メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第七話 蟻の這う路

公開日時: 2021年1月4日(月) 10:40
更新日時: 2021年7月24日(土) 13:01
文字数:4,662

なぜ俺は、今たった一人で血の海の中にいる。

 若い兵士の一隊も、相変わらず城の中を彷徨っている。暗く冷たく狭い通路を、いつフェルゾムに襲われるか分からない恐怖と戦いながら。みな頭がおかしくなりそうだった。

 と、目じりに傷のある古参兵が、先頭を進んでいた分隊長を呼び止めた。

「ここは、さっき通った場所です。壁のこの傷に見覚えがあります」

 立ち止まり、皆で周囲を見回す。

「そうだな。どうやらさっきとは逆方向から歩いてきたようだ」

 迷路のような通路に惑わされ、いつの間にか堂々巡りをさせられているらしい。

「二つ手前の角を右に曲がってみよう。そうすれば違う方向のはずだ」

 隊長がそう言って踵を返した時だった。


 気配は全くなかった。甲冑の音も聞こえなかった。にもかかわらず、奴は突然現れた。

 目の前の大きな影に、隊長が弓っと叫ぶ。弩と手弓が矢を放つ。すかさず身をかがめた騎士に、隊長が松明で打ちかかる。剣を抜く暇はない。

 が、振り下ろした先にフェルゾムはいなかった。あっという間に脇をすりぬけた騎士が、二番手の兵士の頭を戦棍で一撃する。

「オルターっ」

 斃れる戦友の名を叫び、後ろの歩兵が槍を繰り出す。フェルゾムが造作もなく掴む。強烈な力で押し戻され、後ろの兵たちにぶつかると折り重なるように倒れる。騎士の背後から隊長が松明を横殴りに振り払った。フェルゾムがかわしざまに戦棍で胴を殴りつける。隊長の甲冑が中身ごとひしゃげた。

 若い兵士が弩を放つ。だがフェルゾムが瞬時に身をかわし、矢は奥の闇へと消えていった。

 莫迦な。この距離で当たらないとは尋常な動きではない。

 フェルゾムが近づいてくる。倒れた兵士たちが起き上がったとき、血まみれの冑と赤い面頬が眼前にあった。驚愕する彼らを戦棍が次々と叩き潰す。手槍を奪い取るや弓兵めがけて投げつける。咽喉を貫通した衝撃で弓兵が若い兵士を巻き込み、二人とも床に転がった。フェルゾムが近づいてくる。

 その騎士の前に、古参の兵士が立ちはだかった。


 剣を構える兵士に、フェルゾムが顔を向ける。若い兵士が起き上がったが、手の中に弩はない。拾って矢をつがえる隙もない。腰の剣を抜くと古参兵の脇に立つ。目をフェルゾムに向けながらお互いに切りかかる機会を窺う。

 フェルゾムが一歩踏み出そうとしたとき、二人は同時に打ちかかった。フェルゾムが古参兵の剣を戦棍ではねのけ、若い兵士の剣をかわすや左手で突き飛ばす。後ろに吹っ飛び、壁にたたきつけられた。騎士が近づき戦棍を振りかぶる。やられると思った瞬間、後ろの気配に気づいた騎士が身をかわし、そこへ古参兵の繰り出す手槍が突き出した。空を突く槍にたたらを踏みつつ、古参兵が剣を振り払う。かわす相手に、体勢を立て直した彼が手槍と剣を両手に対峙する。


 若い兵士が痛みに呻きつつ身を起こすと、フェルゾムもゆっくりと踏み出した。二人が後ろに下がる。松明から離れて徐々に辺りが暗くなり、迫りくるフェルゾムの姿は、背後から照らす炎に大きな影となっていった。


 強すぎる、と思った。俺たちの敵う相手じゃない。力も素早さも人間とは思えない。

 古参の兵士が手槍を繰り出す。同時に剣を振りかぶりフェルゾムの肩口を狙う。騎士が穂先をよけつつ柄を掴む。途端に槍は動かなくなった。切りかかる剣を戦棍で受け、そのまま押し潰すように力をかける。体を後ろにのけぞらせながら、男が声を絞るように叫んだ。

「……逃げろ」

 若い兵士は迷った。だが自分ではどうすることもできない。二人でも勝ち目はない。

「逃げろぉっ!」

 古参兵が大声で叫ぶ。若い兵士は彼を見た。渾身の力でフェルゾムを抑える体が、じわじわと潰れていく。若い兵士は後ろを向いた。そして走った。暗い通路を、どこに向かうかもわからず逃げた。

 後ろから、戦棍が人間を打ち砕く鈍く湿った音が響いてきた。


――――――――――――――――――――――――

  

 若い兵士は駆けていた。真っ暗で狭い通路を、壁を手で伝いつつ出せる限りの力で走った。

 突然ぽっかり空いた穴に手を突っ込み倒れそうになる。何とか身体を立て直し、足元を探ると階段があった。上ってきたらせん階段だ。すかさず降りると、記憶を頼りに壁を伝いながら元来た通路を遡る。

 ようやく初めに入った控えの間の扉を見つけ、彼はやっと安堵した。とにかく仲間と合流だ。何人いればフェルゾムに敵うかは分からない。だが、この狭苦しい通路よりも広い部屋のほうがずっと有利だ。扉に手をかける。

「おい、入るぞ。撃つな」

 返事はない。

「いいか、入るぞ」

 扉を開け、そしてそのまま立ちすくむ。

 部屋の中にあったのは、血まみれになった仲間の残骸だけだった。


 まともな形の死体は、卓の上に横たわった一人だけだ。表で矢を受け重傷だった男。そのまま息を引き取ったのだろう。そして、他の兵士は室内の至るところに散らばっていた。部屋一面に血が飛び散り、皆悉く甲冑ごと寸断されている。

 腹を両断され赤黒い臓物を垂れ流しているのは、あの古参兵が弩を手渡した男だった。弩の矢が一本、壁に突き立っている。脚に傷を負った見覚えのある歩兵は、頭が斜めになくなっていた。数歩先にその片割れが落ち、血と脳漿がこぼれている。剣を握ったままの手首があった。その持ち主は、肩口からざっくりと切り裂かれぼろ布のように転がっている。部屋の奥では、盾代わりに横倒しにした卓が真っ二つになり、甲冑の両脚と血だまりが覗いていた。

 兵士は、上半分が切断された盾に目を止めた。裏に首のない胴体が倒れている。盾もろとも一撃で首をはねたのか。並大抵の剣と力では、絶対にできない芸当だ。


 これは人間の仕業じゃない。やはりこの城にいるのは人間じゃない。フェルゾムは人間じゃない。顔中を汗がしたたり落ちる。

 その時、後ろの通路から足音が聞こえてきた。


 振り返り、扉の奥に耳を澄ます。重々しい足音がゆっくりと近づいてくる。味方の足音ではない。まるで暗い渦のような塊が、通路いっぱいに膨れ上がりながら近づいてくるような、そんな気持ちにさせる音だ。

 思わず逃げた。反対側の扉まで大股で進むと扉に手をかけ、一瞬躊躇する。もしこの先に奴らがいたら。だが、そんな余裕はなかった。背後の扉が軋み、彼が振り向く。

 今通ってきた戸口から、赤い仮面の血まみれの騎士が体を覗かせていた。


 取っ手を掴むや勢いよく開ける。誰もいない。中に突っ込み乱暴に扉を閉めると、暗い通路を一目散に走った。汗と涙と涎で顔中が濡れていた。

 いくつもの角を曲がる。方向感覚はとっくになくなっている。もうどこに向かっているのかも分からない。とにかくここから抜け出したい。いやだ。この暗い通路はいやだ。

 と、行く手の壁が明かりで揺らいでいるのが見えた。松明だ。仲間がいるかもしれない。追われる恐怖に、用心も忘れ駆け寄る。確かに松明だった。だがそれは床に転がり、半ば燃え崩れている。その先には、おびただしい量の血潮が流れていた。

 兵士は短くなった松明を拾うと、床や壁一面をおおった血しぶきを照らした。頼む、誰か生き残っている者はいないのか。

 だが誰もいなかった。血だまりに何かが散らばっている。近づくと、それは切り落とされた指だった。頭皮がついたままの髪、血まみれの甲冑の破片。奥の床にも松明が転がり、その手前にも何かが落ちている。人間の耳だ。見覚えのある古い傷跡。

 それは、クリムラント隊長の右耳だった。


 おかしい。俺たちは、オラード軍から選び抜かれた精鋭じゃなかったのか。誰もが、剣も弓も使いこなせる強者じゃなかったのか。フェルゾムを斃すために、あのくそ長い訓練を来る日も来る日も続けたんじゃなかったのか。それなのに、なぜ俺は、今たった一人で血の海の中にいる。暗い通路に天を仰ぎ目を閉じる。

 もうここには誰もいない。自分以外に誰もいない。分かったのはそれだけだ。そのとき、後ろからあの重苦しい足音が聞こえてきた。

 慌てて松明を捨てる。足音を立てぬように、その場から逃げた。


 通路を進む足が、だんだんと速くなっていく。どこにも光はない。目を開けているはずなのに、何も見えない。ものを視るという感覚自体がなくなってしまったようで、ともすれば上下左右も分からなくなるような心地悪さだ。何百年も前から、何もない洞窟にでも押し込められたような息苦しさだった。

 両手を伸ばし左右の壁を指先で伝いながら進む。自分の手が壁を擦る音、自分の足が床を踏む音、そして徐々に大きくなっていく自分の呼吸。冷たく湿った真っ暗な通路を、どこに向かうかもわからず進む。石畳に足を取られて転んだ。冑が落ち、石に打ち付けられる鉄の音が通路の奥へとこだまする。

 聞かれたかもしれない。奴はきっと追ってきている。


 なんてことだ。

 城内に攻め入ったのは間違いだった。もっと用心すべきだった。先陣なぞ他の誰かに任せておけばよかったんだ。六万もの兵士がいて、なぜ俺が選ばれた。なぜ俺たちの隊が真っ先に城内に入った。なぜこんな城の奥底へと進んでしまったんだ。兵士は後悔した。そしてそれは自分の不運に対する嘆きから、もっと露わな死の恐怖へと変わっていった。

 後ろから奴が来る。とにかくここから離れなければ。

 立ち上がり、身をかがめると暗闇の中を震えながら進む。次第に息が切れてくる。どこかでぶつぶつと誰かの声がするのに気付く。子どもの頃母親に教えられた厄除けのまじないを、口が勝手に唱えていた。


 やがて、行く手に何かが見えた。見える。それならあそこには光がある。彼は光が欲しかった。外につながる道が欲しかった。小さな穴でもかまわない。外界へとつながることは、自分がまだ生きていることへの証しだ。足を速める。そしてついに光を目にした。


 通路は行く手で左へと曲がり、ほのかな明かりが届いている。ぼんやりとだが、周りも明るくなってきた。その明りで、左右の壁に伸ばした自分の手も見えた。

 曲がり角の手前で身を潜め、そっと覗き込む。


 そこは二本の通路が交差する合流点で、円形の小さな空間となっていた。天井に空いた窓から、陽の光が一直線に床へと差し込み、土埃がきらめきながらゆったりと漂っている。

 しめた。ここならば、どの通路から奴らが来てもすぐに別の道へと逃げ込める。


 中へと入り、すばやく他の通路を覗いて回る。誰もいない。安堵し、ゆっくりと中央の明かりへ近づく。早く陽の光を浴びたかった。外から何かが聞こえるかもしれない。耳をそばだて光の中で上を向く。

 まぶしい。思わず目を閉じる。陽光を全身で浴び、吸い取った。瞼を閉じても光が分かった。それが何物にも代えず嬉しかった。温かな圧力を感じ、泣き出しそうになった。これさえあれば、俺はまだ生きられる。


 だんだんと心が平静をとりもどす。体内に力が蘇る。自分は兵士で、ここは戦場だということを改めて自覚した。俺は決して弱くはない。ここでも必ず生き延びる。

 兵士となってから今までの年月を思い出した。志願、訓練、初陣、戦友、手柄、そして周囲からの賞賛。戦うための勇気が湧いた。生き残るための希望が湧いた。大きく息を吸い、ゆっくりと目を開ける。


 その兵士を、頭上の窓から赤い仮面が見下ろしていた。


 仮面の騎士の放った槍が、兵士の顔面を衝撃とともに貫く。上を向いたままの額を貫通し、血と肉にまみれた穂先が石の床にまで突き通る。

 消え去っていく意識の中、彼は赤い仮面に空いた目の穴を見た。その奥にある眼の中までを覗いた気がした。

 人間の眼ではなかった。ぽっかりと空いた暗い孔のようだと思った。


 頭を串刺しにされた若い兵士は、立ったまま死んだ。

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