メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第二十話 戦士の血

公開日時: 2021年2月14日(日) 16:12
更新日時: 2021年2月15日(月) 23:37
文字数:6,283

武人を志した者として、お前の腕には敬意を払っている。久しぶりに血が騒いだ。ぜひ話を聞かせて欲しい

 城館に戻ってきたクリシアは、いつにもない乱暴な足取りで部屋に入ると、寝台に勢いよく腰を下ろした。腹立たしさでいっぱいだった。


 あの男は偽名を使った。しかも自分たちが出会ったまさにその川の名を。

 モルトナの者なら誰でも知っている大河の名をぬけぬけと口にした。真実クリシア・バレルトであれば、この地に来たばかりだろう、川の名なぞ知らぬだろうと見くびり、そしてまんまと私は騙された。

 農民たちに無知をさらけ出した恥ずかしさに加え、あの男に小莫迦にされた悔しさと、今までまったく気づかずにいた愚かさ、何より己の住まう土地の地理にすら関心を示さなかった浅はかさに、どこにぶつけてよいのか分からない怒りが収まらない。


 トレスが戸口に顔を出す。オルテンから聞いてきたのだろう。もうこれ以上は誤魔化せない。


「あの男が、それほど気になるのですか?」

 彼女が、いつもの落ち着いたそぶりで単刀直入に聞く。

 クリシアは答えられない。自分にも分からないものは伝えようがない。養育係は嘆息し、静かに、だが有無を言わさぬ口調で言った。

「何があったか、お話しください」

 逃れられないことを悟り、自分が見たことをなるべく感情を交えずに話す。軍人だった者として、純粋にあの凄腕の男に興味を持ったのだと。

 トレスは神妙に聞いていたが、平民とはいえ相手が男である以上、心のうちではどう捉えているか、それはクリシアにも分からない。

 話し終えた彼女にトレスが尋ねる。

「それで、お嬢様はその男に会ってどうしたいのです?」

 そら来た、とクリシアは思った。


 こう言われることは話す前から察していた。だが、彼女にも分からないことは話せない。ただ、あの男に会って話がしたい。何を話すと聞かれても分からないが、とにかく話がしてみたい。彼女が口ごもる。


 トレスにもクリシアの気持ちは分かっている。

 確かに、あの男にはただの軍人あがりとは思えない何かがある。その意味では、彼女自身の脳裏にもあの男の姿がまざまざと焼き付いていた。だが同時に限りなく不穏な匂いも漂ってくる。

 断じて口には出せないが、それはクリシアと同じ匂いだった。余人には決して救えない、何か重く大きなものを抱えている人間だけが放つ息苦しく濃密な気だ。そしてそれは、本人の望むと望まざるとに関わらず、得てして周囲に限りない災厄をもたらす。それ故、クリシアが何故あの男を求めるのかを十二分に理解しつつ、だができれば彼女には会わせたくなかった。


 トレスはセルデニー川の名も、あの男がそれを偽名としたことにもすぐに気づきながら、不用意にクリシアを刺激しないため、あえて何も話さず男の存在を無視していた。だが予感した通り、クリシアは勝手に行動に移っている。

 とはいえ、こんなに活動的に見えるクリシアは初めてで、もし彼女が元に戻るきっかけになるのなら、という期待もある。トレス自身もどうすればよいか決めあぐねている。

 一方、クリシアはここまで来たらトレスが何と言おうと男を探し出すつもりでいた。恥をかかされたままにしてはおけない。見くびられたことが大いに癪に触っている。隠す必要もなくなったのであれば、今までとは違い、探し出すのに戦略を立てて臨むことができる。


 トレスがはっきりと止めないでいる理由を彼女も察している。それを逆手に取り、当面はあの男を探すことを日課とした。

 モルトナの地図を取り寄せ、まずは出会ったセルデニー川の周辺から、男の居場所を推察する。あの風体ならば遠方から来たのではなく、少なくともモルトナ郡に住んでいるはずだ。荷車の荷は見えなかったが、およそ農作物か小作道具、あるいは町で手に入れた糧食か家財の類だろう。

 あの杣道を行き来しつつ暮らしているとなると、ラグネーゼの住人ではなく、あの日たまたま町に出た帰り道で出会った見込みが強い。

 一人で無暗に出歩けない彼女には、なるべく狭い範囲に的を絞りこむ必要があった。男が去った方角から綿密に調べると、いくつかの村を選びだす。

 久しぶりに軍人としての血が騒いでいた。


 その夜、彼女はまたあの夢を見た。

日々の出来事と夢との因果関係は分からないが、いずれにせよ彼女の心に変化の兆しが現れると、思い出したようにあれを見る。

 まだ暗い未明の部屋で、起き抜けから疲れ切ってしまった彼女は、それでも一つのことを覚えていた。正確には感触と言って良い。あの夢の中で自分が振るう短剣。あれは何だったろう。うまく思い出せないが、とても大事なことのような気がする。


 夢というものは不思議だな、と改めて思う。二年前自分が何をされたか、あの恐怖と苦痛と屈辱の記憶は、心にこびりついて離れない。

 駐屯地から出撃し森の中で敵兵に遭遇したこと。罠に陥り部下は全滅し、彼女ひとりが囚われたこと。そして未だに思い出すことさえおぞましいあの辱めの数々。

 だがその記憶が、夢の中では別の形で現れる。そして夢の中のあの気味の悪い触手の群れの方が、事実として覚えている記憶よりも殊更にこの心を蝕んでいく。


 ただ一つ、未だに気がかりなことは、自分がどうやって助かったのか、それだけが分からないことだった。

 地下牢での記憶の最期は靄がかかったように濁り、自分がどうしてあの男たちの手を逃れることができたのか、それだけがどうしても思い出せない。気付いたらぼろぼろの姿で山を彷徨っていたという言い方がぴったりだった。


 もっとも、今さらあえて思い出したいとも思わない。今まとわりついている記憶だけでも、自分をここまで責め苛み、未だにまともな食を摂れなくさせている。

 助け出された後も、父が手配した医師や尼僧たちからは、思い出さないように、早く忘れるようにと散々言って聞かされた。

 結局、忘れたい記憶は心が勝手に封印してしまったらしく、無理に思い出そうとすると決まって頭痛や眩暈に襲われるため、いつしか思い出すこともできなくなった。彼女自身、それでよいとも思っている。

 すべてを思い出すことが怖かった。


 だが、今日の夢は今までとは何かが変わったような気がした。あの短剣の感触が妙に手に残っている。夢の中のことは虚実ない混ぜだが、あの剣を振るう自分の姿は、本当にあったことだろうか。あったとすれば、自分はいつどのようにして手に入れたのだろう。

 じっとりと汗ばんだ体で考えているうちに、またとろとろとした眠気が訪れ、彼女はぐったりしながら目を閉じた。


 朝、珍しくゆっくりと起きた彼女は、寝台から下りるとまず文机の上を見た。目の前には地図がある。選び出した村々はほぼ頭に入れたが、あの男に近づいた感はなかった。まだ手駒が足りない。

 クリシアはいつものように風呂に浸かった。目を閉じて湯の温かさを味わう。ほっと息をつくと、頭の中にまで湯気が滲み込んでくるような気がしてくる。数日前に会った母娘や農民たちを思い浮かべる。彼らもこんなふうに風呂を使うのだろうか。いや平民にこんな贅沢な使い方はできない。家族一緒にそそくさと入るか、水浴び程度だろう。彼女は湯をすくうと肩に掛けた。手のひらからこぼれる音が続く。何度もすくっては肩に掛ける。温かい。


 突如、頭にひらめいたものがあった。

 目を見開き、思わず盥の中で立ち上がりかける。が、気を取りなおした。おかしな行動は禁物だ。トレスに気づかれると厄介なことになる。大きな音をたてないように、ゆっくりともう一度身体を沈めた。

 はやる気持ちをどうにか抑え込み、いつもと同じように風呂から上がると、彼女は食事を済ませた。落ち着いた足取りで自室に戻り、トレスも侍女のイリアもついてきていないことを確かめる。

 やっと地図を広げると、セルデニー川へとつながる何本もの源流や大河から分かれる支流を指で辿っていく。


 水だ。


 あの男は人目を避け、集落には住んでいないはず。とすると井戸は使えない。では水はどうする。手近な川から汲んでくるしかない。ならば川からそう遠くへも行けない。

 男が去った方角を指で辿り、おおよその目星を付ける。その口元にかすかな笑みが浮かんでいたことに、彼女も気づいていなかった。


――――――――――――――――――――


 その日、クリシアはトレスに出かけることを告げたが、行き先については曖昧にした。まだ男を見つけられる確証はない。今日も特に当てもなく出かける風を装う。


 オルテンには方角を伝えたが、自分がなぜそこを選んだのかは彼にも言わない。ただ、今までとは違う日になるような予感がした。それは、自分に都合が良いだけの淡い期待かも知れない。だが、モルトナに来るまでの彼女には到底見られなかった、明らかな目的をもった行動と、何かを得たいと願う生きるために必要な思いでもあった。

 オルテンは相変わらず黙って従ってくれるが、彼女の変化を最も如実に感じているのは彼だろう。馬車の中のクリシアは、見えぬ御者台の広い背中を感じ、彼の律儀さと自分への情愛に感謝していた。


 馬車は、やがて目指した村へと差しかかった。

 まずは付近の様子を訊いてみたい。誰かが男を見かけていないか、人目を避けて住まうことのできる場所はないか。

 オルテンが馬車を止め、御者台から降りると目についた村人に尋ねる。道々幾人かに訊いたが、特に収穫はなかった。次の集落でもめぼしい話は聞けず、彼女の頭に見込み違いかとの思いがよぎり始めたころ、彼が村人から興味を惹く話を拾ってきた。

 近くの川沿いから山へ分け入ると、今は無人となった小さな集落がある。土地の者は滅多に足を向けないが、雨露を凌ぐくらいはできるらしい。

 クリシアは馬車をそこに向けた。


 絶えず川のせせらぎを聞きながら、馬車が細い山道を進む。

 新緑の生々しい匂いが息を吸うたびに鼻孔に入ってくる。やがて山へと分け入る杣道までやってきた。

 だんだんと道が険しくなる。揺れが激しく、手で支えていないと座席から投げ出されそうだ。オルテンもさぞ苦労しているだろう。すまないな、という気持ちを感じながら、それでも彼女の心は逸っていた。

 もしかしたら、という思いが次第に強くなっていく。

と、馬車が止まった。窓からはまだ山の木立しか見えない。御者台から降りたオルテンが窓越しに告げてきた。

「この先は馬車では行けません」


 二人は馬車をその場に留め、外套を脱ぐと徒歩で山道を登り始めた。緩やかな傾斜だが、今のクリシアの身体にはきつい。息を荒げ一歩一歩踏みしめるように進む彼女を、オルテンも気遣いつつ歩調を合わせる。薄暗い山道で、時折風に揺れる梢の音の他は、二人の息遣いと地を踏む足音だけが響く。


 クリシアは女物の服と靴で来たことを後悔した。裾を端折りながら進むが、気を付けなければ転びそうになる。

 この先の集落に果たして男がいるのか。そもそも誰かが住んでいるのか。そんな思いが頭を過ぎり、幾度となく挫けそうになる。


 オルテンに休息を勧められ、古くからそこにあるような倒木に腰かける。尻が汚れるだろうが、今は構う余裕もない。目を閉じ下を向いて息を整える。昔の自分とは大違いだ。

 彼女が改めて己の不甲斐なさに気落ちしていると、オルテンの鋭い声がした。

「クリシア様、こちらへ!」

 顔を上げ、のろのろとオルテンに近寄る。彼が興奮した面持ちで地面を指し示した。まだ新しい轍の跡が柔らかな地面に残っている。


 クリシアの顔にみるみる生気が蘇ってくる。誰かがここを通ったのは間違いない。しかも轍の幅は、あの男が引いていた荷車とほぼ同じだ。クリシアとオルテンは顔を見合わせ頷きあった。ゆっくりと、だが着実に先へと進む。

 やがて、森の奥にぽっかりと空が開けた。


 二人の眼前には、山の斜面に申し訳程度に作られた集落があった。点在する数件の家はどれも人が住まなくなってからだいぶ経ち、手入れもされず、寒々しい空気が感じられる。


 小さな木橋の掛けられた小川を渡る。おそらく下で先ほどの川へと注いでいるのだろう。雑草の繁る道を進むが辺りに人の影はない。

 そよ風の中に、鳥の鳴き声が聞こえる。

 用心深く、周囲に気を配りながら二人は進んだ。と、何かの音がする。耳を澄ますと、遠くで枝を折るような音がまた聞こえた。行く手にある石垣の陰からだ。オルテンが先に立ち、ゆっくりと近づく。

 陰から覗くと、小さな畑に男が一人背を向けて立っている。苗を支える添え木を立てているらしい。

 その後ろ姿にクリシアが確信して、石垣から離れると近づいていった。


「おい、セルデニー」

 後ろからのその声にも、男は動じなかった。すでに気づいていたような素振りで、無視したまま作業を続ける。やがて手を止めるとゆっくりと振り向く。

 無造作に伸ばした灰橡色の髪。うすい無精ひげに、あの人を怯えさせるような眼差し。


 ついに、見つけた。


 クリシアが歩み寄る。

「私を覚えているな」

 男は黙っている。

「お前に偽名を使われた、ヴェナード平定候バレルトの娘だ」


 男はしばし沈黙していたが、やっと声を発した。

「何の用だ?」

 明らかに迷惑そうな態度をとる。だが同時にその問いは、クリシアの最も答えにくい問題を一言で的確に刺し貫いていた。彼女は言葉に詰まったが、悟られないように返す。

「もう一度会いたかった。騙されたままでは癪だからな」

 男は黙ったままだ。


「本当の名を教えて欲しいな」

「何のためだ?」

 男の問いに、クリシアの表情が昔の騎兵のころに戻っていく。

「お前に興味を持った。その腕前はかなりのものだ。どこでどのように身に着けたかを知りたい」

「お前には関係のないことだ」

 背を向けて作業に戻る。思った通りの答えだ。だがここで引いては、何のために苦労してここまで来たのかすら分からなくなる。

「そう言うな。無礼は承知だが、今の私の心を正直に言えばこの言葉になる」


 クリシアも伊達に騎兵隊長にまでなったわけではない。男の部下と心を通じさせるには、並みの男以上に腹を括って交わるしかない。場数は踏んでいるつもりだ。

「私も以前は軍にいた。武人を志した者として、お前の腕には敬意を払っている。久しぶりに血が騒いだ。ぜひ話を聞かせて欲しい」


 敵ではないことを知らせ、自尊心をくすぐり、相手に主導権を与えて言葉を引き出す。もちろん、これでこの男がやすやすと心を開くとも思えなかった。案の定、男は黙って手を動かしている。初対面での深入りは禁物だ。今日のところはこの程度だな、と彼女が悟る。居場所を掴んだ以上、焦る必要はない。

「また来てもよいか?」

 無論承諾を得る気はなく、つまりはまた来るぞという宣告だ。男は黙っている。あからさまには拒絶されていないと安堵し、背を向けて帰りかけたが、ふと思い出したように振り返る。

「一つ訊き忘れた。お前と私はどこかで会っているのか?」


 それは用意した言葉ではなく、全く突然にひらめいたものだった。初めて出会った時の男の自分を見る眼差しが、いまここで思い出された結果だ。

 男の足元で枯れ枝の折れる乾いた音がする。踏んだのだろう。不意に重心が変わったか、足に緊張が走ったか、それとも偶然か。彼女にも判断はつかなかった。


 帰りの馬車の中で、クリシアは服の裾を払い、靴の泥を念入りに拭っていた。オルテンには今日のことは口止めしてある。自分が言った言葉、あの男の腕前に驚嘆したことは事実だ。だが自分があの男に興味を持つのは、技量やあの顔つきなどではなく、あの男の自分を見る目のような気がしている。

 独りよがりかもしれないが、あの男自身、自分に何かを感じているような、そんな気がする。


 年頃の娘なら思慕の念とでも思って恥じらうのかも知れないが、そんなものではない、もっと重たい何かを。

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