メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
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第二十三話 蒸留窯と枸櫞(くえん)採り

公開日時: 2021年2月20日(土) 11:10
文字数:5,285

自分があの男にこだわるのは、世間によくある男女のこととは根本的に違う。だがそれが何であるかはまだ分からない。

 月が替わり、季節は夏へと差し掛かっている。

 モルトナでは、館の皆で植え替えたマーカスの畑の作物も、ぐんぐんと伸び葉が生い茂っていた。虫が出始める季節のため、トレスが新たに頼んだ近くの小作女たちが手伝いに来ている。

 晴天の下、マーカスと中年の女たちは汗を流しての虫取りに余念がない。

 

 それを、木陰に止めた馬車の中からクリシアが遠目に眺めていた。

 

 マーカスとは、あれ以来直接会わずにいる。

 それはトレスに言われたからでもあるが、何より会ってどうするかの決心が彼女自身につかないためだ。

 話したいことはたくさんある。だが、おそらくあの男は自分との会話を欲しはしないだろう。無視されれば、それだけ惨めな気分を味わうだけだ。

 

 こんな覗き見のような真似も十分恥ずべきことだが、それでも遠目にマーカスを見ているだけで、クリシアは以前と違う気分になることができた。父の居城にいたころとは違う。あの男がいることで、いつか何かを変えられるかもしれないという予感。

 今のところそれは淡い期待でしかないが、彼の普段の動向は知っておきたい。

 こんな自分に、文句ひとつ言わずつき従っているオルテンはどう思っているだろう。まさか私が、あの男に思慕の念でも抱いたと思っているだろうか。

 

 クリシア自身、自分がマーカスにこだわる気持ちを理解できないでいる。

 兵士だった時代、確かに自分に色目を向けてくる男は数知れずいた。その中には、地位、身分、武勇、そして風貌も優れた者たちもいた。

 クリシアも、女としての自分の見た目が悪くはないという自覚は持っていたが、あの頃はそういった者たちと男女の仲になることなぞ考えもしなかった。では今はどうか。相手がマーカスだったら。

 そう考えた彼女を、冷静な自我が現実に引き戻す。

 

 そんなことはあり得ない。

 

 筋張って萎びた手が少し震える。

 私はもう人並みの女とは言えない。誰かに添い遂げる資格もない。そもそも今の私は、男から見て色恋の対象にはならないだろう。まして相手があの男であればなおさらだ。

 

 畑に見え隠れするマーカスに視線を戻す。彼は、一緒に働く女たちとも殊更には交わらず、黙々と自分の日課のみに忠実に動いている。

 自分があの男にこだわるのは、世間によくある男女のこととは根本的に違う。だがそれが何であるかはまだ分からない。

 彼女はほっと息を吐くと、御者台のオルテンに馬車を出すように言った。

 

 夜、いつものように味のない豆粥の食事を終えたクリシアは、早々と自室で一人になっていた。彼女の日常は、たまにマーカスの様子を見る以外ほとんど依然と同様に戻っている。取り立てて何をするわけでもなく、日がな一日退屈しのぎを探すだけの日々。

 

 手持無沙汰になった彼女は、気晴らしになる品を探してアンブロウの父の城から持ってきた衣装箱を開けた。剣の一振りでもあれば振り回したいところだが、父親の命で武器の類には一切触れることができない。

 こまごまとしたものをかき分けているうちに、彼女は小さな木箱を見つけた。開けてみると赤い布が入っている。

 ああ、これも持ってきていたのか。

 彼女はその木箱を持つと、ふと思い立ち部屋を出て行った。

 

 自室で書き物をしていたトレスは、クリシアが戸口に姿を見せたので立ち上がって迎え入れた。

「どうなさいました」

「トレス、この布を見てくれるか?」

 彼女が小さな箱を開け、赤い布を取り出す。蛇か竜かが絡みついた紋章らしきものが染め抜いてあるが、途中から切れているため定かにはわからない。

 受け取ったトレスが、手触りを確かめる。

「上等な織物ですね。どこのものでしょう?」

「そうか。トレスにも分からないか」

「どこで手に入れたものですか?」

 

「私が助け出されたとき、腕に捲いていた」

 その言葉に、トレスの表情が険しくなる。クリシアにとって、決して思い出したくない記憶に結びつく品だ。だが、どうやらそれだけでは言い表せない何かにつながるものらしい。

 

 クリシアが、今も傷跡の残る左腕に手をやりながら言う。

「私が見つかったとき、この左腕の傷だけは受けてまだ日が浅かった。そして、その布が捲かれていた。誰が捲いたのかは分からない」

 彼女自身にも記憶はないが、のちにそう聞かされて以来、その布は彼女にとって殊更に大切なものに思え、小箱に終って自室に置いていた。

 

「平民の持つものではありませんね」

「私を捕えた奴らとは思えない。だとしたら、それを捲いてくれたのは誰なんだろう?」

「お嬢様は、その者がご自分を救い出したとお思いなのですか?」

「分からない。あの時何があったのか、肝心なところだけがすっぽり抜け落ちている」

 

 そして、まだらになった記憶を手繰り寄せようとする度に、決まって感じるあの頭痛や眩暈。あのせいで思い出したい記憶すらも思い出せない。

 だが、野盗がこんな布を盗むだろうか。どんなに高価であろうと、町に出て金と交換しなければならないものなど盗んだところで役に立たない。まして紋章入りでは出所もすぐに知れる。としたら、どこの誰のものなのか。

 この布は、あの短剣と同様に、彼女の中での謎の品だ。

 そしてこのモルトナに移り住んでから、あの夢の中身が少しずつ違うように感じられるのも、何かの暗示なのだろうか。

 

 考え込んでいる彼女にトレスが声をかけた。

「お嬢様、昔の記憶とは決まって良いこと、正しいことばかりとは限りません。身体や心は正直です。思い出せないにはそれなりの理由があるはず。くれぐれも無理をなさらずに。時が来れば自然と取り戻せるものもあります」

「そうだな」

 クリシアは頷いたが、納得していないことは明らかだ。

 

「ところで、明日はマーカスに届けるものがあります。ご一緒にいかがですか?」

 トレスは話題を変えた。クリシアの目つきが変わる。

 

 そういえば、日中レントールが積荷を摘んだ荷馬車を引いていた。何かは知らないが、トレスが私に声をかけたということは、行けば私にも何らかの利が生じるということか。

 何より、面と向かってマーカスに会える。まだ一抹の不安はあるが、ここは従ってみた方がよさそうだ。彼女は素直に頷いた。

 

――――――――――――――――――――

 

 あくる日、良く晴れた日差しの中を、城館から二台の馬車が連なって出立した。先を往くレントールの馬車の荷台には幌のかかった大きな荷が載っている。

 

 マーカスはいつものように畑にいた。

 馬車を認めると手早く仕事を片付け向かってくる。トレスやレントールの挨拶に無言で頷き、早速荷を下ろしにかかる。

 

 それは、銅でできた大きな円柱形の鍋だった。

 大人が腕を伸ばして抱えても両手が届かないほどの大きさだ。三つある。荷馬車から下ろすとマーカスはそれぞれを品定めするように注意深く見ている。

 クリシアは、なるべく彼の視界を外れるように意識しながら、覗き込んでみた。

 

 二つの鍋は重ねられるようになっており、上の鍋は底に小さな孔が空き、網目のようになっている。被せる蓋は兜のように中央が盛り上がり、そこから鳥の嘴のような長い管が横向きに伸びていた。もう一つの鍋の中には、縁に沿うようにして銅の蔓のようなものが螺旋を描きながら下りている。

 何に使うものか全くわからない。だがマーカスに質す気にはなれなかった。

 

 手で触りながら、仕上がり具合を調べているマーカスにトレスが声をかける。

「あなたの図面通りの仕上がりだと思いますよ」

 

 頷いて返したマーカスが、鍋を小屋の裏手に運んでいく。レントールが手伝った。

 クリシアとトレスも後について裏手に回ると、雨避けに作られた小屋の中に、石造りの竈があった。マーカスがレントールと共に鍋を据え付ける。あらかじめ入念に造ってあったらしく、窪みにぴたりとはまる。いくつかの部品を取り付け組み立てると、クリシアが見たこともない装置のようなものが出来上がった。

 

 石造りの竈の上に二段に重ねられた鍋が載っている。人の背を越えるほどの高さだ。蓋から横向きに伸びた管は、徐々に下がりながら隣に一段低く置かれた三つ目の鍋の中にまで伸び、鍋の中で螺旋を描く蔓へとつながっている。鍋の底近くに横向きの栓があった。

 

「これは?」

 そう問うクリシアにトレスが応える。

「蒸留釜ですわね」

「蒸留釜?」

 クリシアが訊き返す。

 

 薬草や香木を釜の中で蒸し、上がった湯気を集めて冷やすとまた水へと戻る。その中には植物から採り出された溶液が混ざっており、上澄みを掬うとそれが摂れる。素になった薬草や香木の香りがする濃縮された液で、塩や藻粉に混ぜて薬材にしたり、花から採ったものを油で薄めると香油になる。

 クリシアも普段使っているものだが、マーカスがそんなものを作れるとは、彼の印象と結びつかず、何とも言えない心持ちでいた。 

 

「原料の薬草はどうするのですか?」

 トレスがマーカスに訊ねる。

「この近辺の針葉樹から試してみるが、そのうちに遠出の許しも欲しい」

「針葉樹を?」

 トレスが訊き返す。

「樅の葉を蒸留すれば、気付けに使えるし毒消しにもなる。それと……」

 彼は、遠くに見えている丘を見据えながら答えた。

「あの丘の向こうに野生の枸櫞があった。あれは使える」

 

「くえん?」

 クリシアが口に出す。

 

 枸櫞ならば料理に使われるので知っているが、それをこの蒸留釜でどうするのか。しかもこの男には、野生の果実を見てそれが生薬に利用できるものと即座に判断できるだけの知識もあるということだ。

 そんな知識と技能を持っていることが不思議で、彼女は思わず訊き返していた。

「お前、どこでこんな技を覚えたんだ?」

 マーカスはその時初めてクリシアに顔を向けた。彼女が少したじろぐ。この男の眼は、いつも自分を射すくめる様だ。

 だがその時、珍しくマーカスは素直に問いに答えた。


「以前、薬草を扱っていた。製薬についても一通りは知っている」

 その言葉に、皆が感心したように彼を見る。

 

 数日後、マーカスが枸櫞を採りに行くため人手を借りに来た。ポルコフとレントール、そしてクリシアもオルテンの馬車で付いていくことを許される。手伝えるか否かは分からないが、少なくとも気晴らしにはなるだろう。

 彼女に新しい経験をさせることに、トレスもやぶさかではない。

 

 畑から丘を一つ越え、なだらかな丘陵地帯を進んでいくと次第に木々が深く濃くなってくる。山間の森にまで分け入ると、南向きの日当たりの良い斜面に、黄緑色の実がぽつぽつと見え始めた。

 枸櫞の木はさほど高くはならない。本来はせいぜい人の背丈の倍ほどだが、樹齢も長く山の斜面に自生しているため、手を伸ばして収穫できる高さの実は少なかった。枸櫞の実を蒸留するにはまだ若く青い実の方が望ましい、とマーカスは言った。

 そして彼が木を選び、よさそうな実を教えて梯子を立てかけると皆で鋏を手に採り始める。クリシアは少し離れたところからオルテンとその様子を眺めていた。

 

 改めて、マーカスには不思議なものを感じる。

 この男の過去は知らないし、自分から進んで話そうとは決してしないだろうが、かなりの物知りであることは間違いない。常人離れした武術の嗜みと広く深い造詣。この男の底は計り知れない。それが彼に惹かれる一番の理由でもあるが、迂闊に近づきすぎると自分までがこの男の中に取り込まれそうで、心なしか怖い気もする。

 クリシアの脳裏に、訳もなくあの時の記憶が戻りかけてきた。自分に抱えきれないほどの傷を与えたあの出来事。不意に寒気を感じ、彼女は陽の光を求めて場所を変えた。

 

 枸櫞の実を採る三人を眺めながら、周りの風景に目を移す。オルテンは馬の様子を見ている。鳥の囀りが聞こえ、暖かな風が流れる。余人が見ればなんとのどかな光景だろう。

 

 私という者の幸、不幸に関わらず、日々自然は移ろっていく。

 

 山の斜面に脚を取られないよう注意しながら少し歩いてみた。ふと先を見ると、手を伸ばせば届きそうなところに枸櫞の枝が伸び、先に黄緑の実が下がっていた。熟したものは肉料理や菓子に使われるが、これがマーカスにとっては生薬となるのか。

 

 おもむろに手を伸ばす。もう少しで届きそうだが本のわずかに足りない。彼女は傍らに生えていた木に片脚を掛けるとよじ登るようにして手を伸ばした。

 もう少し。

 背伸びをしていっぱいに腕を伸ばす。実に届いた。だが、まだ若く青い実はなかなか枝から外れなかった。身体を無理にひねっているため上手く力が入らない。彼女はもうわずかに背を伸ばし、身体の重みをかけて力任せに引いた。実が捥げる。採れた。

 が、その反動で体勢が崩れた。素早く周囲を見るが掴まれそうな枝はない。

 

 いけない。

 そう思った瞬間、身体が宙に浮く感覚があり、次いで真っ逆さまに堕ちた。

 

 咄嗟に受け身を取ろうとしたが、今の身体では無理だった。地面に背中を打ち付けると、身体が斜面を転がり始める。オルテンの叫び声がする。だが彼女には、自分の身体が今どうなっているのかさえ分からない。転がりながら木の幹に額をぶつける。あっと思ったが、なおもずるずると滑り落ち、太い木に腹をぶつけると引っ掛かるようにしてようやく身体が止まった。

 頭が揺らぎ周囲の景色が回っている。


 そのまま気が遠くなった。

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