そうだ。私はあの地下牢で、明日のことを考え、そのために木剣を振っていた。
彼女が扉に近寄る。手を掛ける場所はない。だが隈なく調べると、扉の下に一ヵ所窪みができていた。木剣を差し込むと抉じ開けるようにして手前に引く。扉は難なく開いた。
暗い通路と降りてきた石段を見る。震える身体に、木剣を片手に進む。
出られた。あの地下牢を出られた。
だが、その喜びはない。セフィールに、いやむしろ自分に対する怒りが極限にまで昂まっていた。
あの男は、私が開かないと諦めた後で扉の鍵を解いた。私はそれに気づかず、二度と確かめもしなかった。水筒が上がる様を見て笑いをかみ殺していた。日毎差し入れられる糧食に、あの地下牢で過ごすことが当たり前と端から思い込んでいた。
この木剣も、私がいつでも扉を開けられるように、そしていつそれに気づくかと試していたのか。あの水筒と革袋も、私が盗み見ているのを承知で扱っていたな。騙されているとも知らずにほくそ笑む私の姿を思い浮かべながら、中身を入れ替えていたんだろう。
セフィールに初めて会った時を思い出す。出逢った川の名を偽名に使い、それにまるで気づかなかったあの恥ずかしさがまたも込み上げてくる。
彼女の顔は怒りと羞恥で真っ赤だった。
また騙された。己の愚かさへの嘆きと腹立ちと、何よりそれを手駒に彼女を責め苛むセフィールに対して、怒りと怨みが抑えきれない。
一歩ずつ慎重に石段をあがり、暗い通路を進む。やがて城館の入り口にまで来た。朝の光にゆっくりと目を慣らす。そっと窺うと、すぐ先に背を向けて座り込み、焚き火に当たるセフィールの後ろ姿が見えた。持てる限りのすべての力を集め木剣を構える。気を制し静かに歩み寄る。相手は背を向けたままだ。音を立てずに振りかぶる。
殺してやる。半ば本気で思った。
瞬時に駆け寄り渾身の力で打ち下ろす。
骨の砕ける音がした、と彼女は思った。だが木剣の先にセフィールの身体はない。いつの間にか脇に立ったあの男が、振り下ろしたクリシアの両手を上から抑え込んでいる。
セフィールの顔がすぐ横にある。手を振り払おうとしたが、軽く抑えられているだけの両手がどうしても動かない。身体ごとぶつかろうとしたが、軽くいなされ地面に倒れ込む。
素早くかがみこんだセフィールが、あっという間に木剣を奪う。そのままクリシアの両腕を背中に回すと、持っていた革紐で縛り上げた。彼女の脚が股間や脛を狙う。だがそれも容易く抑え込まれ、両脚を縛られた。彼女が獣のような形相で睨みつけ髪を振り乱して喚く。その口に猿轡を嵌められる。そのまま地面に転がされた。
あの時と同じだ。何という屈辱だ。
物言えぬ口で押し殺した叫びを挙げながら、必死で身悶える。
その前に木剣を握ったセフィールが立つ。身構えるクリシアに、セフィールが切先を静かに彼女の眉間に当てた。軽く触れているだけにも拘らず、異様なほどの圧力を感じる。一瞬で動けなくなった。
この男の手にかかれば、小枝一本でも恐ろしい武器となる。
大人しくなったクリシアに、セフィールが猿轡の結び目に手をやる。解かれるのももどかしく、彼女はかぶりを振って外した。
「セフィール、貴様……」
悔しさのあまり、声が続かない。セフィールが彼女の前に腰を下ろす。眼は彼女の顔から外さない。焚き火のはぜる音だけが聞こえていた。
彼は水筒を取ると、彼女の口元に近づけた。だが、こんな恰好のままこの男に施しを受ける気は毛頭ない。
「手足をほどけ!」
大声でどなる。縛られるのは何にもまして大嫌いだ。あの夢を思い出す。
「俺を殺そうとした」
その声に、彼女が言葉に詰まる。殺気まですべて見透かされている。だが、あれほどの仕打ちを受ければ当たり前だ。彼女はそう言いたかったが堪えた。もし万が一にも木剣がセフィールを捉えていたら。私はまた愚かなことをするところだった。
目を瞑り、心を落ち着け諦めたように吐き出す。
「すまない……悪かった」
セフィールがやっと革紐をほどく。両脚も、後ろ手にされていた両手も自由になる。
やにわにクリシアがセフィールを突き飛ばす。倒れた身体に馬乗りになったが、彼は抵抗しない。
息を荒げ、下に敷いた男の頸を両手で絞める。セフィールは何も言わず、クリシアの顔を見上げている。
彼女がゆっくりと顔を近づけ、押し殺した声で言う。
「だが、お前でなければ、確実に殺していたぞ」
上から眼を覗き込む。その中に、何でも良い、この男の感情の一片でも見つけたかった。だが何も見いだせぬまま、セフィールが口を開く。
「クリシア」
「なんだ!」
強い口調で問い返す。詫びの一言でも言う気か。
「臭いぞ。まず身体を洗え」
横眼で井戸を示す。クリシアは顔を真っ赤にし、手を離すと立ち上がった。
――――――――――――――――――――
井戸の水は薄く濁り冷たかったが、永い間放っておかれたのに朽葉も泥もないのは、セフィールが丹念に除いたのだろう。拾ってきたらしい古い桶もある。
水を汲み、城壁の陰に隠れて身体を洗う。新しい衣服に着替えると、ついでに汚れた分を洗濯した。絞った服を桶に入れ戻ってみると、焚き火は消されていた。
「着いてこい」
セフィールが先に立ち、またも城塞の内へと入る。彼女は用心して後に付き従ったが、やがて通されたのは、調理場だった。
打ち捨てられていたはずだが、土や埃もきれいに払われ、調理用の炉には火が熾きていた。彼に促され、炉の前の椅子に腰かけると身体を温める。手渡された水筒から水を飲んだ。
クリシアが周囲に目をやると、藁を敷いた寝床まで用意されている。セフィールが言った。
「今日からここを使え」
クリシアがやっと彼を見る。何から何までこの男にされるがままだ。だが身体が温まってくると、心も落ち着いてきた。
私は、この男の下でもう一度剣を学び立ち直るためにここに来た。怒りにまかせてそれを台無しにすることはできない。悔しいがこの男にはまるで敵わない。
ただ、それを認めることはこの上さらに自分を丸裸にするようで、なかなかその一歩が踏み出せずにいる。
ぱちぱちと軽くはぜる火に当たりながら、セフィールを盗み見る。と、彼が立ち上がり自分の側に来た。思わず身を引く。
「手を見せろ」
今度は何をするつもりだ。だが、促されおずおずと両手を差し出す。
セフィールが掌を調べる。傍らに置いた袋から小さな壺を出すと、中から軟膏を掬い、潰れた肉刺に擦り込むように塗る。クリシアは緊張したが、されるがままにしていた。ごつごつとした紛れもない男の手だが、やはり暖かかった。
「なぜ地下牢から出なかった?」
不意に訊かれ眼を上げる。
出なかったのではない。出られないと思い込んでいたのだ。その浅はかさを無情にも突くのか。
答えない彼女にセフィールが重ねて訊く。
「なぜ扉を開けなかった?」
「私が莫迦だった……鍵を掛けられ出られないと思い込んでいた」
彼の言葉を遮るように乱暴に言い返す。
「そうじゃない」
セフィールが否定する。
「泣き叫ぶほどに嫌な場所なら、無駄だと分かっていても必死で出ようと足掻いたはずだ。何故そうしなかった」
「だから鍵が……」
言いかけてやめる。
そうだ。私はなぜ地下牢を出ようとしなかったのだ。扉に鍵が掛ったと思った途端、あれを開けようとしなかったのは何故だ。
思えば、二日目からは怖ろしいと感じつつもあの牢を出るという思い自体が薄れていた。セフィールに与えられるものを口にし、木剣を振り、そしてこの男に一泡吹かせようという気持ちだけで、あの場所から是が非でも出ようとは浮かばなかったのではないか。
セフィールが何を言いたいか分かった気がする。
軟膏を塗り終えた彼が、両手に布帯を捲いてくれている。それを見ながら彼女は呟くように言った。
「……お前は、それで私を閉じ込めたのか?」
「閉じ込めてはいない。お前が勝手にそう思いこんだだけだ」
その言葉に黙り込む。
確かにそうだ。私が勝手に思い込んでいた。鍵が掛っていたかどうかは問題ではない。私は扉を開けようとしなかった。無駄だと思い込んだだけではない。出ようという気がなかったからだ。
しかも、そのまま丸五日も過ごせた。あれほど恐ろしかった場所で。
「牢は所詮牢でしかない。それ以上のことを感じる必要はない」
その言葉に、彼女は初めて麦餅を食べられた日のことを思い出した。半分だけ食べ、セフィールの出方を見ようとそこで止めた。明日また考えよう、と思った。
そうだ。私はあの地下牢で、明日のことを考え、そのために木剣を振っていた。
「セフィール……」
何かを言いたい。この男に何かを伝えたい。だが何と言えば良いか分からない。布帯を捲き終えたセフィールが軟膏の壺を彼女に渡す。
「朝晩擦り込め。二日もすれば痛みは消える」
立ち上がると荷物を片付け始める。彼女が何かを言わないうちに、その場から外れたいようにも見えた。
「私は、麦餅を食べられた!」
クリシアが叫ぶ。もちろん彼は知っている。だがそれが素直な気持ちだ。この男にはそれで伝わるはず。あれほど昂ぶっていた気が収まっている。
セフィールが頷く。
「今日からここで寝起きしろ。俺は厩で寝る。荷物を置いたらまずは食事の用意だ」
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