あの日だ。自分の一生が変わったあの日。
暗い。身体が一定の周期で揺れている。
ここはどこだ。徐々に視界が開けてくる。だが視野は狭い。
クリシアは、自分が冑の面頬越しに見ていることに気づいた。馬の手綱を握っている。彼女は、馬にまたがり森の中に居た。臨戦態勢で、慎重に周囲に気を配りながらゆっくりと進軍している。後ろに続く小隊の部下たちの蹄の音が響く。
あの日だ。自分の一生が変わったあの日。
「大軍が潜んでいる気配はなさそうだな」
隣で馬を進める副官のアネテロが言う。古強者という言葉が誰よりも似合う歴戦の勇士だ。彼の信頼を得るにはかなりの苦労もしたが、今では彼女に尽くすもっとも信頼できる部下だった。
前方から、斥候に出した二騎の部下が戻ってきた。馬を制すと面頬を跳ね上げざま報告する。
「誰もいません。逃げた後のようです」
昼なお暗い森の中に、自分たちの小隊以外に人の気は感じられない。クリシアとアネテロが面頬を上げ、顔を合わせる。
「どうする?」
アネテロが彼女に判断を求めた。騎馬では森の戦闘に向かない。伏兵がいた場合はむしろ不利となる。
もとより彼女の隊は、大掛かりな戦闘を目的に出撃したのではなかった。ヴェナードの敗残兵とみられる一団が近辺に出没したとの報告を受け、状況把握のためにここまで来たに過ぎない。駐屯地からもだいぶ離れた。初めは平地だったが、先へ先へと捜索を続けるうち、いつしかこの森にまで入り込んでいる。
見える範囲に敵がいないのであれば、ここは戻った方が無難だ。だがその時、アネテロがつぶやくように続けた。
「この辺りは今まで何度も野盗が出ている。村がいくつも襲われているらしい。おそらく奴らの仕業だろう。できれば早く片付けたいがな」
武骨なこの男が、殊更に民に気を遣うような言葉を発するのは珍しい。クリシアはアネテロを見た。義憤に駆られて危ない橋は渡れないが、この男が言うからには勝機を目算に入れてのことに違いない。
「日暮れにはまだ時がある。もう少しだけ進もう」
クリシアは命じた。アネテロが頷く。
「俺が先導する」
そう告げると馬を先に出す。
しばらく進むと森はさらに深くなり、道も細くなってきた。いかんな。かすかな不安が心を掠める。この地形は騎兵にはもっとも危ない。アネテロもそれと察したらしく、馬を止めた。クリシアが脇に並ぶ。
「俺が先の様子を見てくる。皆は待機していてくれ」
そう言い残すと、彼がまた馬を走らせる。残された者たちは、用心深く周りに目を配った。森の木々が風に揺れる。どこからか響く山鳥の鳴き声以外に音はない。
「ジュール、そう固くなるな」
クリシアが、傍らにいる小柄な一騎に声を掛ける。ふた月前に補充として加わった兵士だった。彼女より五歳も年下で、隊では最年少だ。こちらを見て応える声が、それでも上ずっている。
後ろのガトゥーリオが、くくくと笑いつつ言った。
「何度か場数を踏めば慣れる。それまでは仕方ないと腹を括れ」
「ジュール、隊長の近くで好い匂いを嗅いでいられるのも今のうちだぞ。早く一人前になれよ」
パセストだな。クリシアが冑の下で微かに笑う。
「そうしたら、俺の後ろに来い。次は俺の臭いを嗅がせてやる」
後ろから聞こえたディアッコの声に皆が小さく笑った。
敵地での無駄口は命取りともなりかねないが、今はジュールを気遣う皆の言葉が心地よい。下卑た軽口も、全て気心の知れた仲間であればこそだ。そして、彼らの言葉の語尾に宿るそこはかとない緊迫感。皆が己を兵士として、ここを戦場として常に自覚している。
女の自分が、苦労と挫折とを延々と繰り返し、何年もの月日をかけてやっと手に入れた有能な部下たちだった。
もうじきこの大戦も終わる。出撃もこれが最後かもしれない。
だが、自分はまだこの隊を離れる気はない。この荒くれどもと一緒に、この先も野山を駆け巡って生きるのも悪くはない。
周囲に目配りしつつ、徐々に陽が陰っていく森の中を眺めた。
しばらく待ったが、アネテロは戻ってこなかった。無茶をする男ではない。
クリシアは次第に高まってくる怪しげな思いを部下に気づかれぬよう、あえて声に出していった。
「アネテロが敵を見つけなければ、ここで引き返す。最後まで気を抜くな」
返答はないが、全員が頷いたことが知れる。我々の信頼は固い。クリシアはこの部下たちと共にいることに満足していた。
と、前方から音が聞こえて来た。駆けてくる馬の跫だ。アネテロが戻ってきたのか。だがおかしい。蹄の音が響くほどの速足では敵に気づかれる。瞬時に何かあったと悟る。そして、前方から一気にかけてくる彼の馬の背に、アネテロはいなかった。
全員が愕然とする。まさかアネテロが、あの男がやられたのか。馬が隊の前でやっと足を緩める。いずれにせよ放ってはおけない。
「進むぞ!ベーレン、ディアッコ、お間たちはこの場に残れ」
後方の二騎に命じると、クリシアは残りの兵と馬を進めた。何が起きた。アネテロは無事か。一本道の先、木陰に身をひそめる人影を認めた。見慣れた甲冑。アネテロだ。だが突如、そのアネテロ目がけて弩の矢が跳んできた。思わずみな早駆けとなる。
「アネテロ!」
叫んで駆けつけようとしたクリシアの馬の前足が、突然地面へと吸い込まれる。落とし穴だ。
あっと思った瞬間、馬の前脚が折れ、鞍から放り出される。頭から地面に叩きつけられ、身体に激痛が走った。後に続く部下たちの馬も同様だ。
クリシアはすぐに起き上がろうと思ったが、目がくらみ方向感覚も狂った。風を切る音が立て続けに聞こえる。
弩だ。不意打ち、しかも待ち伏せだ。
怒号と悲鳴が渦を巻く。頭を振り、やっとのことで周囲に目をやる。冑は飛んでしまっていた。見回す彼ら目がけて敵兵の集団が襲いかかってくる。
地面に投げ出され痛む身体で迎え撃った。剣を抜くと同時に、敵兵が切りかかる。必死の思いで数合切り交わし一人を斃す。次いで二人目。
背後に斬りかかってくる兵をパセストが荒い息で迎え撃つ。だが、彼の背には弩の矢が深々と突き立っていた。
歯噛みをしつつ、クリシアも自分の防御で精一杯だ。くぐもるような悲鳴に振り返った彼女の目に、敵兵の刃を深々と受けたジュールが映る。
「ど、どうして……」
自分の吐く血泡を手に受け、信じられないものを見たかのような表情で倒れる。
「くそうっ!」
駆け寄ったガトゥーリオのこめかみを、太い矢が貫いた。
劣勢の部下たちが、次々と斃れていく。クリシアも三人の敵に囲まれた。彼女の顔を見た男たちが、意味ありげに目くばせをする。彼女の脳裏に同時に二つの思いがよぎった。ここで殺されるか、それとも生け捕りにされるか。どちらも最悪だが、もし後者となった場合その後で何が起こるか、それは容易に想像がつく。
敵兵はじりじりと迫ってきた。すぐに切りかかってこないのは、こちらの腕を知っているからか、生け捕りにしたいためか。
彼女の心が、だんだんと締め付けられるようにきしみ始める。
遮二無二切りかかり道を開こうとしたとき、殿にと残した二騎が駆けつけてきた。だが彼らも、いつの間にか木立の間に張られた綱に馬の脚を取られ、次々に落馬する。
クリシアも剣を振り回しながら退路を開こうと必死だ。敵の剣をかわしながら、少しでも有利な場所へと移動する。首を回したクリシアの眼に、木陰のアネテロが見えた。敵の刃をかわしながら駆け寄る。
「アネテロ!」
肩に手をかける。だが、だらんと振り向いたアネテロの甲冑に中身はなかった。主のいない空の甲冑が足元に転がり、クリシアの動きが止まる。その虚を突かれて敵兵に取り囲まれた。
剣を振りかぶると右に左にと振り回す。
常の彼女であれば、ここまで追いつめられることはない。だが落馬の衝撃と部下たちの惨状に身体も心も打撃を受け、なかなか包囲は解けなかった。
必死に戦いながら新たにもう一人斃す。
見回すと、部下は一人もいなかった。敵兵も幾人か斃れているが、クリシアの率いていた十一名は全滅だ。
やっと心を通じ合えた仲間が、あれほど大事だった部下が、全て死んでしまった。
「ええいっ!」
怒りと共に切りかかる彼女の剣を敵兵がかわす。踏み出した足がぬかるみに取られ、体が揺らいだその時、後ろから敵兵が身体ごとぶつかってきた。
泥の中に突っ伏したクリシアに、たちまち男たちが圧し掛かる。押しつぶされそうになり、彼女は思わず悲鳴を挙げた。男たちの怒声がそれをかき消す。
剣が捥ぎ取られ、体を押さえつけられたまま髪を掴まれると、強引に顔を引き上げられる。苦痛に顔がゆがんだ。生い茂る森の梢の下、顔を寄せ合い覗き込んでくる男たちの顔。全ての眼がぎらついている。
「離せっ!」
だが、男たちは無言のままだ。荒々しい手で甲冑の革帯が切られ、体から次々とはぎ取られていく。彼女の額にどっと汗が噴き出した。
「や、やめっ……」
叫びかけた口にすかさずぼろ布が掛けられる。籠手が外され後ろ手に縛られると、両脚にも縄が巻かれ、そのまま体が持ち上げられた。
猿轡の下からうめき声を挙げ、必死にもがく。
正面に一人の敵兵が立った。他の兵にはない威圧感に満ち満ちている。睨みつける彼女の眼を無情な顔で覗き込むと、やにわに鳩尾に拳を入れた。苦痛に息が止まる。
そのまま何も分からなくなった。
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クリシアは汗まみれで目を覚ました。その目に映るのは、古びた梁と板葺屋根の天井だ。
マーカスの小屋だった。寝台に寝かせられている。陽が落ちつつあるのか、中はもう薄暗い。傍らで、椅子に座ったトレスが穏やかな顔で見守っている。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、すまなかった」
起き上がろうとする彼女をトレスが制する。
「もう少しお休みになられてから、館に戻りましょう」
寝かしつけながら、額に載せてあった手巾を検め裏返す。
「ご気分はいかがですか」
「大丈夫、だと思う」
濡れた手巾がひんやりと気持ち良い。こぶができたようで、軽く疼いていた。
トレスが、すこし言いにくそうに口に出す。
「……悪い夢でも見ましたか」
そういわれて、クリシアは今まで見ていた光景を思い出した。
夢。いやあれは夢ではない。二年前現実に起こり、そして無理やり忘れようと心の片隅に隠し続けてきた、最も思い出したくないあの場面だった。しかもつい今しがたのことのように克明で生々しい。木の幹に身体をぶつけたはずみで、心の中の何かが掘り起こされたのか。
彼女の心にまた闇が取り憑き始めていた。
自分の身に起こったことはもとより、目の前で死んでいった部下を、仲間を思うと、決まって息が詰まり胸に疼痛が走る。いたたまれなかった。
「私をここに運んでくれたのは?」
天井に顔を戻しながらクリシアが訊く。
「マーカスです。オルテンが私を呼びに来ました。ここに着くまでずっと介抱してくれていましたよ」
「そうか……」
「大事にならなくて安心しました」
「すまない……皆には謝ってくれ。私の不注意だ。彼らに責任はない」
トレスが心得ているとばかりに微笑みながら頷く。クリシアは一息ついたが、はたと思い当った。
「そうだ、枸櫞はどうした?収穫は」
「それは」
トレスが口ごもりながら、取り繕うように続ける。
「ご心配なく、日を改めて採れば良いことです」
クリシアの表情がたちまち暗くなる。自分のせいでマーカスたちの仕事を台無しにしてしまった。そう思いながら、ふと左袖がめくられ、手首に布帯が巻かれているのに気付く。
「傷になっていましたので、マーカスが手当てをしたそうです」
聞きながら思う。では、あの男は私の身体に触れたのか。いや、そもそも私を運んだのなら当然だ。この身体を抱きかかえて運び、傷の有無を確かめ手当てをした。今の私の身体がどれほど枯れ果てみすぼらしいものか、それを知られないようにこうして身体を覆い隠すような服ばかりを着ていることも、他人に触れられることをずっと拒んでいることも、全て自分の眼で知ったのか。
クリシアが再び目を閉じると、ゆっくりと両手で顔を覆う。困惑するトレスの目の前で、その体がじわじわと震え始める。
「……悔しい」
指の間から、噛み殺したような声が漏れ、やがてすすり泣きへと変わっていく。
「私は……何のために生きている? 一人では何もできず、皆に迷惑をかけてばかりだ」
「クリシア様」
「私は、もう生きていたくない」
今まで抑えていた言葉が、終に口を出る。
「いっそ消えてなくなりたい。だがそれも禁じられている。私は……私は何のためにここにいる?」
トレスにもかける言葉が見つからず、ただ慰めるようにクリシアの肩を擦るだけだ。彼女の嗚咽はいつまでも止まらなかった。
その声は、扉の外で一人夕暮れを見ているマーカスの耳にも届いていた。
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