メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第十五話 穿たれた孔

公開日時: 2021年1月26日(火) 11:15
更新日時: 2021年2月6日(土) 23:04
文字数:3,797

バレルトの心には、あの日から抜くことのできない楔がずっと突き刺さっている。

 旧ヴェナード領のアンブロウでは、バレルトが居城の執務室で届いた書簡に目を通している。

  だが、目は書に落ちているものの仕事はなかなかはかどらない。しばらく経つと頭の中にはクリシアの姿が浮かぶ。


 彼女を転地させたことが最善の策だとわかっていながら、やはり大切な体の一部をそっくり失った気がしてならない。とは言え、その発端はすでに数年前から始まっていたことでもある。

 やはり女だてらに軍に所属させたことが間違いだったか。

 あの時、将来娘に何があっても後悔せずと覚悟したつもりが、そんな容易いことではないと改めて思い知らされた。

 バレルトの心には、あの日から抜くことのできない楔がずっと突き刺さっている。


 二年前、終戦直前に行方知れずとなったクリシアは、それから三月あまり後、とある山間の村にぼろぼろの姿で現れ、驚く村人に名を告げるとそのまま気を失った。極度の疲労と体中の傷に加え、精神的にもかなりの痛手をこうむっていたが、幸い村人たちの介抱もあり、二日後に意識を取り戻す。

 その頃にはオラードからの一隊も医師と共に到着しており、体力の回復を待って、ヴェナードに駐屯したままでいたバレルトの許へと戻り、父と娘は一年と数か月ぶりの再会を果たした。


 彼女の生存を諦めていたバレルトにとって、内心の喜びは計り知れないものだった。だが同時に、クリシアの身に何が起こったのかは、とても大きな問題でもある。


 痩せ衰え寝たきりのクリシアは口もきけなかったが、考えられることはかなり明白だ。駆けつけた兄二人が、自ら状況を探るため彼女の見つかった村へと出立し、そしてクリシアの身体についても口の堅い医師たちを選び綿密に調べさせた。

 そしてその結果は、残念ながらバレルトが予想していた通りだった。


 ペグワイの駐屯地から出撃した彼女は、おそらく敵兵の計略にはまり、そのまま囚われていたと思われる。

 状況から、ともに出撃した部下の一団は全滅。クリシアだけが生き残ったのは、オラードの将軍バレルトの娘と敵にも知られ人質としての価値があったこと、そして何より、女だったからだ。

 首や手足に残った傷から、彼女が枷につながれたまま長く監禁されていたことは間違いない。そして医師らが身体の隅々まで調べた結果、毎日のように凌辱され続けていたことも。

 人質とはいえ価値の高い軍人は丁重に扱われるものだが、彼女を襲った一団は野卑な雑兵の群れか、本隊から外れた野伏せりまがいの連中だったのだろう。命までは奪われなかったものの、彼らの欲望の捌け口として、奴隷以下の扱いを受けていたことには疑いの余地がない。

 最後に、医師は決定的な言葉を口にした。

 クリシアは児を宿している。だが今の状態では、無事に産むことは決してできないと。


 バレルトは、今のクリシアを見たときからすでにおおよその見当をつけ、覚悟もしていた。

 軍人、兵士である限り、さまざまな意味で傷つくことは避けようもない。

 ただ、娘が不憫でならなかった。

 戦場を駆け巡り武勲をたてたとはいえ、所詮男ではない者がいつまでもそんな生活はできない。女が一軍人として生涯生き抜いていけるはずがない。誰かの庇護を受ける、つまりいつかは相応の家に嫁ぎ、子を産み、跡継ぎを育て、家を紡ぐ役目をもつ母親となっていく。それは、彼女自身もやがて受け入れるべき運命だった。

 だが、その道ももうクリシアにはない。

 今の彼女を、たとえ大将軍の娘とはいえ受け入れる家なぞあるはずもない。これでクリシアは、一介の女としての生き方すらできなくなった。


 ヴェナードの割譲以降、躍進するバレルトを嫉む政敵ももちろん増えた。彼らにしてみれば、バレルトを貶める材料なら何でも見境なく手に入れたい心境だろう。愛娘が敵兵に捕らわれ、凌辱の挙句、どこの誰とも分からぬ児を孕まされたなど恰好の責め道具であり、彼にとって耳障りな醜聞であることに間違いはない。

 何より、これが公になればクリシアは生きていられまい。真実が口外されることだけは、何としても防がねばならない。


 医師は一日でも早い堕胎を薦めた。クリシア自身の状態から見て、胎児が順調に育つことはあり得ない。そうなれば彼女の身にも危険が及ぶ。今の体力も気になるが、回復を待っていれば手遅れともなり兼ねない。

 バレルトは同意し、ある日薬で眠らされた彼女は、何も知らぬまま堕胎させられた。


――――――――――――――――――――


 それからひと月ほどが経ち、クリシアはやっと歩けるまでに回復した。だが心の傷は癒えず、身体中に集った虱退治のため丸坊主にされた姿で、呆けたようにただ窓から遠くばかりを眺めていた。

 食事もろくに摂れず、夜は眠ることを恐れ、疲れ果てて眠ってはうなされる毎日が続く。そしてそれは、妊娠の結末をバレルト自身がやむなく知らせた後、一層ひどくなった。

 万一を考え、バレルトは彼女の身の周りから刃物の類を一切遠ざけ、昼夜を問わず侍女たちに交代で見張らせた。事実、彼女が突如として激昂し自傷に及んだことも一度や二度ではない。


 心と身体の回復に効きそうなものは、薬、食物はもとより、部屋を飾る珍しい花々や宝飾品、気晴らしの書物、教院の護符や、果ては得体の知れないまじないの類まで、どんなに高価な品でもバレルトは取り寄せた。

 オラードの国教を伝える大教院から招いた尼僧は、彼女を外に出し、陽の光の下で自然に触れさせることで、長い時はかかっても次第に癒されていくだろうと告げた。


 バレルトは、彼女の気が休まることを祈り、ありとあらゆる手をつくし、その甲斐あってか半年ほどが経った頃、クリシアはやっと人並みに出歩き、言葉の受け答えもし、夜は眠れるようになった。だが相変わらず食だけが回復せず、気に入ったわずかな果物と粥程度しか受け付けない。

 痩せ細り、頬はこけ、目の下のくまは隠せず、騎兵隊に所属していたころの面影は微塵もなかった。毎日自室でぼんやりと過ごし、人払いをした城の中庭を目的もなく歩くだけのクリシアに、バレルトはある時ついに決心をした。


 半月ほど前、彼はクリシアの部屋を訪ねると、彼女に住まいを変えることを打ち出した。本心ではいつまでも手元に置いておきたかったが、ここは城であり、クリシアには良くも悪くも騎兵だった頃を思い出させるもので溢れている。

 そして入念に策を弄したにも関わらず、やはり彼女の一件は城外にも広まっていた。

 敵兵に捕まっていたという噂は、今では町の子供ですら面白おかしくはやし立てている。ここにいれば、遠からずクリシア自身の耳にも入るだろう。一刻も早く新たな手を打たねばならない。

 もっと落ち着いて暮らせる新たな土地で、環境を変えて療養に専念させれば、心の傷も癒えるかもしれない。


 すべてをし尽くしたバレルトとクリシアには、後は時が味方をしてくれることを願うしかなかった。

 父の言葉の奥にある自分への愛情を感じた彼女は、素直にそれを受け入れ、しばし親許から立ち去ることに同意した。いずれにせよ、ここには彼女の望むものは何もない。まして自分の存在は、大領地の代官という重責を担う父に対して、深い傷と負い目を与えている。

 自分は父の許から消えた方がよいだろう。それが結論だった。


 クリシアは、トレスとオルテンと共に、モルトナに移り住むこととなった。彼ら自身がどこまでクリシアの身の上を明かされているのかは分からなかったが、頭の良いトレスや、大きな身体に似合わず思慮深いオルテンであれば、断片的な情報からでも、クリシアの身に何が起こったかは容易に汲み取っているはずだ。


 彼らが自分に同情を寄せていることはクリシアも感じていたが、かといって彼女の好き放題にさせるほど二人とも甘くはなかった。特に、躾にも厳しいトレスは、今や大領主となったバレルトの息女として、どこに出ても恥ずかしくないよう、改めて礼儀作法、所作、立居振る舞い、そして教養を身につけさせようとした。

 それが彼女なりの気遣いであり、少しでも早く辛い過去を忘れさせたいという愛情でもあることはクリシアにも分かったが、初めのうちこそ退屈しのぎに従っていたものの、あらかたの理解ができるとすぐに興味を失った。


 もともと裾の長い衣装に身を包み、一日中館にいることに堪えられる性格ではない。ただ、痩せこけた身体の線を隠すため、女性用の服だけはいやいやながらも着続けている。

 彼女が外出するときには、常にオルテンが一緒にいる。馬の扱いに長け、口数こそ少ないが、いつも彼女の傍らに控え、用心深く周囲に目を配ってくれる。


 クリシアの生活は、彼らの庇護のもとに成り立っている。

 それは彼女自身の平穏な日々を守ると同時に、彼女から自由の二文字が失われたことの象徴でもあった。


 バレルトの耳には、クリシアが無事モルトナに到着した報が入っている。一応の安堵はしたものの、これから彼女がどう暮らしていくのか、自分の眼のとどかぬ場所に移り、何かが起きてもすぐに手を打つことができないもどかしさと不安との戦いは、これから始まる。

 トレスとオルテンがいれば間違いはないと分かりつつ、それでも娘への想いと一抹の後悔とが入り乱れ、彼の心は常に波立っている。

 クリシアが、元通りとまでは言わずとも、せめて落ち着いて日々を暮らせるようになるには、どのくらいの月日が必要なのか。


 バレルトは、傍らの窓から遠い空を眺めたまま、しばし考えていた。

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