メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第三章 傷痕

第十四話 クリシア

公開日時: 2021年1月23日(土) 10:44
更新日時: 2021年2月6日(土) 23:03
文字数:4,583

周囲のすべてから同情されるようになってしまった自分には、もはや軍人としての誇りを持つことさえ許されないのか。

 戦乱の時代は終わり、ヴェナードの国が消えてから二年が経とうとしていた。


 傷ついた諸国の復興も進み、どの国家も内政、外交ともに表面的な問題はなく、人々の暮らしも着実に豊かなものとなってきている。


 その日、オラードで最も南にあるモルトナ郡の山間を、騎馬に護衛された馬車の一行がゆっくりと進んでいた。二頭立ての四輪馬車だ。小振りだが、造りといい控えめながら手の込んだ装飾といい、並みの貴族が乗るものではない。

 窓には細木を連ねた日除けが下りていて、中は覗けなかった。

 春の穏やかな日差しの下、前後を八頭の騎馬に守られながら馬車は進んでいく。


 やがて一行は平地の街道へと出た。周囲に畑や野良小屋が見え始める。

 ほどなくして、行く手にこのモルトナの中心であるラグネーゼの市街が見えてきた。城壁に囲まれた街に近づくにつれ、街道を行き来する平民の姿が増えていく。多くは周辺の村から城下へと向かう農民や小作人、荷物を持った行商人、旅人などだ。城壁の大門の前には長い列ができている。

 馬車が民衆の列に追いついた。先を行く騎士たちが道を空けるように叫ぶ。その声に振り返り、のろのろと左右に分かれる民衆の間を、馬車が進む。


 クリシアは、痩せた肘を窓枠にかけ頬杖をついたまま、日除けの隙間から、追い抜かれていく民衆を眺めていた。

 昔、彼女の情熱の象徴ともいえた緋色の瞳に、車外の風景が映っては流れ消えていく。

 誰もが後ろから強引に入ってきたこの馬車に驚き、次に迷惑そうな顔をし、しぶしぶと脇にどいていく。馬と車輪が跳ねる泥が彼らの服の裾を汚し、馬車が過ぎた後から、皆が小声でつく悪態がさざ波のように聞こえてくる。

 どれも彼女の興味を引くことではなかった。


 母親ゆずりの赤朽葉色をした波打つような髪は、肩を越えるほどに伸びた。兵士だった頃、長い髪なぞ煩わしく思っていた気持ちが、今では靄のかかった彼方のことの様に思える。

 だが栄養の行き届かない髪はくすみ、櫛で梳いてもまとまらず、枯れた麦穂の束のようで、くまの取れない眼と共に、彼女を一層陰気に見せるだけとなっている。

 左頬に走る楔のような傷痕は、化粧でも隠せない。戦場で付いたものであれば名誉の負傷とでもうそぶけようが、それはあの出来事が、生涯忘れえぬものとして身体に刻み込まれた証しでしかない。

 服装も裾の長い女ものばかり。こんなものは動きにくいだけなのだが、それでも今の見るに堪えない身体を覆い隠すことはできる。


 彼女の眼の端には、対面側の席に座った世話役のトレスが映っていた。クリシアの思いをすべてわかっているといった顔のまま、車中ではずっと黙っている。

 クリシアは彼女が好きだった。初めて会ってから一年ほどが経つが、トレスはそれまでにも貴族の息女に仕えており、頭が良く気が利き、何をやらせても手際が良い。いつも自分の先手先手へと動き、正しいと思われる道へと導いてくれる。たまにおせっかいが過ぎるきらいもあるが、世話役としては申し分ない。

 しかし同時に、トレスがいつもいることで、クリシアはもう一人で自由には生きていけないことを常に思い知らされている。


 彼女にとっては二年ぶりの旅だ。

 だがこの数日間は狭い馬車に押し込められ、道中の旅籠では人目を盗むようにして身体を休めた。

 この先も、ずっとこんな暮らしが続くのだろうか。もう自らが馬を駆り、野山を駆けることは永久にできないのだろうか。もっとも、この身体ではもう甲冑の重さに耐えられないな、と枯れ枝のような指でこけた頬をなぞりながらクリシアは思っていた。


 やがて馬車は、外城壁の門へとやってきた。馬車が止まり、近づいてきた城門の衛兵たちと護衛の騎士が言葉を交わす。話が終わると、衛兵たちが興味深げな顔で馬車の中を見透かすように首を伸ばした。手綱を握っていた御者のオルテンが鋭い声で叱責し、馬に鞭をくれると馬車がまた動き出す。

 城門をくぐりながら、あの衛兵たちもこの馬車をずっと目で追っているのだろうな、とクリシアはぼんやり考えていた。


 大戦終結の間際、敵地で行方知れずとなり、三月後に奇跡の生還を果たした、軍総帥バレルトの娘クリシアの噂は、あっという間に広がった。

 だが、彼女がどこでどのように過ごしていたのか、詳細を知る者はいない。

 クリシアは生還以来姿を見せず、そのため巷では様々な憶測を生んだ。

 瀕死の重傷で二目とみられない姿になった。気が狂れて幽閉されている。実は当人はすでに死に、バレルトが美談を作り出すために替え玉を用いたのではないか。

 面白おかしく吹聴する輩は後を絶たず、一時は子どもまでもが囃し立てる戯れ唄にまでなった。

 だがそれも、戦乱からの復興に余念がない世間にとっては、あの三人のフェルゾムの行方と同様、次第に忘れ去られるものでしかない。

 クリシア自身もそれを望み、近頃では世捨て人同然で噂も立たなくなったものの、それでも彼女の名前は、出れば人々の耳目を集めるものに違いはない。


 今までの二年間、クリシアはバレルトが王家の代官として治める旧ヴェナード領アンブロウ郡の城にいた。傷ついた身体を癒すためだったが、さらに転地療養をすることとなり、オラードの中でも気候が穏やかで過ごしやすい、ここモルトナ郡の山間部に移住することとなった。

 モルトナはバレルト家の領地であり、今は父の弟のベルーノ・バレルトが領主として治めている。

 バレルト家はもともとオラード王家が召し抱えた一軍人の家系だったが、二代前が戦功の褒賞として勲を賜り、オラードの最南端に狭いながらも領地を得た。当代に至り一旦はオリガロが家を継いだが、大戦が勃発するとともに実質的な家督を全て弟のベルーノに譲り、自身は王都にある軍の公邸を本拠とした。軍人として戦に己の生きる場を見出した兄に代わり、今ではベルーノが堅実にこの地を治めている。


 クリシアが生まれたのはすでにバレルトが王都に移ってからのため、彼女がモルトナを訪れるのは初めてだ。

 ベルーノは兄のオリガロに比べれば凡庸な人物だが、実直で温厚な性格のため、クリシアも子どもの頃からこの叔父には好感を持っている。彼女の療養場所についてすべてを用意してくれているこの叔父への挨拶にと、居城であるラグネーゼを訪れたのだった。


――――――――――――――――――――


 馬車は、目抜き通りの人通りに割り込むようにしてしばらく進むと、わき道にそれ、城の通用門へと回った。先達の騎士が馬を走らせる。

 のんびりとした風体で使用人と立ち話をしていた当番兵が、騎士の姿にあわてて周囲の者を遠ざける。

 馬車は城内へと入っていった。


 外郭から中庭を通り、やがて城館の裏門をくぐると回廊へと入る。

 石造りのひんやりとした気が漂う中、城内へと続く小さな扉の前で一行は止まった。ここでは外の喧騒もさして気にならない。傍らには案内役の侍従長と衛士がすでに控えている。


 オルテンが大きな体を御者席から降ろすと、馬車の戸を開けた。まずトレスが降りる。

「さ、どうぞ」

 伸ばしたトレスの手を取り、外套と頭巾に身を包んだクリシアが石畳へと降り立った。

「お疲れさまでした」

 オルテンが、巨体に似ず優しい顔で微笑みながら一礼する。

「ありがとう。オルテン」

 クリシアが頭巾の陰から言葉を返す。

 トレスが城の役人たちと挨拶を交わし、クリシアは彼女とともに城の上階へと向かった。

 上るにつれ、また城下の喧騒が聞こえてくる。大きな都市ではないが、活気があるのは叔父のベルーノの努力もあるのだろう。


 二人は小さな客間に通された。

 外套を脱ぎ、椅子に腰かけたクリシアは精いっぱい毅然とした態度をとったものの、内心かなり緊張している。ベルーノとは何年もあっていない。もちろん、前に会ったときは今のような姿ではない。

 今の私を見た叔父は、何と思うだろう。いったい、どんな態度で叔父に接すればよいのか。

 彼女の心配を見透かすように、脇にいたトレスが声を掛ける。

「ご心配はいりませんよ」

 クリシアが黙って頷く。


 しばらくすると足音が聞こえ、ベルーノが部屋に入ってきた。後ろに奥方のエルシラが控えている。

 ベルーノは姪を見ると、ふくよかな顔に満面の笑みをたたえ、両手を広げて近寄ってきた。

「クリシア! おぉ、よく来た、よく来た」

 クリシアたちが立ち上がる。

「お久しぶりです。叔父上」

 彼女が、精いっぱいの努力で笑みを浮かべ挨拶する。二人が抱擁を交わす。エルシラが後ろから彼女とトレスに会釈した。

 ベルーノが、クリシアの顔をしみじみと見ながら微笑む。

「だいぶ髪が伸びたな。その服も似合っておる。こうしてみると母上に瓜二つで誠に美しい」


 痩せこけた身体や頬の傷を含め、以前とは別人のような彼女の容姿を無視するその言葉は、誰から見ても世辞の範疇を越えている。だが、叔父の温厚な人柄を知っているクリシアは、それを素直に受け入れることにした。

 ぎこちなく微笑み返す。

「久しぶりの遠出だろう。疲れてはいないか?」

「はい。道中、何の心配もなく到着いたしました」

「うむ。さすがは自慢の姪だ。少し痩せたようだが、騎士としての心はまだまだ健在だな」

 ベルーノが笑う。


 正確に言えばクリシアは騎士ではない。叙任を受けていないので、まだ国成軍の一兵士だ。そもそも女で騎士になったものはいない。

 だがそんなことにはお構いなしに、ベルーノは肉厚の手で彼女の両手を包み込み、身をかがめ穏やかな眼差しを向けながら言った。

「ここは良いところだ。お前の住まいも吟味して用意した。気に入ると思うぞ。何も心配せずに、安心して暮らしておくれ」


 クリシアは、叔父の気遣いをありがたく思いたかった。だがベルーノの言葉は、彼女がやはり一人では生きていけないということを、これまで以上に思い知らしめるものでしかない。

 トレスやオルテンも含め、周囲のすべてから同情されるようになってしまった自分には、もはや軍人としての誇りを持つことさえ許されないのか。

 今の彼女には、小さな声で礼を返すのが精いっぱいだった。

 そして、その言葉の陰りに気づいたエルシラの眼に、哀情とも憐憫ともつかぬ光が宿っていたことにも、クリシアは気づいていた。


 一行はこの城にしばらく滞在してから、改めて出立することとなった。

 ベルーノとしてもクリシアを預かる以上、普段の様子を見ておく必要がある。そして口にこそ出さなかったが、彼自身、変わり果ててしまった彼女の身を大いに案じている。できればこの城に置きたいと思ったが、それでは彼女がここまで来た意味がない。やむなく諦め、山間の小さな城館を用意している。

 時がかかっても、まずはクリシアに生きる目的、希望を見つけてやらねばならない。


 ラグネーゼに滞在中、クリシアとトレスは城の裏手に位置する静かな部屋をあてがわれた。

 領主の姪ともなれば、賓客として盛大に出迎えられ饗宴が催されるはずだが、彼女たちにそれはない。宴どころか、ベルーノたちと飲食を共にすること自体が、今のクリシアにはできない。

 叔父もそれをわかっていて、彼女たちの生活には干渉しないと約束している。

 それでも、彼女が部屋に閉じこもってばかりいてはと気をもみ、気晴らしに城下の見物を勧めてきた。

 ここならば彼女の顔を知る者もいない。


 クリシアが、滞在中には外にも出てみたいと答える。ベルーノは喜んだが、彼女の心はすぐに叔父の顔から離れていった。

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