私はどこにいる。周りには何がある。見えない。真っ暗だ。
マーカスの小屋に着いたクリシアは驚いた。
枸櫞採りの日からさして経っていないはずだが、中はかなり違っている。見慣れない道具や、籠に入った大量の草木で溢れかえり、針葉樹の山からつんと鼻に染みる匂いが漂っている。
彼はクリシアを粗末な寝台に横たわらせた。敷布の下の寝藁を敷き直し、心持ち上半身をもたげるようにする。何をされるのか不安げな彼女を覗き込み、ずばりと訊く。
「お前は、自分が何をされたかを話したことがあるか?」
クリシアの心が一気に動揺する。なぜそんなことを訊く。だが、この男は無駄なことはしないはずだ。そう信じて答えた。
「ない……あのことは誰にも話せない」
「ならばこれから全て話せ」
クリシアが狼狽える。慌てて左右に首を振った。
「だめだ。そんなことはできない」
マーカスが、彼女の全てを見透かすような目つきになる。
「お前は忘れようとしているだろうが、それがお前の弱さの根本だ。それを認めない限り先には進めない」
クリシアが懇願するような表情で返す。
「なぜだ?私は剣を教わりたいんだ。それとあのことがどう関わる?」
「心胆の揺らいでいる者は強くなれない。お前も知っているはずだ」
言葉に詰まる。確かにその通りだ。だがここで、あの時のことを話せと言うのか。しかもお前に。
彼女の顔が苦痛にゆがむ。
「本当に忘れたいんだ。剣に打ち込めば、忘れることができる。もう一度元に戻れる」
「無理だ。何をしようと過去を見ない限り全て無駄になる」
マーカスはにべもない。
「本当に話せない。もしつぶさに話したら、私は気が狂れる」
クリシアが頑なに拒む。
「それができないなら、俺はお前を導けない。話は終わりだ」
背を向けたマーカスを見て、彼女が寝台から飛び降りる。
「待て。分かるはずだ、私は女だ。男のお前に話せるわけがない。もう一度あの時と同じ目に遭えというのか」
「そうだ」
「なぜ!」
マーカスが彼女を見る。あの射すくめるような眼だ。
「お前が生き延びるためだ。それが望みだろう」
クリシアは改めて思った。この男が私と似ているのは、私と同様の過去を持っているからか。この男も同じような目に遭いそれを克服したのか。
ごくりと唾を飲み込んだ。やがてか細い声が漏れる。
「……本当に、それで私は変われるのか?」
「全てはお前の心次第だ。やってみねば分からない。だが、俺はそれ以外の方法を知らない」
それは、生と死の選択ほどの問題だった。あの記憶を掘り起し、正気でいられる自信はない。今度こそ私は自害するかも知れない。気が狂れて戻れなくなるかもしれない。そうなったら、トレスやオルテンたちはどうなる。父から私を預かった目付役として、責めを追わされるかもしれない。
答えの出ない彼女にマーカスの言葉が静かに響いた。
「お前の心には、いつも二人の自分が居るだろう?」
戸惑う彼女を気にせず続ける。
「一人は、闇にうずくまり一歩も動けない自分だ」
言葉を切り、クリシアの反応を確かめ、また口にする。
「もう一人は、その自分を眺めつつ、助けるための手を差し伸べられない自分だ」
彼女の心に何かが刺さる。
「どちらも同じ自分だ。触れた途端に一つになり、今ここにいる真実のお前と重なる。だが触れられなければいつまでもそのままだ」
マーカスとのやり取りは僧侶との問答のようで、今一つ真意がつかめない。だが、私はこの男を信じた。館で彼に言った言葉を思い出す。どんなことでも耐える。それを偽りにはできない。彼女は歯を食いしばり、震えながら絞り出すように言った。
「だが……全てを思い出せないかも知れない。最期まで言い尽くす自信もない。それでもお前は手を貸してくれるのか」
マーカスが頷く。
クリシアが再び寝台に横たわる、だが動揺は隠せない。話せと言われて始められるものでもない。
マーカスは小屋の中をあちこち歩き回り、何かをいろいろと用意していた。一通り終わると寝台の傍に戻る。
「これを、舐めろ」
彼が差し出した小さな皿の上には、何かを燃やした灰のようなものが載っている。
「何だ?」
「お前には分からない。言われた通りにしろ」
クリシアがおずおずと指を差出し、一つまみ取る。唇の合い間から舌を覗かせると、恐る恐る舐めた。舌の先に刺激と苦みが伝わり、思わず眉根に皺を寄せる。促されつつ、もうひと指分舐めた。
マーカスは傍らの台に乗せた陶製の壺から蓋を取った。熱い湯気が立っている。銅製の小さな杯を傾け、薬湯のようなものを湯に垂らす。湯気に混じって鼻を刺激する香りが漂い始める。別の杯からまた数滴垂らす。先のものとは違うらしい。新たな匂いが加わり深みが増す。壺が渡され、深く吸い込むように言われた。クリシアが顔を寄せたが、鼻を衝く異臭にむせかえる。
我慢して何度か吸っているうちにやっと慣れてくる。鼻孔に感じた鋭い刺激がじわじわと広がり、やがて頭の中まで細い針で刺されるような痺れる感覚に変わった。
思わず頭に手をやる。こめかみが疼き始めた。頭が揺らいでいるような気がする。彼女が眼を閉じた。
「俺がずっと傍にいる。落ち着いて自分自身を見ろ」
マーカスの声がする。
今までと同じ抑揚のない暗い声のはずが、いつになく優しい穏やかなものに聞こえた。不思議だ。つい今しがたまであれほど恐れ拒んでいたのに、今は心に平静を感じる。ここがマーカスの小屋だということを忘れてしまいそうだ。
だいぶ経ったように思われた頃、また声が聞こえた。
「クリシア、お前は今どこにいる?」
彼女はその声を反芻した。私はどこにいる。周りには何がある。見えない。真っ暗だ。
――――――――――――――――――――
彼女は、不意に地面に投げ出されて目を覚ました。
身体中が痛い。頭も朦朧としていた。動けない彼女の首に、冷たく硬いものがはめられる。鎖骨に食い込んで痛い。手と足を縛っていた縄が解かれる気配があったが、自分では何もできずされるがままになっている。
鎖を引きずる音が聞こえ、両手にも冷たく硬い感触が加わった。次いで、脚から甲冑の下に履いていた長靴下がはぎ取られ、素足となった足首にも固いものがはめられると、また身体が投げ出される。跫が遠ざかっていく。
彼女がやっと薄目を開けると、ぼんやりと周囲が見えた。
薄暗く、どこかの洞穴のように見える。だんだんと焦点が合い始め、同時に記憶も戻り始める。
何が起きたかを思い出した彼女は慌てて飛び起きようとし、自由にならない手足のために、また倒れ込んだ。
身体を動かそうとすると、鎖の音がして咽喉が詰まる。鉄製の首枷をはめられている。首を回すと重い鎖が壁に打ち込まれた楔にまでつながっていた。彼女の力ではびくともしない。
両手は相変わらず後ろに回され、だがこちらも鉄枷に代わっていた。足も同じだ。
森の中で気を失った彼女は、ここまで運ばれてきたのだ。屈辱に気が狂いそうになる。目の前で腹心の部下を全員殺され、自分は虜囚となってしまった。
奴らはまっとうな軍人ではない。身代金目当てで生け捕りにしたとは思えない。とすれば、女の自分に何を望んでいるかは明らかだ。
どうすれば良い。このままあの男たちに散々凌辱され嬲り殺しか。落ち着け。何か逃れる術はないか。
彼女は目を閉じ、深く息を吸った。
いつかはこうなることもあるかと覚悟をしていたはずだ。奴らに何をされ、どんな辱めを受けようと、最後まで毅然とした態度でいたかった。
いずれにせよ、鉄枷をはめられていては逃げることはできない。下手に動いて手足を傷つけ、体力を消耗させるのは愚の骨頂だ。奴らの次の動きを待ってどうするかを決めるしかない。
そしてそれが武人にふさわしくないものだとしたら、潔く死ぬ。それが私の天命だ。
クリシアは壁に背を押し当て、這い上がるようにして何とか立ち上がった。改めて周囲を見回す。
地下牢のようだ。分厚い壁に細く開けられた天窓から差し込む光で、おぼろげながら内部が見える。ごつごつとした岩肌に多少手を加えて拵えてある。おそらく昔の砦跡だろう。延々と続いた大戦の中で、攻め落とされたものの使い道もなく打ち捨てられた砦や関所は山ほどある。
うまい隠れ処を見つけたものだ。だが、気を失っていた彼女にはここがどこかは皆目分からない。我らが帰らなければ駐屯地で捜索が始まるだろうが、助けが来ることは望み薄だ。
いずれにせよ、私の命ももうじき終わる。
入り口に扉はなく、そのままぽっかりと口を開けている。奥から人の群れがやってくる音がした。びくんと体を震わせ、入り口に目を向ける。男たちが入ってきた。
先頭にいるのは、彼女に当身をくれたあの男だった。この一団の頭目だろう。一筋縄ではいかない気配に身を包んでいる。その後ろで、顔中あばたになった中年の兵士がぎらついた眼を向けている。その他の男たちも似たり寄ったりの面構えだ。
彼女は猿轡のまま男達をじっと見ていた。
この先どんなに屈辱的なことが起ころうと、心までお前たちにくれてやる気はないぞ。
そう決意していた。
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