メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第十七話 陰が囁く

公開日時: 2021年2月2日(火) 11:11
更新日時: 2021年2月6日(土) 23:06
文字数:4,705

目に映る光景を周囲と同じ思いで見られなくなった者にとって、孤独とは一人でいるよりもむしろ大勢の中でこそ感じるものだ。

 風呂から出たクリシアが、身体を拭き、新しい下着に着替える。

 塩入りの藻粉で歯を磨き、香料を垂らした湯で口をすすぐ。そして、薄紅色の顔料が入った白粉を左頬に叩く。全て終えると、次の間で待っているトレスを呼んだ。

 トレスがクリシアの着替えと髪の手入れをする。彼女の髪はまだ短いので束ねられない。櫛で梳くが、あまりきれいにまとまるものでもなかった。


 支度をすませると、朝の食事が始まる。

 クリシアは居室に用意された食卓についた。ほどなくして、木皿に盛られた薄い豆粥と少量の果実が運ばれてくる。

 彼女はこれしか食べられない。

 杓子で粥をすくうと口に入れ、ゆっくりと飲み込む。食べることはできるが、料理を美味だとも、食事を楽しいとも思えなかった。それどころか、食事というものはクリシアにとって最大の苦痛でしかなかった。落ち着いて口に入れ、飲み込むことができるようになるまでに大分とかかった。助けられた当初は何も食べられず、飲み込んでも吐いた。


 食べるということは生きるということ。生きるということは自分にまだ生きる価値があるということ。だが自分にはすでに生きる資格も希望もないという現実。食べてはいけないにもかかわらず、食べなければならないという矛盾。

 空腹を覚えると常に不安となり、時には暴れることもあった。今でもことさら食事に思い入れを持つと、ぶり返しそうで恐い。

 だから、彼女の食事には味がない。

 味覚を刺激するものは、塩も甘味も香辛料もほとんど使わせない。

 果実も味の強いものは避けている。それを彼女は、何も考えずただ口に入れ飲み下す。日に三度、そうしてやっと一日動けるだけの糧を得る。

 それが彼女の食事だった。


 食後に一息つくと、外に出る支度をする。最後に外套をはおり頭巾で頭をすっぽりと覆った。城館の中でも他人に顔を見せたくはない。彼女が誰かを知らずとも、やつれて顔に傷を負った女は人目を引く。詮索されるのはまっぴらだった。

 トレスと二人、人目を忍ぶようにひんやりとした回廊まで降りる。オルテンが、すでに馬車を仕立てて待っていた。

 手を借りて乗り込むと、馬車がゆっくりと動き出す。


 城下の街には様々な店が開き、広場では遠く異国からの香辛料や珍しい食材、織物などの屋台を広げた行商人が、呼び込みの声を張りあげている。

 オルテンが注意深く人の合い間を縫うように馬車を進め、やがて彼らは市街を囲む外城壁の東門を潜り抜けると、ベルーノ直轄の荘園へと向かっていった。


 季節は春から初夏へと向かい、暖かな日差しが降りそそいでいる。

 街道から逸れ、草花の生い茂る田舎道を進むと、少しずつ緑の大地の起伏が大きくなっていく。遠く灰色にかすむ山脈が連なり、そのふもとには新緑を湛えた広葉樹の森が広がっている。やがて広大な果樹園が見えてきた。

 透きとおった空には、ちぎれちぎれの雲が穏やかな風にゆっくりと流され、手前には葡萄畑の畝が何列にも延びている。畑では、小作人たちがところどころで作物の手入れをしていた。季節柄、害虫の駆除でもしているのだろう。


 確かに、このモルトナは疲れた心を癒すにはうってつけの場所と思える。

 のどかな風景の邪魔にならない程度に、トレスが讃嘆の言葉を口にした。だがその風景のどれをとっても、やはりとりたててクリシアの関心を惹くものはない。


 荘園をゆっくりと一巡りしたものの、終にはもう見るものもなくなり、そろそろ城へと戻る気配が感じられてきた。


 トレスもオルテンも、何かを期待していたわけではないが、相変わらず表情の晴れないクリシアには正直接しあぐねている。

 そしてクリシア自身、その気持ちをひしひしと感じている。

 自分が周囲に迷惑をかけていることはわかる。ことに長い間仕えてくれている二人は彼女の心の支えでもあり、すまない気持ちでいっぱいだったが、その言葉すら口にすることはなかなかできない。

 謝罪も感謝も心で思えばこそ。しかし口にすれば、今自分に残っている本のわずかな自尊心までが塵の如くなくなってしまいそうで怖かった。

 そうなったとき、果たして自分は自分のままでいられるのだろうか。

 とにかくなるべく従順に、穏やかに、そしてひっそりと、誰の目にも留まらないように生きていけたら。そればかりが頭に浮かぶ日々だった。


――――――――――――――――――――


 馬車は、やがて二つの丘に挟まれたなだらかな渓谷に差し掛かった。川にかかる石造りの大橋を渡ろうとしたとき、クリシアが馬車を止めるように言った。


「少し風にあたりたい」

 ここならば余人の目は届かない。

 クリシアは馬車を降りた。日差しは温かく感じるが、痩せ細った彼女の身体は自身で暖を取ることができず、戸外に出るには常に外套が不可欠だ。頭巾を下ろし、目をつぶって日の光と風を肌で感じる。

 ゆっくりと深く息を吸い込むと、木々の緑の匂いがした。

 そのまま橋から下り川辺まで歩く。目の届くところまでに、というトレスの声が追ってくる。彼女は片手をあげて応えると、穏やかな日差しの下を川沿いに歩いていった。


 城壁に閉ざされた中ではなく、戸外に一人きりでいる気分を味わう。

 目に映る光景を周囲と同じ思いで見られなくなった者にとって、孤独とは一人でいるよりもむしろ大勢の中でこそ感じるものだ。

 今こうして陽の光の中で、誰の手も借りずに自分だけで歩けることは、彼女にとっての束の間の安寧だった。


 だがそれも長くは続かない。

 自然の中を歩いていると、徐々にあの騎兵としての日々が蘇ってくる。部下たちと過ごした日々が思い出される。


 初めて彼らと出会った時、あからさまに自分を見下し、好奇な目を向け、指示にもおいそれと従わなかった男たち。

 だが血の滲むような努力と、決して諦めず根気よく諭すこと、何より彼らを配下ではなく同志として扱うことで、徐々に彼女の地位は確立されていった。

 彼らと共に、あらゆる地を馬で駆け巡った日々。行くたびも出撃したその中で、常に死を覚悟もし、現に幾人もの仲間を失い、また新たな仲間が加わる。緊張と迷いと、悔恨と懺悔が常にまとわりついてもいたが、それが彼女にとって生き甲斐と呼べる時代であったことは間違いない。

 陽の光をきらきらと返しながら目の前を流れる川面に、戦場では手近な川で水浴びもしていたことを思い出す。

 だがそのすべてはもう決して取り戻せない遠い過去のことだ。


 そして、わが身の不幸を呪いたいと思えば思うほど、心の中のもう一人の彼女が常に語りかけてくる。


 ――お前は自分がこの世で一番不幸な女と思うのか。

 罰当たりめ。外様とはいえ爵位を持つ将軍の娘に生まれ、したいことは全て叶えた。戦場に出ることを決めたのもお前自身だ。

 女だてらに男に混じった者が最後にどんな目に遭うか、知らなかったとは言わせないぞ。


 思い浮かべないようにとすればするほど、その声はまとわりつく。


 ――お前如きが不幸を嘆くなぞおこがましい。

 戦に敗れた城を、町を、女たちを見ろ。親を殺され家財を奪われ、とうの立った中年女から月のものも来ぬ子どもまで、寄って集って嬲りものだ。

 家族を、隣人を殺した男たちに犯され続け、果ては自分も殺されるか奴隷同然に売られるかだ。一度そうなれば、何一つ己のままにできぬ日々が一生涯続く。生きている限りは家畜の如く扱われ、お前が相手をした数をはるかに超える男たちに弄ばれ、病にでも罹れば捨て置かれる。


 ――不幸を嘆けることは幸せな者の特権だ。真に不幸なものは、幸せという言葉すら知らない。


 彼女とて兵士である以上、惨い光景を見なかった訳ではない。

 辺境の騎兵のために城攻めへの参戦こそしなかったものの、城の一つでも落ちれば、そこで暮らしていた者は貴賤の別なく皆地獄の憂き目に遭う。それが戦であり、彼女はあえてその中に身を置いた。

 なまじ裕福な士族に生まれ、己が選んだ道を進んだ果てのこと故に、彼女には自分の身に起こったことを嘆き、哀れむことすら許されない。


 川は右へとゆっくり弧を描き、その向こうにもう一つ小さな木橋が掛かっていた。作業に従事する小作人たちが使うのだろう。橋へと続く杣道が木陰から途切れ途切れに見えている。


 何とはなく風景を眺めていたクリシアの耳に、突如若い女の声が聞こえてきた。


 遠くてよくわからないが、何かを頻りに訴えているようだ。クリシアはあわてて頭巾をかぶると身をかがめた。人には遇いたくない。特に自分と歳の近い女には。

 草むらに隠れていると、橋の上手から若い娘が一人、後ずさるような格好で現れた。それに続いて男たちが三人。からかうような仕草でまとわりついている。姿からすると下級の衛士か傭兵のようだ。野卑な臭いが如実に感じられる。


 三人に囲まれ、丸木でできた欄干に背を押し当てた格好の娘は、手籠をしっかり抱え込み必死に懇願している。おそらく果樹園の家族の下に昼食でも届けに来たのだろう。その途中で運悪く男たちに出遭った。からかい半分に食い物を分けてくれとでも言っているのだろうが、目的が娘自身にあることは明らかだ。

 叔父の努力でこのモルトナは豊かではあるが、人の流れはどこであっても窪地に集まる水の如しだ。流れ込む水には、澄んだ清水もあれば濁った汚水もある。さまざまな人が集えば、このような輩もおのずと寄ってくる。


 だが、それよりも眼前の光景は一刻を争う。男たちが徐々に本性を現してきているのがわかる。

 三人いれば、娘を無理やり藪に連れ込み、代わる代わる欲望を遂げるなど楽なものだ。娘の心と身体が決して癒えない傷を受け、その後の生涯がどうなろうと、彼らは微塵も気を払いはすまい。


 クリシアが振り返る。丘の陰になった橋の光景は、馬車からは見えない。遠すぎて声も届かないはずだ。彼らを止められるのは私しかいない。

 たやすいことだ。ここで立ち上がり、声をかければよい。

 破廉恥な行為を余人に見られているとなれば、男たちも気をそがれるだろう。彼女は即座に立ち上がろうとした。そして気づいた。


 脚が動かない。


 立とうとしてもなぜか膝は動かなかった。身体が固まったように背筋が伸ばせない。うずくまったまま、身体はまるで動かなかった。声を出そうとして、彼女は自分の顎が震えていることに気づいた。


 聞こえるはずのない音がする。弩の矢が襲ってくる。男たちの怒声と悲鳴が乱れ飛ぶ。若い兵士が口から血を噴いて倒れる。彼女が何かを叫ぶ。だがその声は聞こえない。一人の頭を、太い矢が貫く。待ち伏せに遭った仲間たちが次々と死んでゆく。

 歯の根が合わず、息が吐けない。手も足も震えている。冷や汗がどっと噴き出してきた。


 橋の上で雑兵の一人が娘の腕を取った。手籠が落ち中身が転がり出る。娘は必死に振りほどこうとする。男たちの下卑た笑い声がここまで届く。

 その声を節目に、クリシアの頭に別の記憶が押し寄せてきた。


 地下牢に鎖でつながれた自分。野盗同然の男たちの汗と垢と汚物にまみれた体臭。その男たちの武骨な手が、髭に埋もれた口が、身体中をまさぐり、こちらの心も身体の具合も気に掛けず、ただいきり立った肉欲の塊を容赦なく突き入れてくる。

 記憶と共に口中に生々しい感触と匂いを感じ、彼女は思わず吐き戻しそうになった。

 だめだ。奴らも兵士なら、私の怖気には敏感に気付く。こんなありさまで男たちに気づかれたら、自分こそどうなるか分からない。


 男たちが娘を引きずり始めた。早くせねば間に合わない。気ばかりが焦る。それでも身体は動かない。もうだめだ。

 一滴も残っていないはずの涙がこみ上げてくる。


 クリシアが己を押しつぶす闇の渦に取り込まれようとしたその時、彼女の眼に、杣道をゆっくりと近づいてくる小さな荷車が映った。

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