泣きたければ、泣け。お前にはその権利がある
何度目かで目を覚ます。男たちはいない。手足は軽く頬も痛くない。ここはどこだ。ぼんやりと考える。
古びた梁と板葺屋根。どこかで見た光景だ。あれは確か、皆で枸櫞を採りに行って。
そこまで思いだし、だんだんと思考が今に戻ってくる。マーカスの小屋。中はもう暗い。夜になっている。
彼はどこにいる。
彼女は寝台から起き上がろうとしてそのまま下に堕ちた。身体が痺れたように動かない。痛みに呻き、身を起こそうとする。
その時、たった今まで見ていたあの自分の姿が、怒涛のように頭に流れ込んできた。地下牢で受けた仕打ちのすべてが鮮やかに甦る。
彼女は声をあげようとした。だが口がうまく動かない。それでも思考と記憶だけは怖ろしいほどに明敏に、彼女の頭の中で果てしなく広がっていく。今まで見ていた数百数千の光景が一気に浮かんでくる。
眼を見開き呻く。呂律が回らない。叫んだ。声にならない。獣のような咆哮をあげた。身体がよじれる。床の上でのたうつ。
小屋の扉が開き、マーカスが入ってきた。
クリシアがマーカスを見る。私に何をした。問いたいが口が利かない。マーカスがゆっくりと近づき片膝を付く。抱き起そうとする彼の腕を振り払う。気が狂ったように叫びながら腕を振り回す。
彼がそのままじっとしていることが分かり、ようやく彼女は静かになった。
壁に背を押し付け、怯えた眼を男に向けながら、それでも両手は胸の前で、近づいたら必死で反抗しようと身構えている。
マーカスが銅杯を差し出した。用心深く受け取る。水が入っていた。一気に飲み干す。飲み終わってから、不思議な風味が口に残る。
少しずつ落ち着いてきた。激しく上下していた胸が次第に収まっていく。身体の震えが止まり、少しずつほぐれていく。
唇が動くようになったことを確かめ、マーカスを睨みながらやっと言葉を吐き出した。
「……私に、何をした?」
マーカスの身体から緊張が解けるのが分かる。眼はクリシアから離さず、あの抑揚のない声が返ってくる。
「昔のことを聞いた」
「私は……喋ったのか?」
信じられず訊き返す。
「全て喋ったのか?」
「そうだ。全てだ」
クリシアの身体と心から、一気に力が抜ける。
話した。私があの時のことを。あの地下牢で男たちにされたこと、いや生き延びるために私自らが進んで男たちにしていたことを。
足を開けと言われれば開いた。上になれと言われ男たちに跨った。一度に何人もの男の相手をした。腰を振れ、笑えと言われてその通りにした。何度もさせられているうちに、自分でも何をすればよいかを理解した。それからは、言われなくとも自ら進んで男たちに施した。
この身体と心のすべてを差し出し、男たちの言いなりになっていた。生きることが耐え切れないほどに苦しく、それでも死ぬことはできなかった。
こうしているうちは殺されずにすむ。ここで死ぬのは絶対に嫌だ。あの時の私を、この男にすべて話した。
決心してマーカスに身を任せたとはいえ、平静ではいられなかった。誰にも知られずにいたいとひた隠しにしてきた恥部を、地に堕ちた魂を、この男に知られた。彼女が腕に顔を埋める。もうだめだ。もうマーカスの顔をまともに見られない。クリシアが身を縮める。
彼に触れられることさえ恐ろしくて仕方がない。もう生きては行けない。
だがその時、彼の声がした。
「よく耐えたな」
クリシアがそれを理解するのに少しかかった。今の言葉は何だ。恐る恐る顔を上げる。マーカスが彼女を見つめ、またあの言葉を口にした。
「生きろ。お前に非はない。お前はまだ闘える」
感情の見えないその言葉が、なぜか心にすとんと落ち込んでくる。
「泣きたければ、泣け。お前にはその権利がある」
そう言って立ち上がると、彼は小屋を出ていった。
クリシアが独り残される。暗い小屋の中で、先ほどまで見ていた自分の姿を思い出す。今までずっと隠していたもの。見ようとしなかったもの。触れようとしなかったもの。それが今ではすべて鮮やかに思い出される。
彼女は、地下牢にうずくまる自分を哀れに思った。今まで、自分自身にそんな感情を向けたことはない。それは弱さから来るものと思っていた。その弱さを否定したいと、今まで耐えてきた。だが今はちがう。彼女は自分に同情した。泣きたければ、泣け。マーカスの言葉を思い返す。
今まで計り知れないほど泣いた、涙が枯れ果てると思うほどに泣いた。だが、自らが堕とされた不遇を嘆き呪う涙は、いくら泣いても尽きることはなかった。
今また彼女は哭いた。過去の自分を想って哭いた。
血と汚物と男達の吐き出した肉欲の証しにまみれ、全てを失いながら死ぬこともできずにいる女を哀れに思った。
固く閉じた双眼から涙が溢れ、流れ落ちる。慟哭の叫びは次第に大きくなっていった。それはあまりにも大きく、彼女の耳はその叫びに耐え切れず、何も聞こえなくなった。飲んだ水を吐き戻し、むせ返る。咳が止むとともにまた泣き叫ぶ。
咽喉が潰れ、胸がひりつき、声が出なくなっても叫びは外へと迸る。だが、そのとき彼女は気づいた。これほど哀しくこれほど胸が痛みながら、気は確かだった。ずっと自分を苦しめていたあの恐ろしさが、ゆっくりと薄れていく。目の前の囚われの彼女が、今の自分と違うものに見えた。救わなければいけないと感じた。あのままにしてはおけないと。
彼女の叫びは、やがて小さくなっていった。
――――――――――――――――――――
どれだけ経った頃か、小屋の扉が開きクリシアが出てきた。日が暮れてだいぶ経つ。夜空に月が上っている。あの夢の中で見ている月を思い出した。
ほの白い光の下、マーカスが小屋の前の板張りに腰かけている。振り返るとクリシアを見上げた。彼女は立ったまま見下ろしている。二人とも黙っていた。といっても、彼女は咽喉を痛めてしゃべれない。それは彼にも分かっている。その顔は陰になり見えない。
「馬車に乗れ」
マーカスが立ち上がる。その後ろ姿を見たクリシアが、不意に彼の頭を拳で殴りつけた。男が殴るようなものではない。子どもが駄々をこねるように、両手でマーカスの頭や肩を叩き続ける。
なぜ叩くのか、自分が何をしたいのか、彼女にも分からない。
マーカスは、避けようと思えば難なくできたが、しばらくそのままにさせておいた。やがて向きを変えると、あっという間に彼女の両手を取る。鋼に挟まれでもしたかの如く、動けなくなった。
マーカスがクリシアの顔を見る。彼女は彼を睨みつけていた。眼に今までにない力が籠っている。
マーカスが手を緩め、クリシアが両手を下ろす。足もとがふらつき膝からくずおれそうになる。咄嗟に出された両腕にしがみついた。彼が立たせようと身体を引き上げたとき、クリシアはそのまま彼の身体に身を預けた。マーカスの胸に顔を埋める。
彼女の身体は震えていた。
粗末な服の饐えた臭い。畑と泥の臭い。小屋の中に積まれていた薬草の匂い。それらにかすかに混じる彼の匂い。そして服を通して頬に感じる体温。
自分は今、この男の身体に触れている。こんなことをするとは思いもよらなかった。だが恥じる気は浮かんでこない。こうしていると、どんなものからも完璧に護られている気がする。
マーカスの声が蘇ってきた。
――お前はまだ闘える。
心が落ち着いていくのを感じた。この男に言われると、なぜこんなにも安堵できるのだろう。すべてを忘れて、心も身体もどこかに行ってしまいそうになる。
その思いを見透かすように、マーカスは身じろぎもせず、彼女が身体を離すまでずっとそうしていてくれた。
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