私にも覚悟がある。例えそれがお前から見て取るに足りないものであっても、決して蔑ろにされるべきものではない。
起き上がったクリシアが、天窓へと目をやる。
吊り下げられた水筒と革袋。手に取ると、中はまたもや改まっていた。今日は小さな麦餅が一枚と柑が二つ。どういう意味だ。一昨日は食えなかったが、今日は麦餅も喰えると言うのか。
一日、杭を相手に木剣を振る。肉刺がつぶれ血が滲む手には、持っていた手布を捲いて耐えた。夕刻までに柑の実を半分ずつに分けて三度食べたが、さすがにそれだけで身体を動かし続けることはできない。
日暮れ前、彼女は空腹に耐えきれなくなった。柑は残り半分。そして麦餅が一枚。柑を食べ終えると、決意して麦餅を取り出す。
もしこれが食べられたら。
期待はできないが、試してみる価値はある。この前と同じように水を含むと噛んだ。崩れたものを咀嚼し飲み下す。じっと待つ。またも胸の内に飲んだものがせりあがってきた。動かずに耐える。落ち着け。私は腹が減っている。これが糧となる。
不意に、セフィールのあの言葉が浮かぶ。
――安心しろ。お前はまだ闘える。
身体の緊張が解ける。もう一度飲み下す。収まった。身体の中を麦餅が下りて行くのが分かる。口を開けると、息を吸い込み、吐く。
胃の中のものは戻らない。
飲めた。
彼女は残りの麦餅も齧ってみた。同じように水で戻し、柔らかくなったものをゆっくりと飲み下す。半分ほどまでを食べ、そこで一旦口を離した。
食べようと思えば残りも食べられそうだ。だが、ふと彼女の頭に別の考えが生まれた。
セフィールは、どう思っている。この麦餅は初日のものより明らかに小さい。この程度ならすべて食べ尽くせると思っているのか。そしてすべて食べたらどうなる。この地下牢から出られるのか。
彼女にはセフィールの意図がまだ分からない。と同時に、ここにきてセフィールにうまく転がされているような気がして、怒りはさらに高まりつつあった。次に会ったら、必ず木剣を打ち込んでやろうと固く決めている。
彼女の心には、今そのための駆け引きが生まれていた。セフィールに目にもの見せてやりたい、だがそのためには一筋縄ではいかないあの男の裏をかく必要がある。とすれば、今どう動くべきか。
半分食べた麦餅を革袋に戻す。まずはセフィールの出方を探る。明日の中身を見て、どうするかを決めよう。
自分にとって重大な変容が起こっていることに、彼女はまだ気づいていなかった。
その夜、空がまた白んでくるまで彼女は起きていた。暗がりに目を凝らすと、おぼろげながら水筒と革袋が見える。セフィールが換えようとしたら、これでわかるはずだ。その現場を見たからといって、どうということはない。だが、あの男が何かをするところを見るか否かは、彼女にとって重要だった。いつまでもされるがままではいない。
彼女はじっと待っていた。
セフィールが動くとすれば、おそらく明け方近く、こちらが耐え切れずに微睡んだと見た隙に換えるはずだ。彼女は時に目を瞑り、寝た振りをしてみた。あまり長く瞑っていると本当に睡魔に襲われる。加減しながら天窓から垂れた二つの影に気を集中させた。
地下牢の岩肌の床に横たわっていると、あの忌まわしい過去を思い出す。だが今はなぜか恐怖を感じない。今考えていること、それは本のわずかでもあの男の裏をかくことだ。それしか頭にない。
長い長い間、薄目を開けて天窓に目を凝らしつつ身動きせずに潜んでいると、やがて壁に何かがこすれる音がした。細くかすかな音だ。
水筒が少しずつ上がっていく。彼女は黙って見ていた。鼓動が早まる。
やがて水筒は天窓の格子の間から外へと消えた。次いで革袋が上がる、同じように外へと消えた。そのままじっと待つ。落ち着け。今動けば奴に気づかれる。
じっと堪えていると、格子の隙間に水筒が見えた。そろりそろりと降りてくる。次いで革袋も降りてきた。
暗闇で寝返りを装い、天窓に背を向ける。毛布で覆った顔に意地の悪い笑みが広がる。大声を上げて笑いたいのを必死で耐える。
セフィールが、あの男が、私に気づかれぬよう水筒と革袋の中身を入れ替えていた。
外の暗がりで、細心の注意を払いながら水筒と袋を引き上げ、また元へと戻すセフィールの姿を想像する。あの横柄で感情を押し殺した男の、なんと滑稽な姿だ。胸のすく思いがした。安心して眼を閉じる。
そのままゆっくりと眠りにつく。その夜、夢は見なかった。
――――――――――――――――――――
翌朝、日が昇ってから目を覚ました彼女は早速水筒と革袋を改めた。今日は柑が三つに、昨日と同じ大きさの麦餅が一枚。
彼女は決心した。今日は食べられるならすべて食べる。今は身体に力を付けることが第一だ。そして剣を振る。柑も麦餅も食べられた。暗くなると早めに眼を閉じた。目論んだとおり夜中に目を覚ます。今日もセフィールが荷の中身を入れ替えるのを待つ。
しばらくすると、また水筒が上がり始めた。暗がりでクリシアがほくそえむ。私に知られていないと思っているだろうか。いや、あの男のことだ。すでに私が見ていることに気づいているかも知れない。
だがそれでも良かった。
自分が、セフィールの手の内で転がされているだけではないことを知らしめればそれで良かった。その日の革袋には三つの柑の他に、麦餅と火を通した芋が入っていた。
木剣を振りつつ、すべて食べる。
身体が落ち着き、腕に力が籠められる気がしていた。何より、セフィールに一矢報いたというこの気持ちが、彼女を勇気づけた。
牢内にはまた蟲が湧き始めている。自分の排泄物で酷い臭いも立ち込めている。だがそんなものは全て無視した。あとは、セフィールがあの扉を開けた途端に、この木剣を打ち込むだけだ。
私はまだお前を赦してはいない。いや、一太刀浴びせるまでは断じて赦さない。
彼女は床に立った杭にセフィールの顔を浮かべ、修練にはげむ。
その夜も水筒と革袋が上がっていくのを見届け、彼女は眼を閉じた。
心に余裕が生まれてきている。
暗闇に気を集中すると、新たに湧いてきた蟲たちの蠢く音さえ聞き取れるような気がした。木剣を取れば、闇の中で彼らを悉く打ち据えられそうだ。
だがもう無益な殺生はすまい。身体に這い上ってきたければ来い。指で抓まんでそっと下ろしてやるだけだ。ごつごつした岩肌の痛みも苦にはならない。
彼女の頭には、どうしたらセフィールにこの木剣を見舞ってやれるか、それだけがあった。
朝、彼女は目を覚ますと、水を含もうと水筒を取った。だが軽い。栓を抜くと逆さまに降る。空だった。革袋を取るとやはり軽い。
どういうことだ。セフィールがまた何か新しいことを思いついたのか。
だが何をされようと、もうお前の好き勝手にはさせない。私にも覚悟がある。例えそれがお前から見て取るに足りないものであっても、決して蔑ろにされるべきものではない。
私はお前を叩きのめしたいという執念のみで、この地下牢に耐えている。お前が何をする気でも私は受けて立つ。
水筒と革袋を吊り上げる彼の姿を想像し、またも笑みを浮かべる。そのとき、革袋に妙な手触りがあることに気づいた。
口を開けると折りたたんだ亜麻紙が入っている。取り出して広げた。
天窓から差すおぼろげな光の中、その紙を見たクリシアの顔にみるみる血が上る。
口元の笑みが消えた。
――扉の鍵は三日前から開いているぞ。
紙にはそう書いてあった。
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