開いていた。
中へと入る。
彼女がそこで見回した地下牢は、ここに着いた日に閉じ込められたあの場所とはまるで違って見えた。
ほの暗い中、囚人用の杭はそのまま立っている。じめじめと淀んだ気に、壁には蟲たちが這いまわり、自分が用を足した臭いもまだ嗅ぎ取れる気がする。
だが、今の彼女の中では、この地下牢はセフィールと共に一夜を過ごした場所だった。お互いの間には何もないが、隣で休む彼を強く感じたあの記憶は、おそらくずっと消えないだろう。それだけで自分が生き続けられる気がする。
クリシアの眼に囚われた自分が見えた。無数の蠅が飛び回る中、鎖につながれたままうずくまり、股間を覗き込んで、恥毛にたかる虱を潰している。
その眼は空洞のようだった。汚れ放題の全身に、焼かれた左頬が腫れ顔はいびつだった。開けっぱなしの口から、涎が糸を引いて垂れていた。
自分が今何をしているのかすら分かっていないような表情。
そうしている間にも、男たちはやってくるかもしれない。かすかにでも跫が聞こえれば、彼女は途端に目を光らせ、身体をこわばらせるだろう。そして、結局は為す術もなく男達を受け入れる。それが毎日の決まりだった。
人は、何のために生きる。
そんなことを考えられる者は幸せだ。多くの者は、その日その日を暮らすために生きる。人生の目的も、自分が生きることの意味も、考えられるほどの余裕はない。
だが、たった一つだけ、どんな者であっても生まれついた本来から平等に持っているものがある。
それが、自由だ。
それを奪われること、それこそが、人が人として生きられなくなることであり、それを奪われることが人を人ではないものへと貶める。
私はそれを、三月という間ではあっても、いやというほどに味わった。
あの牢獄での日々。そこには人としての暮らしは一片もなかった。
今更、あの時の傷は消えない。もう取り戻すことのできないものもある。だが、今の私にもあの時にはなかったものがある。
セフィールがいる。トレスがいる。オルテンがいる。館の皆がいる。私という者を気遣い、尽くしてくれる者たちがいる。
クリシアが、目の前に現れた過去の自分を見る。
今の私は、あの時のお前とは違う。何も考えられず、生きる意味も目的もすべてを奪われたと思ったあの時のお前は、今もこうして生きている。多くの者たちに支えられ、自由という本来の人の姿を取り戻そうと、必死で生きている。
――安心しろ。お前はまだ闘える。
そう言いたかった。もう泣くことはない。お前はこれから生まれ変わる。
地下牢に佇むクリシアを、天窓の外ではセフィールが目を瞑ったまま窺っていた。
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