頼む。どんなことにも耐える。私を救ってくれ……
イリアに間に合わせの身づくろいをさせたクリシアは、自室でマーカスと会うことにした。
窓辺に造りつけられた腰かけに座り、窓の外を眺めていると、やがて階下に来訪者の予感がする。びくんと胸が波打った。
トレスに案内されてマーカスが入ってくる。傍らの椅子を勧められると特に気負う風もなく腰を下ろした。トレスが彼らを残して部屋を出る。
二人だけになった。
しばらくはどちらも口を開かない。窓から斜めに差し込む光の中で、マーカスの顔は半分が柔らかな陰に覆われている。
どこから話せば良い。クリシアは考えていた。おそらくこの男から口を開くことはあるまい。深く息を吸い、吐き出すと同時に声を出す。
「枸櫞の時はすまなかった。私の不注意だ。許してくれ」
まだマーカスの顔は見られない。窓の外を見るようにしながらやっとの思いで口にする。だが後が続かない。またしばらくの沈黙が訪れた。
彼はじっとクリシアの横顔を見ている。その視線を感じるが直視できない。クリシアは、気づかれぬよう、ゆっくりと動悸を沈めながらただ外を見ている。
その時、マーカスの声がした。
「お前は何がしたい?」
その言葉に、すべてを見透かされていることを感じる。噛み締めるように体中に浸透させた。
私は何がしたい。どうなりたい。
クリシアはマーカスから見えないように下唇を噛んだ。ここには我々しかいない。今この場は、自分にとっての決断の時だ。もう訳のわからない息苦しさにはうんざりだ。
立ち上がると、女物の服にも構わず床にぺたりと腰を下ろす。この方が落ち着く。
兵士だった頃、野山でよく部下たちと車座に座り話をした。皆と同じ目の高さで話す。それが仲間との信頼関係を築くために彼女が身に着けた処世術だった。
それまで分からなかったマーカスの身体から漂う草の匂いが感じられる。無造作に股を広げたものの、彼の手前さりげなく両膝を寄せ横座りになる。
「お前は私を知っているか?」
マーカスがわずかに首を傾げる。
「ヴェナード平定候バレルトの娘、クリシアの噂を知っているか?」
相手は黙っている。質問の意味を判じかねているのか、それともいつものように無表情を装っているのか。だが、無言でいる彼を見てクリシアの緊張が一気に解けた。少なくとも、今この話の主導権は自分に移っている。
「知らぬのか? 向こうでは子どもでも知っている話だぞ」
自嘲気味に鼻先で嗤う。
――バレルトの娘クリシアは、敵に捕まり奴隷に売られ、鞭で叩かれ傷だらけ
クリシアが、謡うように韻を踏み口ずさむ。
――やっとの思いで逃げ出して、親の背中に隠れれば、牢に入れられ婿もなし
呟いているうちに、不思議と心がほぐれていくのを感じた。ここまで来てしまえば引き返せない。もうこの男の前で下手に取り繕う必要はない。一息つくと言う。
「ほぼ事実だ」
ほぼ、と言ったのは、事実はもっと辛辣だったからだ。黙って見降ろしているマーカスに、諭すように続ける。
「私は二年前に敵の罠にはまった。部下は全員戦死したのに、私は捕らわれたまま殺されもせず、三月後に救い出された。身籠ってな。どこに居たのか、どうやって抜け出したのかは私自身にも分からない。だが三月の間どんな目に遭い、どうして私が生き長らえたか、それは言わずとも分かるだろう」
一端は斜に構えたクリシアだったが、その後に続く言葉をマーカスの顔を見ながら話すことはできなかった。
「私の子は堕胎された。そうしなければ私の身体が持たなかった。そのおかげでこうして生き延びているが、もう子どもは産めない」
彼女からマーカスの表情は見えない。同時に自分の表情も彼に見られたくはなかった。
私は、あれほど信頼していた仲間のすべてを死地に追いやったくせに、自分だけは死にそびれ、口には出せないほどの卑しく恥ずべき行いと引き換えに、今日まで生き伸びている。部下だけではない、自らの子どもまで殺した。
今こうして生き続けているのはその罰だ。報いだ。
「父は私の身を案じ、このことをひた隠しにした。だが所詮、あのバレルトの娘の噂が市井に広まらぬはずはない」
歌を口ずさむ子どもたちの頭には、奴隷といえば自由を奪われ扱き使われる姿しか浮かばないだろう。だが大人が聞けば、女奴隷が何を意味するかはすぐ知れる。
とどのつまり、私の身に起こったことは人々に知れ渡り、ただ自身がこうして身を隠して暮らすことで、次第に忘れられ始めただけだ。
だがその女奴隷が、目の前の男にいま自分の身上を曝け出した。こちらの手の内はすべて見せた。その心がこの男に届くのか。クリシアが、左頬についた傷を指先でなぞる。
「お前は、俺に何を求めている?」
マーカスがやっと口を開く。
クリシアは答えられなかった。それはとても難しい問いだ。だがマーカスのその言葉は、すなわち彼自身の迷いも表している。この男自身、私という存在に何かを感じているのだろうか。
彼女は眼を閉じたままじっと考えていたが、やがてぽつりと言った。
「剣を教えて欲しい」
相手の顔をまっすぐに見る。
「お前は戦いたいのか?」
抑揚のない声が返ってきた。
「戦えば、相手を傷つけ、殺す。それがお前の望みか?」
「私は軍人だ」
「そんなものは、やめてしまえ」
にべもない言葉に、クリシアの身体が震える。床に座り込んだまま窓の外の空に眼を移す。また沈黙があった。
「ならば、どうしたら良い?」
彼女が、やっとのことで口を開く。
「軍人をやめて、私はどうしたら良い?」
黙ったままのマーカスに、畳み掛けるように言った。
「もう女としても生きられない。だが私は死ぬことも許されない。ならば、どうすればこの先も生きていける?」
「お前には、お前を想う者が大勢いる」
「確かにそうだ。彼らには心から感謝している。だが、それだけでは生きていけない。私は、お前ほど強くはない」
マーカスの顔を見つつ、クリシアが先手を打つ。
「お前も、何かを秘めたままにしているのだろう?」
「お前が誰かは知らない、だがお前にも私と似たり寄ったりの過去があるはずだ。それだけは分かる」
二人の視線が交差する。
「お前には関係のないことだ」
「確かにそうかもしれない。だが私は、お前を師と仰ぎたい。私にこれから生きていくための術を教えて欲しい。戦うとか敵を殺すとか、そんなことを考えているのではない。ただ私は、もう一度あの時の自分に戻りたい。皆のためにも」
「他の道を選べ」
マーカスの言葉に、クリシアがふっと自虐的な笑みを浮かべる。
「尼にでもなれというのか。昔勧められたが、私には無理だ」
窓の外に目を戻す。
「私が失った腹心の部下は、友であり仲間だった。彼らと過ごした時は私にとって最も充実していた。だが、今の私では彼らに謝罪することすらできない。もう一度彼らに面と向かえるようになりたい。頼む」
マーカスを見る。だが、彼は睨めつけるようにクリシアを見たまま言った。
「剣は諦めて他の道を探せ」
「なぜだ?」
これほど頼んでも断るのか。では何しにここへ来た。クリシアの心がざわつき始める。
「お前は女だ」
マーカスはそう言うと、クリシアを一人残し椅子から立ち上がった。だが、彼のその言葉が、彼女の抑えていたものに火をつけた。
「莫迦にするのはよせ!」
後ろ姿にクリシアの罵声が飛ぶ。階下の使用人たちにも届いたろう。
マーカスは歩みを止めた。クリシアが立ち上がる。歯を食いしばり、マーカスの背中を睨みつけている。
「そんな言葉なら……今まで腐るほど、聞いている」
彼女は、絞り出すように言った。
「女だてらに、女のくせに……そんな言葉で、今さら私が変わるとでも思うのか? 軍人になりたかったのは、周りのその言葉を失くすためだ」
息を荒げる。
「私は十五年間、敵と同時に味方とも始終戦っていた。生易しい暮らしではなかった。それでも続けたのは、下らぬ見栄や誇りからではない。家や父の力に頼らず自分一人で何ができるのかを知りたかったからだ。それを、あんなことで失いたくはない。私は強くなりたい。女がそれを望んではならぬのか?」
彼女にとって、ここまで心中を吐露した相手はいない。だが、マーカスは何も応えずそのまま部屋を出ようとした。
「人の話を聞け!」
マーカスを追ってクリシアが走る。
ここまで蔑ろにされるとは。彼女にとって、今できる限りの告白だった。それを歯牙にもかけず、こちらの想いを取るに足らないものとでも言うかの如く、彼女を無視して立ち去っていく。これほどの屈辱を味わったことはない。
だがクリシアは挫けなかった。今さら形振りに構う気はない。いまこの男を逃がしたら、次の機会はない。戸口のマーカスにすがりつき腕をつかむ。
咄嗟の彼女の行動に、マーカスが驚き振り返る。
「私は、もう一度全てをやり直したい。それ以外に私が生きていく道はない。常に私を気遣う者に囲まれているからこそ、私はずっと独りきりだ。弱いままだ」
館の皆が聞いているかもしれない。だがそんなことは構わない。
この男の心に届いていることだけを願う。マーカスは無言だ。彼女はただ彼にしがみついていた。振り払われればそれまでだ。私の想いはここで潰えるのか。
クリシアが眼を閉じ、口から最後の言葉が漏れた。
「頼む。どんなことにも耐える。私を救ってくれ……」
彼が取り縋るクリシアの手首を握る。だがそのままほどかない。その手はごつごつとして手荒れも酷く、だが温かかった。
マーカスはクリシアの顔を見ている。今までにない険しい表情。それは、苦悶と呼んでもよいほどに何かを思いつめている顔だった。
「……ついて来れるのか?」
不意に口にする。それが、自分の言葉に対する答えだと知ったクリシアは、はっとして彼を見た。首を何度も縦に振る。
「ついていく。どんなことをしても」
「お前が依然と同じ心を取り戻すのは辛いことだ。また新たな傷を負うぞ」
「構わない。耐えてみせる」
マーカスがクリシアの手を握ったまま歩き出し、階下へと向かう。一階ではトレスとオルテンが待っていた。ただならぬ様子に二人とも慌てている。
「彼女を一日預かる。心配はするな。終われば送り届ける」
二人とも何も言えない。
マーカスはそのまま外に出ると、驚き見つめる使用人たちを横目にクリシアを馬車に載せ、元来た道を戻っていった。
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