メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第十八話 セルデニー

公開日時: 2021年2月4日(木) 11:16
更新日時: 2021年2月6日(土) 23:25
文字数:3,983

あれは、決して誰にも言えない傷を負った者の眼だ。

 粗末な身形に、頭巾を深々とかぶった男が荷車の先棒を握っていた。


 橋の上の者らが気づくより早く、荷車の男が行く手の光景に足を止め、頭巾の陰から様子を伺う。どうする。巻き添えを恐れて引き返すか。

 娘が、両腕を押さえ込まれて悲鳴を挙げる。クリシアは震えながらも立ち上がろうともがくが、身体が言うことを利かない。咽喉の奥から小さな呻きが漏れる。

 そのクリシアの眼に、荷車の男がまるで何事もないかの如く橋に差し掛かったのが見えた。

 

 男たちがやっと荷車に気づき、娘を押さえたまま目を向ける。頭巾で顔を隠した相手は、気にもしない体で近づいていく。だがそのままでは橋を渡れず、彼らの直前で立ち止まる。

 

 兵士たちがこの闖入者に半ば呆れつつ、邪険に追い払うような仕草を見せた。予期せぬ救い主に娘自身もが目を向ける。だが、荷車の男はその娘も三人の雑兵もまるで視界に入っていないかのように、そのまま無言で立っている。

 腹を立てた男たちが続けて威嚇した時、隙を見て娘が遮二無二兵士の腕を振りほどき、荷車の背後に隠れた。雑兵の一人が捕まえようと追う。と、荷車が斜めに動き先棒が邪魔をした。

 かばう気だ。クリシアが注視する。

 

 雑兵たちは、男を敵とみなしたらしい。ゆっくりと身構える。争いの場特有の気が漂い始める。

 男が背後に声をかけると、娘は震えながら頭を下げ、手籠とこぼれた中身をかき集めて転げるように逃げていった。

 顔を隠した男が、無造作に身をかがめて荷車の先棒を置く。隙だらけのその動きに、兵士がすかさず男を蹴りあげる。が、蹴られたと見えた男の身体は、一瞬で荷車の脇に移動し、そして手にはいつの間にか一本の杖を持っていた。

 思わず目を見張る。

 あの間合いで蹴りをかわし、荷車にさしてあった杖を抜いたのか。かなり心得のある動きだ。

 

 男たちもただの農民ではないと気づいたらしい。顔を見合わせ、それぞれ用心深く間合いを取る。剣の柄に手をかけている者もいる。愚かな行為だ。自分たちが蒔いた種で農民を傷つけたなどと知れたら、処罰は免れない。だがそんなことが分かる頭があれば、そもそも農家の娘に手を出したりはすまい。

 

 クリシアは、草叢から先行きを見守っていた。男の出現に、少しずつ落ち着いてくる。


 件の男は杖をだらりと提げたままだが、相手らはなかなか踏み出せない。じりじりと時が経ち、だんだんと場が緊迫していく。雑兵たちが次第にその気に飲み込まれていくのが分かる。巷の諍いにありがちな、後戻りのできない場面へと変わったのだ。

 

 ついに三人が剣を抜いた。三様に男を狙う。そして一斉に動いたと見えたとき、頭巾の男の身体は一瞬で彼らの合間をすり抜けていた。鈍く唸る音が飛ぶ。

 男と三人の位置が入れ替わったとき、兵士たちが身体をぐらつかせると次々に倒れ込んだ。

 

 クリシアが息を呑む。

 男の動きが見えなかった。杖を構えるでもなく、ただ三人の剣をかわしたまでは分かる。その時何が起こった。杖がゆらいだように見えた瞬間、声も上げずに三人が倒れた。彼らにも何をされたかわかるまい。

 彼女は俄然男に興味を持った。これほどの腕は見たことがない。

 

 男が周囲を見回す。クリシアには気づかない。誰もいないと見るや、昏倒している男たちの手から剣をもぎ取り、腰から鞘を引き抜く。三人の身体をまさぐり、首にかけていた軍兵の記章を奪い取った。値踏みするように一瞥したが、すぐに興味を失ったらしく全てを川に放り捨てる。

 彼女はその振る舞いに溜飲を下げた。この川の深さなら、剣も記章ももう見つかるまい。帯剣はおろか軍の記章まで奪われたとあっては懲罰は免れない。しかも騒動の理由と相手がたった一人の農民と知れたら、間違いなく除隊だ。

 

 そんなことを思っているうちに、その男はもう一度周囲に目を配ると、何事もなかったかのように荷車の先棒を引き、橋を渡ると遠ざかって行った。

 

――――――――――――――――――――

 

 荷車が見えなくなると、クリシアは足早に馬車へと戻った。心配して途中まで来ていたトレスを急き立てるように馬車に乗り込み、素早くオルテンに指示する。

「川下に木橋がある。そこからつながる左手の道に向かって。早く!」

 

 二人とも日頃と違う彼女の態度に困惑したが、彼女が何かに興味を持ったことはすぐに理解した。

 オルテンが馬車を走らせる。小さな辻を右手に曲がり、川下に向かう。行く手の丘のふもとで脇からの杣道が合流している。クリシアが馬車の窓から頭を突きだし、先を伺っていた。トレスが真ん丸な目をしている。

 

「いた」

 クリシアが小さく叫び、オルテンに速度を落とすように叫ぶ。トレスがクリシアとは逆の窓から顔を出し、小さな荷車を認めた。あれがいったいどうしたのだろう。

 

 荷車は、道沿いの野良小屋を過ぎると右手へと曲がった。クリシアが馬車を止めさせる。自分で扉を開けると、トレスを振り返る。

「私一人で行く。ついて来ないで」

 言い残すと、足早に荷車を追う。

 トレスも馬車を降り、御者台のオルテンと顔を見合わせる。クリシアが戸外で馬車を降り、誰かに会いに行くなぞ信じられない。だが、やはり一人にはできない。トレスは慌ててクリシアを追っていった。

 

 角を曲がると、男が引いていた荷車の後ろ姿が見えた。荷台の陰で姿は見えない。まだこちらには気づいていないな。いや、すでに気づきながら無視しているのか。

 

 クリシアは構わずに近寄って行った。数歩の距離にまで近づいたとき、後ろからお嬢様、と鋭く呼ぶトレスの声がした。荷車がわずかに横にぶれ、速度が落ちる。

 彼女はやれやれと嘆息しながら、そのまま荷車の脇を通り、男の後ろ姿を見つけて声をかけた。

「おい、お前」

 だが男は、耳に入らないとでもいうように、相変わらず荷車を引いていく。自分を無視して進もうとする荷車に虚を突かれ、思わず叫ぶ。

「私の名は、クリシア・アルフ・バレルトだ」

 荷車が止まる。

 

 ここは我が家系の領地。癪には触るが、やはりバレルトの名は効き目があるな。そう思いながら男に近づく。

 荷車は止まったが、男は頭巾をかぶったまま、振り返ろうともしない。

 

「お前、名前はなんだ? どこに住んでいる?」

 そう問いかける彼女に、男は荷車の先棒から手を放すと、やっと半身を振り返らせた。頭巾を落とす。貴賓の者に対する最低限の礼儀は知っているな、とクリシアは感じた。

 

 灰色がかった土色の髪、面やつれした顔にうっすらと生える無精ひげ。身なりには無頓着だが意外と端正な顔立ちで、見ようによってはまだどことなく幼さも残っている、そんな男だった。ただ、年の割にこの世の辛酸をなめつくしたような暗い目つきが気にかかる。

 

 トレスが後ろから走り寄る。

「お嬢様、むやみに平民にお声なぞかけてはいけません」

 男が反応した様子を見て用心深く諭す。しかも、いつものクリシアの態度ではない。自分から人前に顔を晒し、話しかけてさえいる。何があったのか、この男が誰なのか、トレスには皆目わからない。

「よいではないか」

 クリシアはちらと眼を流しただけで、意に介さず続ける。

「お前の名前は?」

 男は黙っていた。彼女と、その後ろで抜け目なく男との間合いを計っているトレスとを交互に見ている。応えていいのか。そう言いたげな男の眼に、トレスが眉根にしわを寄せ小さく首を横に振った。さっさと行っておしまい。顔がそう答えている。

 

 ふいにクリシアの顔が男に近づいた。トレスが驚き思わず制しようとしたが、彼女自身おいそれと手を出せるものでもない。

「しゃべれるのだろう? 名前はなんだ」

 しつこく聞く。

 

 自分だけが不幸を背負っているかのような、他人を見下す態度が気に入らない。

 私に見られたことはもう悟っているだろう。しくじったと思っているな。少し意地の悪い心持ちになった。

 

 男が迷惑そうに顔を引く。

 その時、クリシアは自分に注がれる男の目つきの中の微かな違和感にやっと気づいた。もちろん自分の名が世に知られていることは、彼女自身心得ている。だが、この男の沈黙にはもっと深いものがあるような気がした。改めて男の容姿を見直したが、自分の記憶の中には残っていない顔だ。

 しばらく彼女を見ていた男の口が少しだけ開く。そこでまた考えこみ、やがて視線を落とすとぽつりと言った。

「セルデニー」

 

 声自体は思いのほか若々しく、年も自分とさほど変わらないようだ。トレスも意外な面持ちをしている。ただし抑揚はなく、明らかに人と交わることを避けている者の言葉だった。

 

「お前、戦場に出たことがあるのか?」

 男はまた黙り込んだ。背は彼女より高いくせに、上目遣いでじっとクリシアを見ている。だが、男のその眼が、自分の姿と一緒に何かずっと遠くのものまでを見ているような気がして、クリシアは不意にうそ寒い心持ちになった。左頬の傷を見られていることが急に気恥ずかしくなる。

 やや顔をそらしたが、先ほどの男の技前を思い起こし、改めて真顔になる。

「お前の動きは平民のものではない。剣の覚えがあるのだろう? しかも、年の割にかなり年季が入っているな」

 さして年も違わない相手に尊大な口を利き、改めて好奇心を秘めた目で男を見る。

「どこかの軍に所属していたのか? 元は名の通った騎士か」

 

 男の身体からふっと緊張感が消える。このやり取りに興味を失ったらしい。荷車に手をかけながら答える。

「ルクルドの軍にいて、怪我で退役しました」

 そう言い残すと先棒を持ちあげ、二人を無視してそのまま引き上げていく。クリシアもそれ以上言葉はかけなかった。

 

 馬車で城に帰って来た彼女は、いつも通りなるべく誰にも合わないように自分の居室へと戻った。帰る道々トレスには散々お説教をされたがまるで上の空で、今日の出来事にまだ興奮していた。

 あの男の印象が強烈に残っている。あの男の眼。あれは、決して誰にも言えない傷を負った者の眼だ。

 

 彼女は、自分と同じ人間を見た気がした。

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