メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第十九話 役目の無い者

公開日時: 2021年2月6日(土) 10:14
更新日時: 2021年2月15日(月) 23:29
文字数:4,683

私とて、以前は乞食や娼婦を蔑んでいたではないか。自分がその立場になったとき、それを理不尽と思うことは許されない。

 三日後、クリシアたちはベルーノが用意してくれた住居へと移った。

 ラグネーゼの城下から山を一つ越えたなだらかな丘上にあり、もとは街道を見張る砦として使われていた小さな城塞だが、今は役目もなく、叔父が狩りに出る際の仮り宿として使っていたものの一つだ。

 

 城館の中は手入れも行き届いており、アンブロウから先に送られた荷物の他にも、クリシアのために新しい調度や女性好みの装飾品や小物がさまざまに用意されていた。

 近くには小さな村が一つあるだけで、ふだんは人の往来もほとんどなく、裏手の窓からは目の前に広がる平原と背後に連なる山々が見渡せる。

 

 のどかで落ち着く情景だが、来たばかりの彼女がすぐに馴染めたわけでもない。


 クリシアとともに住むのは、トレスとオルテンに、侍女が一人、食事番の夫婦、門衛、下男と、ごくわずかな人数だった。戦乱は終わり治安もよくなっている。なおかつこの一帯は領主である叔父の直轄地として地境は柵で囲われ、許された者しか入ることができない。館にまで警護の兵は必要なく、身の回りのことをする最小限の者のみで事足りる。

 叔父自らが手配した人物は誰もが温厚で、領主の姪として過分に畏れることもせず純粋に尽くしてくれることは、彼女にとってもありがたかった。

 だが日頃の世話をする以上、みな彼女がどんな状態かは一通り知らされているのだろう。

 所詮、心の底から分かり合え、何かをともに分かち合える人間なぞ、もうどこにもいないことは分かっている。

 

 私はこれからここで何をするのだろう。誰のために、どうなればよいのだろう。

 もうそれを考えることにも疲れてしまった。

 

 世界のすべてが、色も音も匂いも、感触さえもなくなった無意味なものでしかない。そして、あのバレルトの娘として、私はここで生きることだけをし続けなければならない。

 

 朝に目覚め、いつもと変わらず風呂と着替えを済ませた後、味の無い食事を終える。これで彼女にはもうこれと言ってすることはない。部屋に戻り、宗教か歴史、故事などの退屈な書物を読むか、城館の周りを目的もなくうろつくだけだ。

 

 庭を歩いていると、門衛のポルコフが挨拶をしてきた。オルテンと同世代の退役兵だが、がっしりとした体格と強面の顔に似合わず、草花の手入れが上手で庭番も兼ねている。

 クリシアも声を返すが、その後に何を続けるということもない。ポルコフも分かっており、あえて長話を避け自分の役目に戻る。

 庭では彼の育てた草花たちが、色とりどりに咲き始めていた。  

 丹精込めて世話をされ、明るい日差しに咲く花々も、自分に対する彼の心遣いとクリシアは自覚している。それでも、殊更に関心を持つ気にはなれなかった。

 こんなもので自分の過去が消えることも、心の内が変わることもない。

 

 ぶらぶらと手持無沙汰に歩きながら、彼女は数日前に会ったセルデニーという男のことを思い出していた。

 あれは久しぶりに興奮する出来事だった。トレスもいた手前そのまま去らせたが、日が経つにつれあの男のことがますます気になり始めている。あの動き。ただ者とは思えない。あれほどの腕の持ち主はざらにはいまい。

 

 そしてあの男の眼。何か大きなものを抱え込んだ者の眼だ。

 

 もちろん、退役した軍人であれば心の傷の一つや二つ誰でも持っている。戦となればお互いに命を懸けて殺しあうことが職務である以上、それは誰もが耐えねばならない道だ。

 彼女自身、数年間の軍務の中で部下を大勢失っていた。

 

 そして最後の出撃。

 彼女は目の前で、気心の知れた仲間ともいえる兵士たちを惨殺された。それは遠い昔のようにも、つい昨日のことのようにも感じる、奇妙な記憶の渦だった。

 

 女ながらに軍に入った手前、彼女の生活は覚悟していた以上に苦労が絶えなかった。

 修行に励み、天稟にも恵まれ、並みの男以上に武術に優れようと、所詮は女の自分に周囲の眼は二通りしかない。何をやっても見下すか、隙あらば手籠めにでもしようと狙うかのどちらかだ。

 騎士の身分でもない彼女は、他の兵士たちに混じって暮らしていた。さすがに駐屯地の営舎では別室をあてがわれていたものの、ひとたび戦が始まれば数か月の野営などざらにある。

 屋外での着替えや水浴び、排便には殊の外気を付けた。恥じらいよりも、男たちに混じった女という異物が、隊の調和を乱すことを恐れたというのが本心だ。もちろん従軍する下働きの女たちも大勢いるが、自分と下女とでは周囲に与える影響が自ずと異なる。

 

 バレルトの娘である彼女には誰も最後の一線を越えなかったものの、前線に近いほど、粗野な兵士たちが彼女に好奇の目を向け、ことあるごとにちょっかいを出してきた。

 それらに耐え、色目を無視し、男たちとともに戦い共同生活を送るうち、次第に周囲も彼女に一目置き、やがて一人前の兵士、戦友、そして指揮官として迎え入れられたが、それが彼女の天性の素質と並々ならぬ努力であったとしても、その根底に父バレルトの存在があることはまぎれもない事実だった。

 

 私はいったい何のために軍人を志したのか。

 

 その思いは、二年前からことあるごとに去来しているが、今さらその問いに答えは出ない。ましてこの身の上となっては、もはや何の意味もない。

 だが、それでも十数年間の暮らしで沁み込んだ軍人としての記憶と技能は、ことあるごとに兵士に戻りたい気持ちにさせる。そして同時に、それがもう叶わぬことを思い出させる。

 女だてらに男に混ざり、騎兵隊長などと煽てられていた大将軍の娘が、虜囚となったうえ男たちの慰み者になっていたなぞ、傍から見ればいい様だろう。 

 彼女には、常に周囲の誰もが自分を嘲笑う声が聞こえていた。それはトレスやオルテン、そしてこの城館にいる使用人たちも例外ではない。

 奴隷以下に堕ちた女を蔑む心は誰にでもある。私とて、以前は乞食や娼婦を蔑んでいたではないか。自分がその立場になったとき、それを理不尽と思うことは許されない。

 

 クリシアの頭に、再び荷車の男の姿が思い浮かんだ。

 私は名を名乗った。あの男は明らかに私の名を知っていた。それは分からぬでもない。バレルトの娘クリシアの名はオラードでは有名だ。だがあの目つきは何だ。私の顔を見た時の、あのこちらのすべてを見透かすような眼は。

 クリシアは、もう一度会いたいと思った。だがセルデニーという名だけではどうにもならない。まして、あの男に興味を持ったとトレスが知ったら何というか。いや、すでに彼女は気づいているだろう。話題には出さないほうが無難だ。


 彼女は、自分が新しいことに思いを巡らせていることに気づいた。そして、いつもと違う心持ちでいることに少しだけ安堵していた。

 

――――――――――――――――――――

 

 クリシアが城館に移り住んでからひと月ほどが経った。

 その間、彼女はオルテンの馬車でしばしば近隣の村々を巡っている。トレスには気晴らしと言っているが、以前は滅多に出かけもしなかった彼女の変貌の裏に別の目的があることには、うすうす気づかれているだろう。

 

 外に出るとはいっても、彼女には誰彼ともなく顔を合わせてものを尋ねることができない。口の堅いオルテンにすら、多くを話してはいなかった。

 もとより人には会いたくないが、それでは埒が明かず何とか馬車で出かけている。身体が丈夫であれば自身で馬を駆りたいところだが、今の彼女にそれはできない。だが、当てもなく漫然と出かけるだけでは致し方ない。

 

 どこに行けばあの男とまた出会えるか。

 彼女は、馬車の窓越しに点々と見える農民たちを目で追いながら考えていた。

 

 その日も、彼女はラグネーゼの荘園から少し離れた山あいの農村に来ていた。

 あの男の様子では村で共同生活をしているとは思えない。誰か見知っている者でもいれば拾い物だ。だが、彼女はできれば人に姿を見られたくなかった。

 土地や人物に詳しい古老とでも話がしたいが、そんな者に容易く出会えるはずもない。

 

 村は二十軒ほどで、大方が小作人の集落だった。幾人かの農民が家の周りで働いている。

 一軒の家では、母親と若い娘が洗濯をしていた。クリシアはぼんやりと母のことを思い出したが、記憶の中では靄がかかったようにはっきりとした顔つきが浮かばない。

 

 彼女の母はバレルトの後妻だった。とはいえ最期まで籍は入れられなかった。

 先妻に先立たれた父が、なぜ母を家に向かえなかったのかは分からない。母の死後、彼女はバレルトの娘として正式に認められたが、もし父親がオラードの大将軍でなかったら、私はどうなっていたのだろう。

 平民に生まれていたら、今あそこにいるのは自分かも知れない。だが彼らには彼らの生活があり、そしてもちろん苦労も不安もあるはずだ。

 

 頭の中に様々な思いが来ては去っていく。

 遠目に母娘を見ていたクリシアは、ふと以前にその娘を見かけたように感じた。どこだろう。自分はこの地でそう多くの者には会っていない。そして気づいた。

 あの橋。あの時の娘だ。

 

 慌ててオルテンに馬車を止めさせると、扉に手をかける。わずかに躊躇する気持ちがあった。今の姿を人眼にはさらしたくない。しかも自分はあの娘を見殺しにしたも同然だ。

 だが、彼女は扉を開けた。外套と頭巾で身を隠し、娘に近づいていく。

 

 片田舎には珍しい馬車から降りてきた貴人風の女に、周囲の農民たちも手を止めて目を向けている。

 母娘も気づいたが、真っすぐ自分たち目指して歩いてくる女に思わず身をすくめる。目の前に立った彼女に娘が怯え、母親がかばうように後ろに隠した。

 クリシアが頭巾を下ろす。やつれた顔を母娘に向けると、娘に問いかけた。

 

「突然ですまない。お前は、荘園の近くの橋で兵士たちに出会った娘か?」

 

 初対面の女にかけられた言葉に、母親の陰から娘が怪訝な顔をする。

「荷車の男に助けられたな?」

 立て続けの言葉に、娘がおずおずと頷く。

「はい……でも、なぜご存じなんですか?」

 

 こんどはクリシアが狼狽える番だった。言葉に詰まったが、恥を忍んで言う。

「私もあの場にいた。すべて見ていたが、何もできなかった。赦してほしい」

 頭を下げる彼女に娘が慌てる。

 本当にいたとしても、こんな痩せこけた貴族のお姫様に、あの場で何かができるなぞ望むべくもない。

 

 娘の手をしっかりと握っていた母親が、とりあえず揉め事ではないと安堵したらしく、恐縮しながら後を引き取った。あの日、娘は荘園で働いている身内の手伝いに行き、昼餉を届ける途中で兵士たちに遭遇したという。


「娘から何があったのかは聞きました。無事でいて喜んでおります」

 その言葉に、クリシアの心が微かに疼く。

 私の場合は無事ではなかった。そして自分と同じ目に遭いかけたこの娘を、助けることはできなかったがな。

 その思いを振り払いながら尋ねる。

「あの荷車の男は知りあいか?」

 

 だが娘は首を横に振った。たまたま通りかかった男で、しかも頭巾で顔もよく見えなかったと。

 クリシアは落胆したが、自分は顔も名も知っている。

 

「髪の色は灰橡で、眼は栗色だ。背は私より少し高い。年は二十の半ばと思う。兵士あがりで、名はセルデニーといった」

 だが、それを聞いた母娘は困惑したような表情で顔を見合わせた。いぶかしんだクリシアが顔を巡らすと、近寄ってきていた農民たちも彼女の視線から目を逸らし、顎やこめかみを掻いている。


 やがておかしな沈黙を破り、母親が申し訳なさそうに口を開いた。

「あの、すみませんが、それは本当の名ではないと思います」

「なぜだ? なぜ、そんなことが分かる」

 

 問い質す彼女に、娘が消え入りそうな声で言った。

「それは、川の名前です。私が襲われた……あそこがセルデニー川です。支流でしたが」

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