春には春の、夏には夏の花が咲く。それは誰にでも己に合った時期や場所があり、それを間違わずに手入れをすれば、必ず美しい花が育つということを思わせる。
城館に戻ったクリシアは、広間に集まっていた使用人たちに出迎えられた。
しばらく口が利けないことをマーカスが伝え、彼女はそのまま自室に向かう。彼は小さな小瓶をトレスに渡し、それで手当てをするように伝えると、帰っていった。
翌朝、クリシアが目覚めるとトレスがやってきた。彼女が昨夜マーカスから渡された小瓶をみせる。迷更香と安息香という溶液が入っており、湯に垂らして湯気を吸えば咽喉の痛みも取れることを聞かされた。
クリシアは小屋でのことを思い出し用心したが、香りも違い、吸い込んでも特に気分が悪くなることもない。
三日ほど経つと、彼女はだんだんと声を出せるようになった。
クリシアを案じていた使用人たちも、大事に至らなかったと見て安堵している。前と同じ日々が帰ってきたように見えた。クリシアの日常も以前とほぼ変わらない。
ただ、彼女は口数が減り、始終物思いにふけるようになった。と言ってもふさぎ込んでいるわけではなく、むしろ真剣に何かを考えている様子だった。
トレスは何も尋ねない。何があったか、それはクリシアがいつか自分から話すだろう。あるいは、言葉に代わる何かが見られるのかも知れない。マーカスはうまくやったはず。
それから数日間は何事もなく過ぎ、各々が各々の仕事を淡々とこなしていた。
その日、いつものように朝食の粥を掬ったクリシアは、一口食べて手を止めた。芋粥だったが、今までと味が違う。しばらくうつむいたまま口の中で味わっていたが、やがて傍らに控えていたトレスにおずおずと問いかけた。
「……これは?」
「マーカスの畑で採れた芋です。彼が持って参りました」
頷きながらもう一匙すくって口に含む。何とも言えない濃厚な味がするが、それでいながらしつこくもない。ほのかな甘味と塩気が後をひく、いずれにせよ彼女がごく自然に飲み込める味だった。今までの粥とは違う。
「調理はお前が?」
壁際のソルティニに問いかける。彼が得心したような顔で言う。
「はい。ですが、マーカス様が手ほどきしてくれました」
「マーカス様?」
クリシアが、粥よりもまず言葉尻を捉える。
「なぜ、そんなふうに呼ぶ」
いぶかしみながら問いかける。
ソルティニは口ごもりながら、だがしっかりとした口調で言った。
「あの方は、私たちとは違いますので……兵士だったそうですが、とにかく私たちとは身分が違う気がします。おそらくずっと偉い方です」
その言葉にクリシアが黙り込む。何かを思っていると見たソルティニが、秘密を明かすような口ぶりで付け足した。
「みんな、そう呼んでます」
クリシアが彼を見る。女たちや下男のレントールはまだしも、兵士だったポルコフまでがマーカスをそう呼んでいるのか。
あの男が次第に使用人にまで影響を及ぼしていることは分かる。そういった男だ。だがトレスやオルテンはどうだ。何も言わないが、ソルティニの口ぶりからすると容認しているに違いない。
複雑な思いのまま粥を掬ったが、口に入れてみて彼女はまたそちらに気を取られた。
言い方に間違いがなければ、この粥は美味しい。
そして、美味しいと感じる自分に、今までのような罪悪感が生まれてこない。
彼女は不思議な思いのまま、ゆっくりと、だが確実に粥を食べ続けた。食べ終えてトレスとソルティニを見る。何かを言いよどむ彼女に、トレスが勇気づけるように少し微笑んだ気がした。思い切って言う。
「これ、まだあるのか?」
口を開きかけたトレスより先に、ソルティニが叫ぶ。
「もちろんです。たくさんあります!」
そして、厨房に駆け込んでいった。
――――――――――――――――――――
クリシアは、自室の寝台に腕を広げ横たわっていた。はしたない姿だ。トレスが見たらまた小言を喰らうだろう。だが今はどうでも良かった。
腹がくちて重い。こんなに食べたのは久しぶりだ。しかも、満腹の充足感こそあれ、今までのような不快な気分も食物を摂ることへの罪悪感も、不思議と湧いてこない。脱力したように横たわり、眼を閉じる。
食事に満足感を覚えたのは何年ぶりだろう。
改めて食べることの偉大さを思い知る。理由の如何に寄らず、食べられないということがどれだけ生き方に影響を及ぼすか、そして食べられるというそれだけで、どんなに心が安堵するか、それを身を以て感じていた。
戦場では食事の際にこんな気持ちも感じていたな、と思い出す。今はもういない部下たちと一緒に摂った食事の場面が浮かぶ。だが、記憶の海に立ち返ることに、理性がぎりぎりで歯止めをかける。また頭が痛くなった。思い出さない方が良い。クリシアの中の、核とも呼べるものがそう告げていた。
呼吸が荒くなり、頭の中が今という時に立ち返る。気を落ち着かせながら、何か他に考えることはないかと探る。
食卓でのソルティニの言葉が思い出された。
そういえば、あの男のマーカスという名前、韻から行けば貴族の名前でも通じる。ルクルドの出というのは嘘だとして、今までどこで何をしていた男だろう。並みの兵士とは思えないが、と言って騎士でもないだろう。騎士に特有のあの尊大ともいえる、そして得てして盲目的な、自負心や虚栄心といったものが無い。
改めて、今後マーカスにどう接すれば良いかを冷静に考えなおす。思えば、あの時の礼も言っていない。急にそのことが何にもまして気恥ずかしくなった。自分のことばかりを考える礼儀知らずだと思われているだろうか。それこそが恥の上塗りのような気がしてくる。
彼女は起き上がると窓辺に寄った。自室に籠っているだけでは解決の糸口はつかめない。どうすれば良い。
そんなことを想いながら外を見ていた彼女の眼に、一台の馬車が入ってくるのが見えた。御者台に座っているのはあの男だ。
クリシアは心中慌てた。まだ面と向かって会う勇気はない。だが、そうこうするうちにトレスがクリシアを呼びに来た。マーカスが渡したいものがあるという。仕方なく階下に降りたクリシアは、館の表玄関で彼と相対した。
クリシアは常と変らぬよう心掛けたが、いざ顔を合わせるとどうしても二人の間に今までにはなかったものを感じる。それは、目に見えない布を一枚隔てているような、今までであれば手を伸ばせば掴めたものが、自分の肌では感じられなくなったような、何とももどかしい気持ちにさせるものだ。
彼女が黙っているままなので、トレスが脇から口を挟む。
「何を持ってきたのですか?」
マーカスもクリシアの様子をそれとなく察したらしい。後ろに止めてある荷馬車へと二人を誘う。荷台には小振りの樽が載っていた。
「枸櫞の蒸留が終わった。これはその時に出た蒸留水だ」
樽の栓を抜くと傾けるようにして、中の水を銅杯に注ぐ。クリシアに手渡した。彼女が初めてのものを試すように鼻先へ持っていくと、酸味のある清々しい香りがした。
「食事の前に少し飲め。食欲が出る」
その言葉を聞いたクリシアが、思わずマーカスの顔を見る。では、これを私のために持ってきたのか。私の身体を気遣って。
何と言えばよいか思案している彼女を気にせず、マーカスは続けて革袋から硝子の小さな小瓶を取り出した。
「これが枸櫞の蒸留液だ。湯を沸かして垂らすと香りが広がる。お前には香油よりこちらの方が良いはずだ」
差し出される小瓶を、代わりにトレスが受け取る。
「料理の様に、枸櫞をそのまま絞ったものとはちがうのですか?」
「果汁ではない。これは皮から採る」
「皮?」
「そうだ。実ではなく皮だ。それに蒸留して採ると質が変わる。ただ絞っただけのものは身体に使うと肌焼けすることもあるが、これなら心配はない」
トレスが納得したように頷く。
「マーカス、礼を言います。使い方を詳しく聞きたいので勝手口で待っていてください」
レントールに声をかけ、荷馬車の樽を下ろすように指示する。マーカスは、ソルティニたちが顔を覗かせている勝手口へと歩いて行った。
クリシアが後ろ姿を目で追う。大きく深呼吸をした。そして、やっと声が出た。
「わ、わたしからも……礼を言う」
マーカスはクリシアを一度振り返ると、無言でそのまま勝手口へと向かった。初夏の日差しを受けて、後ろ姿がいつもより少し白ばんで見えた。
マーカスが持ってきた枸櫞の蒸留水を、クリシアは言われた通り食前に少しずつ飲んだ。やはりマーカスの手ほどきと、彼の畑の野菜によって作られる粥の味もよく、少しずつ食べられる量も増えてきた。とは言えまだ根本的な解決にまでは至らない。
彼女の食事への嫌悪感が、身体の不調ではなく心のものである以上、そこにはより深い救済が必要だった。
小瓶に入っていた枸櫞の蒸留液は、熱した湯に垂らすと芳香が部屋いっぱいに広がった。確かに、香油の甘ったるい花の香りとは違い、鼻孔を軽く刺激する酸味の混じった香りは気分を爽快にさせる。彼女は、マーカスが言った通りこちらの香りを好んだ。
枸櫞の蒸留水は井戸水よりも多少日持ちがするようだったが、飲料とする以上、長くは置いておけない。
マーカスは、その後も定期的に枸櫞を蒸留すると数日間の分を届けに来たが、蒸留液自体は本のわずかしか採れないため、量が溜まるまでにはしばらくかかるとのことだった。
やがて、季節は本格的に夏となった。
草が無暗に伸びる時期だ。ポルコフの庭の手入れも忙しい。少し眼を離せば雑草がすぐにはびこり始める。不要な芽は丁寧に積み、水やりも丹念にする。
春には春の、夏には夏の花が咲く。それは誰にでも己に合った時期や場所があり、それを間違わずに手入れをすれば、必ず美しい花が育つということを思わせる。
汗をかきながら作業をしているポルコフの後ろに人影が立った。
「綺麗だな」
思わず振り返る。クリシアが、彼の足元で咲く薄紅色の花を見ている。
「これは、クリシア様」
ポルコフは驚いた。今までクリシアが自分の育てる花に関心を持ち、しかもそんな言葉をかけてくることなぞなかった。顔つきは以前のままだが、表情から見てお義理に言っているわけではないと分かる。以前のような厭世観に捉われた寂しい顔ではない。
「はい。その通りです」
慌てて相槌を打つ。
「モルトナでもこの地方は特に温かですからな。色とりどりの花が咲きます」
クリシアが花からポルコフへと視線を移す。
「軍人だったお前が、花作りの名人というのは面白い。いつか暇な時にその話を聞かせてくれ」
ポルコフが思わず眼を見開く。徐々に笑みが広がっていく。
「もちろんです。クリシア様さえよろしければ、いくらでも」
彼の表情が、日差しに負けないくらいに明るくなった。
「花の手入れはこれでなかなか難しい。こつが要るのは子どもを育てるのと同じですぞ」
そこまで言って、しまったと後悔する。彼女の前で子どもは禁句だ。
だがクリシアは全く構わず、口元にかすかな笑みを浮かべると歩き去っていった。
トレスやオルテンをはじめ、他の使用人たちも彼女の普段の様子に今までとはどこか違うものを覚えていた。そしてそれは、わずかではあるが彼らに等しく安堵の念を与えた。
どうやら、クリシア様は何かを決意されたようだ。使用人たちはそう言って頷き合った。マーカスが何をしたのかは分からないが、やはりあの男は只者ではない。
あくる日、クリシアが厩舎に行くとレントールが馬糞の片づけをしていた。馬鍬でかき集めては桶に溜める。後ろのクリシアに気づくと驚いて手を止めた。
「すまない。邪魔をする気はない」
「とんでもねぇです。どうぞお召し物を汚さねえように」
その言葉に彼女が笑う。
「何を言っている。私は騎兵だ。同じことはずっとやっていたぞ」
レントールが畏まった顔つきで頷く。
「その馬糞はどうする」
「畑に移します。厩肥にしてますんで」
その言葉を聞いた彼女の顔が、急に明るくなった。
「私も一緒に連れて行ってくれないか」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!