メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第三十九話 古城にて

公開日時: 2021年5月9日(日) 16:00
更新日時: 2021年5月26日(水) 11:00
文字数:3,613

振り返ったそこに、セフィールはいなかった。クリシアの目の前で地下牢の扉が閉まる。

 あくる日、トレスは肚を決めた。


 マーカスをここに呼んだのは何よりクリシアのためだ。一度あの男を信じた以上、彼女を委ねることに惧れや躊躇があってはならない。万が一、二人の関係があらぬ方向に向かったらとも考えたが、両人ともいい大人だ。その責めは自分たちで負えるはず。

 むしろ彼女の心のどこかにそうなって欲しいような、それで全てが解決するような、そんな気持ちもあった。


 クリシアはもちろん大喜びだった。本格的に剣が習えるという期待とともに、館の者の眼から離れ自分だけで生活できるという解放感が如実に感じられる。

 

 数日後、畑の状況も落ち着き、クリシアの体調も問題ないと見えた日に、まずセフィールが一足先に出立した。

 館の者たちは二人に寛容だが、外部の眼はある。このことは城主のベルーノにも内密だ。二人が連れ立って出かけたとは知られたくない。

 道すがら、あらかじめ決めておいた場所で待ち合わせ、オルテンの馬車で近隣の村まで往く。乗っているのは、クリシア、セフィール、そしてトレス。

 揺れる車内の中で三人は皆無言だ。セフィールはいつものことだが、クリシアとトレスの間には、それぞれの胸のうちを探るかのようなうっすらとした緊張感が漂っている。


 村に到着したのは夕暮れ時だった。一晩の宿を取り、翌朝早くに二人は荷物を持って目的地へと向かう。ここからは徒歩だ。これも鍛錬だとセフィールは言い切り、クリシアも負けじと頷く。行く先がどこなのか、どんな場所なのか、彼は一言も話さなかった。クリシアもトレスもあえて問い質さない。この男の言動には全てそれなりの理由がある。今はそれを信じるだけだ。


「心配しないで。大丈夫だ」

 クリシアは穏やかな笑顔で言い残すと、セフィールと共に歩き始めた。トレスとオルテンはまだ一抹の不安を抱きつつ見送ったが、二人は一度も振り返らずそのまま歩き去っていった。

 

 村道から杣道へと入り、ほどなくして足下が少しずつ傾斜した山路へと変わっていく。クリシアにとっては、久しぶりに自分の脚で一歩ずつ進む自然の地だ。

 濃い緑に生い茂る木々の合い間を縫い、草と土の匂いをいっぱいに吸い込みながら道なき道を進む。糧食の入った大荷物を背負いながら軽々と上っていくセフィールの後に、息を切らしながら必死に続く。

 セフィールは相変わらず無愛想だが、彼女の身を案じてか途中で何度か休息を取った。正直ありがたい。さすがに今の自分にこの山道はきつい。だが彼女もおいそれと礼なぞを口にはしない。

 二人の間には、まだ言葉にできない壁が立ちはだかっている。


 きつい上りに差し掛かった時、セフィールが振り返りクリシアに片手を差し出した。彼女が足を止める。わずかな躊躇の後、目の前の手を取った。セフィールが力強く握り彼女の身体を引き上げる。

 クリシアは軍用の革手袋をしていた。その手袋越しに男の手の感触が伝わってくる。自分より一回り大きく、包み込むように握り締めてくる。その感触は、手を離した後もしばらく残っていた。

 

 半日以上をかけ、汗みずくでやっと目的地の山腹に到着した。今のクリシアに遠出の山道は心配だったが、思いのほか歩けたのは、畑仕事と、食が徐々に戻ってきたおかげで体力がついてきたからだろう。やがてクリシアの目の前に石垣のなれの果てが現れた。立ち止まり、改めて見上げる。そこは古びた砦の跡だった。


「セフィール、ここは何だ?」

 クリシアが辺りを見回しながら訊く。


 古い造りから見て少なくとも数十年来は使われていないらしく、崩れた城壁には蔦が絡まり、所構わず根を張った木々に足元もおぼつかない。だがセフィールは無言のまま、邪魔する木々をものともせず先へと進む。クリシアは悪戦苦闘しながら彼の後ろについて小さな城門をくぐった。

 さして広くもない内郭へと出る。ここも外と同様にぼろぼろだ。セフィールが立ち止まると振り返って言った。


「ここが教練の場だ」


 クリシアが辺りを見回す。廃墟となった城塞。よくぞこんな場所を探り当てたものだ。崩れた城壁。足の踏み場もないほどにはびこった草木。厄介な場所だが、弱音は吐かない。

「わかった」

 一言だけ応える。彼にはそれで充分だろう。


 セフィールは頷くとまた歩き出し、城壁に開いた戸口から城塞の内部へと入っていく。まずは寝泊まりの場所の確保か。そう思いつつ彼女が続く。中は暗かった。ところどころ崩れた城壁の隙間からわずかに差し込む光に、足もとに注意しながら進む。湿った土と青臭い木々の臭いが鼻に付く。

 狭い石段を降りると、古ぼけてはいるが頑丈な造りの木の扉が見えた。人一人がやっとくぐれる程度の扉だ。入り口でセフィールが彼女の荷を引き受けた。手渡して中に入る。

 

 そこは地下牢だった。

 夏とはいえ、山中のためひんやりと寒い。たった一つ小さく開いた天窓からほのかに光が差し込んでいる。眼が慣れると、やっとごつごつとした天然の岩の床が見えた。朽ち掛けた木の杭が立ち、捕虜をつなぐ錆びた鎖が垂れている。

 目の前の光景に、あの地下牢が重なった。湿り気を帯び、身体にまとわりつくような淀んだ気に不快な記憶が蘇る。鼓動が早まった。

 こんな場所には居たくない。すぐに出たい。


「ここに寝泊まりするのか?」

 疑念を含みつつ振り返ったそこに、セフィールはいなかった。クリシアの目の前で地下牢の扉が閉まる。慌てて駆け寄る。


「おい、何をする?」

 彼女が扉を叩く。もちろん内側に把手はない。開けようと試したが、扉はぴたりと戸口に収まり、手を掛ける場所もない。外から錠が掛けられる重い音がした。何が起きたのか理解できない。

「おい、セフィール、開けろ!」

 必死に叫んだが動きはない。やっと彼女は、地下牢に閉じ込められたと知った。

 分厚い壁に一つだけ穿たれた小さな天窓を振り返る。もちろん手は届かず、外側は鉄格子が嵌っている。

 

 彼女は大声でセフィールを呼んだ。だが返事はない。自分を閉じ込めたくらいだ。聞こえても返事はしないだろう。


 何故だ。

 騙された怒りに震える。だがそれ以上に彼女は恐れた。嫌だ。ここに閉じ込められるのは嫌だ。背筋に悪寒が走る。冷や汗が流れ出した。

 怯えつつ、改めて中を見回す。あの場所と同じだ。しかももっと狭くもっと暗く、地下水が染み出しているのか、じめじめと湿り澱んでいた。壁の至る所を、いくつもの足を生やした蟲たちが這い回っている。

 不安で息が詰まりそうになる。彼女は救いを求めてセフィールを呼んだ。だがいつまで経っても何も返っては来ず、やがて陽が落ちた。

 

 暗闇に、彼女はじっと眼を開けていた。あの時と同じだ。眠った身体を無数の蟲に這いずり回られるのは嫌だった。

 震えながらずっと考えている。何故だ。セフィールは何故こんな仕打ちをする。

 あの男には何か考えがあるはず。これもまた私を鍛えるため。そう思いたい。だが、なまじ正気に戻りかけた彼女の心に、この扱いは余りにも残酷だ。

 とにかく気を張っていなければ。今この地下牢であの時の記憶を蘇らせたら、正気でいられる自信がない。落ち着いて目の前の現実にのみ集中する。だが夜の闇に、あの記憶たちはじわじわと彼女を包み込もうと、攫みどころのない渦のように湧き上がってくる。

 悔しさに歯噛みし涙を堪えた。

 膝を抱え座り込んだまま、まんじりともせず長い長い一夜を過ごし、天窓からやっとほの白い光が差し込み始めると、彼女は長い息を吐いて眼を閉じた。

 

 突如固いものが降ってきた音で、彼女は瞬時に目を覚ました。素早く身構える。目の前の岩の床に、彼女の木剣が転がっている。革袋と革水筒が鉄格子から吊り下げられ、小さく括られた毛布と、一束の藁も床に落ちていた。


 天窓の下に立ち、鉄格子を見上げて叫ぶ。

「セフィール、いるなら返事をしろ!」

 立て続けに怒鳴ったが応えはない。呼吸を荒げ睨みつけたが、やがて頭を下げる。あの男が何を考えているにせよ、ここで何かが達せられなければ私は出られない。それは確かだ。


 手を伸ばして吊るされている荷をとる。水筒の栓を抜き咽喉を鳴らして飲んだ。枸櫞の味がする。革袋を開けると平たい麦餅が入っていた。じっと見つめる。自分はまだ粥以外食べられない。だが、セフィールがこれを入れた意味は何だ。地面の毛布と藁束を見る。改めてふつふつと怒りが込み上げてくる。

 夜具に、排便の後の尻拭きまでよこしているからには、麦餅が食えるまでここから出さないつもりか。もし食えなければ飢え死にさせるのか。

 あの男ならやるかも知れない。死にこそさせずとも、私をまた極限まで追い込むことに容赦はしないはずだ。そして、もし私の心が耐えられなければ。その先は考えたくない。


 彼女はがっくりと膝を突いた。嗚咽が漏れ、涙が床に堕ちる。苦しい。出たい。ここは嫌だ。

「セフィール! 頼む。出してくれ!」

 絶叫が狭い牢内に響く。何度も懇願した。あの地下牢で、なりふり構わず男たちにしたように。


 だが、やはり何も返ってこなかった。

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