メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第三十三話 セフィール

公開日時: 2021年4月7日(水) 11:00
更新日時: 2021年4月8日(木) 10:04
文字数:3,713

私は、ここから這い上がる。

 馬糞を摘んだ荷馬車に乗るというクリシアに、レントールは最後まで抗ったが、終に諦めると二人で御者台に座り館を後にした。

 クリシアは身軽な服に着替えている。身体が触れるほど近くに女主人がいることで、レントールの手綱取りもぎこちない。


 緊張を和らげようと、彼女は自分から声をかけた。

「お前の家族はどうしている」

「娘が二人おります。上はだいぶ遠方に嫁いでまして、下の娘はレティバにおります」

 彼は、モルトナから馬でも四、五日ほどかかる郡の名を出した。

「たまにしか会えないのでは、寂しいな」

「便りはほとんどねぇですが、それが変わりのない証しです」

 やや翳りを帯びた返事ではあったが、それが彼の朴訥で正直な性格を物語る。使用人たちにも何かを施してやりたいな、そう思いながらクリシアは馬車に揺られていた。

 

 畑に着くと、二人で馬糞の桶を下ろす。レントールは相変わらず困った顔をしていたが、もう何も言いはしなかった。

 彼が小屋の裏手に桶を運んでいる間、遠くで女たちと作業をしているマーカスをじっと見ている。彼らの仕事の邪魔はしない。ここに居れば、あの男はやってくる。


 しばらくすると作業は終わり、女たちは引き上げて行った。畑道具を抱えて戻ってきたマーカスは、いつものように馬車も二人も無視して道具をきれいに片づけ、小屋の裏手の井戸で手と顔を洗う。全てが終わるとやっと馬車に近づいてきた。

 レントールが挨拶もそこそこに、気を利かせて場から外れる。

 

 クリシアとマーカスは顔を見合わせたまま黙っている。当然マーカスから口を開こうとはしない。


 クリシアは深く息を吐くと、思い切って口を開いた。

「この前のことは世話になったと、改めて礼を言いたい」


 なぜ自分は、こんなかさ高な物言いしかできないのだろう。

 クリシアは不器用な自分が恨めしかった。ばつの悪さを誤魔化すように、慌てて付け足す。

「それと、殴って悪かった。あの時は自分でも何をしたかったのか分からない」

「気にするな。お前に非はない」

 マーカスのその言葉があの時の自分を思い起こさせ、クリシアはまた泣き出してしまうのではないかと不安になった。だが泣いている時ではない。核心の話に入る。


「お前のお陰で、今まで見えなかったものが見えた気がする。これは真実だ」

 声音に自嘲気味の含みがあった。

「何と言えば良いのか……つまり私は、所詮取るに足りない者だったわけだな」

 

 マーカスが探るように見る。何を言わんとしているのか分からないといった様子だ。クリシアの視線は彼を見ず、ずっと遠くをさまよっている。

「自分の力で騎兵隊長になったと自惚れ、男と同等の扱いをされたと慢心し、どん底に突き落とされれば、己の身がこの世でもっとも不幸だと嘆く。それが今までの私だ。戦で人生を狂わされる者は大勢いる。私もそのうちの一人でしかないのにな」

 黙って聞く彼の前で続ける。

「私はバレルトの家に生まれ、何でも自分の好き勝手にやってきた。自分で道を選べること自体が数多の者より恵まれているのに、それに気づきもせず、その幸運と親の威光で手に入れたものを失ったといってこの世の終わりのように嘆いていた。私には、自分の力で手に入れたものなぞ初めから何もなかった。私は、自分のしてきたことを娼婦以下だと思っていた。それこそ傲慢で恥ずかしい思いあがりだ。皆自分の力で生きている。自分の身一つで稼ぐ女たちより、初めから下だったのは私の方だ」

 

 彼女の考えは行き過ぎたもののようにも聞こえるが、マーカスにその言葉を否定する気はない。


「あの地下牢で、私は最後まで死ねなかった。自分に価値がないと知ったとき、死ぬこともできなくなった。だが、女であるというだけで男たちは私の身体を求めてくる。私はそこにすがった。男たちの相手をすることで、まだ私の役割はあるのだと無理やり自分に思い込ませた」

 クリシアは卑屈に笑ったが、さすがに彼の顔から視線を外した。


「おかしな話だ。男たちに犯されることで、自分を慰めていた。自分から男たちに身体を差し出し自尊心を保っていた。私自身、そうすれば殺されないということに安堵していた」

 彼女が口にしていることは、数日の間ずっと考え、行き当った彼女なりの答えだ。


「マーカス、改めて頼む。私に剣を教えてくれ。私は、ここから這い上がる」


 ゆっくりと頭を下げる。彼女には見えなかったが、マーカスが二度三度と瞬きした。そのまま小屋の中へと入ってしまう。

 クリシアは途方に暮れた。

 まだ足りないのだろうか。あの男には何といえば伝わるのだろう。

「マーカス、頼む」

 閉まった扉に声をかける。変化はない。クリシアが切実な声を張り上げた。


「聞いているのか……おい、セフィール!」

 

 不意に扉が開く。彼が立っている。手に一本の黒い棒を持っていた。目を見張るクリシアに無造作に渡す。

 それは彼女の身長の半分ほどだったが、持ってみるとズシリと重い。油を染み込ませて磨きこまれており、片手で握りしめてみると手にしっくりときて持ちやすかった。ただ、鍛鉄の剣とほぼ同等の重みがある。

「それを自在に振れるようになれ。そうしたら……」

 語尾が濁る。クリシアがすかさず聞き返した。

「また来ても良いか? 剣を教えてくれるか?」

 セフィールと呼ばれた彼は、その問いには答えない。


「まず身体をもどせ。そのままでは無理だ。遣えない」

 そういい残すと、小屋に入り扉を閉める。クリシアは、渡された木剣を両手でしっかりと握りしめた。

 

――――――――――――――――――――


 それから十日ほどの間、クリシアはたえず木剣を傍に置き、鍛錬にいそしんだ。トレスも初めは困惑したが、結局彼女から兵士としての生き方を取り上げることはできない。これを報告すれば父のバレルトは眉をひそめるかもしれないが、クリシア自身が求めているとあれば仕方のないことだ。諦めて好きにさせることにした。

 

 クリシアは女の恰好をやめた。動きやすい軽装に皮の長靴で木剣を振る。修行時代に朝晩欠かさずやらされた教練の通りに、構え振り続ける。だが、体力の無くなった彼女はすぐに息があがり、あっと言う間に疲れが出てくる。思うようにいかない自らの身体に悩んでいた。


 彼女の心は明らかに以前とは違う。だが食事だけは相変わらず言うことを聞かない。マーカスの畑の作物はよくできていた。それらで作った粥は美味しい。だがそこまでだった。希望を持てたことで少しは変わるかと思いソルティニに山鳥を焼かせてみたが、見ただけで食欲を失った。

 精を付け身体を元に戻すには、肉を食べないことにはどうにもならない。あの男は、木剣を自在に操れるようになったら来てよいと言った。だがこのままではその日がいつ訪れるのかすら見当がつかない。

 

 悩んだ末、彼女はまた彼を訪ねた。


 夏の強い日差しの下、マーカスは畑にいた。一面に青々と育つ畝が続いている。この男は類稀なる一流の作人だな、とクリシアはどこまでも続く畝に見とれていた。

 彼女が畦に現れたのを見て、マーカスが眉根にしわを寄せたのが分かる。だがそのまま無視して作物の手入れを続けた。


 彼との間が近くなったことは間違いない。それでも相変わらず、無用な馴れ合いは頑なに拒んでいる。やがて一段落が付いたのか、彼が地面の笊を抱えながらクリシアに近づいてきた。

「何だ」

 ぶっきらぼうに訊く。クリシアが口ごもりながら言った。

「あの木剣が、思うように振れない。だから教えを請いに来た」

 マーカスの顔に不思議な表情がさした。クリシアはその後の言葉を言いよどんでいる。視線があちこちを泳ぐ。意を決して口を開いた。

「まず、身体に力を付けたい。でも、私は思うようにものが食べられない。どうすればいい? 教えてくれ」


 我ながらおかしな問いだ。本音を言えば、彼と話をしたいがために来たようなもので、話の中身はどうでもよい。とにかく、彼の顔を見ていると心が落ち着く。

「オラードには医師も大勢いるはずだ」

「彼らに私の身体は治せない」

 クリシアが何の感情も現さず即座に言い切る。

 マーカスはしばらく考え込んでいたが、何かを思いついた様子で小屋の裏手へと向かった。

「ついて来い」

 クリシアが慌ててついて行く。

 

 その日、夕暮れ時になってやっと城館に馬車が戻ってきた。トレスとイリアが出迎える。オルテンの手に支えられて降りたクリシアは、泥だらけだった。ふらつくほどに疲労困憊している。


「いったいどうしました……オルテン、何があったのですか?」

 見ると、オルテンの身体もあちこち汚れている。口ごもる彼の代わりにクリシアが応えた。


「彼のせいじゃない……セフィールの畑を手伝っていた。これも稽古だ」


「それにしてもこんなに長い間……いきなりは無茶です」

「すまない。心配をかけた。だが疲れた。このまま休む。部屋に連れて行ってくれ」

 イリアが手を添え館の中へと入る。オルテンに訳を聞こうとしたトレスに、背後からクリシアが叫ぶ。

「オルテンを責めないで。私の我が儘だ」

 気を殺がれたトレスは、ほっと嘆息してオルテンと顔を見合わせた。彼が申し訳なさそうに巨体をすくめる。


 無言のままの二人の耳に、クリシアの一言だけがこびりついている。

 

 セフィール。

 彼女はそう呼んだ。

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