彼女の心から、また一つの懸念が消えた。
それからの二人の日々は、まず身の回りのことから始まった。
朝起きると水汲みをする。井戸の水は、セフィールが用意していた濾し甕に移す。甕の中には砂や砂利と木炭が入っており、井戸水を入れると底に空いた孔から濁りの取れた水が落ちる。それを煮立てて飲み水にした。
食事は二人で作る。彼らは麦餅の他、干し芋や干し豆も持ってきていた。それらを粥にして食べる。風呂には入れないが、水浴びか、沸かした湯で身体は拭ける。
剣士の修業時代から何でも一通りやっていたクリシアは、こつを思い出すと殆どをそつなくこなした。
合間を縫って、セフィールに教えられた通り木剣を振る。剣捌きの前に、まずは身体を鍛えることからだ。
彼女は着実に食事の量を増やしながら、朝起きてから夜眠るまで、身体を戻すことに努めた。すでに麦餅は苦も無く食べられるようになり、芋や豆の粥も味付けが少しずつ変わっている。周囲の森から採って来る木の実も炒って食べると、徐々に持久力も付き始めた。
ある日、彼女は一人で昼食の用意をしていた。セフィールは森に出ている。しばらくすると彼が戻ってきた。手に細枝を数本持っている。よく見ると先に茶色い物が刺さっている。近づいて来るにつけ、甘く香ばしい匂いが漂う。
「それは何だ?」
そう訊く彼女の目の前に、枝を差し出す。細い鳥の脚のような、焼けた肉が通されている。
「今日はこれを食え」
そういうセフィールにクリシアが返した。
「私は……まだ肉は食べられない」
「試してみろ」
有無を言わせぬ態度に、彼女がしぶしぶ頷く。確かに、麦餅も食べられたからには肉も食べられるかもしれない。だが、もし無理だったら。
セフィールの前で、弱い姿は極力見せたくない。
二人は卓に着くと食事を始めた。今日は芋粥に炒った豆、そしてセフィールが持ってきた串刺しの肉。
彼女は枝を手に取るとしばらく眺めていた。鳥にしてはやけに細い。何の肉だろう。だが少し焦げの混じった甘い香りが食欲をそそることは事実だった。
彼女が口を近づけ試すように齧る。やはり鳥肉だ。表面は焼けているが中は柔らかく肉汁が豊富で、彼女の記憶の中にあるどんな肉よりも美味だった。ただし、味が良いことと身体が受け付けるかということとは違う。しばらく噛んだ後で飲み下し、どうなるかをじっと待つ。
向かいの席で、セフィールも匙を置いたまま彼女の様子を見ている。
窓から柔らかな日差しが射しこんでいた。その中を細かな塵が漂っている。炉に残った薪の火がかすかな音を立てながら燃える。クリシアもセフィールもじっと動かずにいた。
やがて、彼女がごくりと咽喉を鳴らし唾を飲み込んだ。
「大丈夫だ」
正面のセフィールを見る。
「食べられる」
口元に笑みを浮かべようとしたが、なぜか震えてしまった。その顔を見つめながらセフィールがゆっくりと頷いたとき、クリシアは我知らず眼に涙が浮かぶのを感じた。
食べられる。あれほど食べられなかった肉が食べられる。
涙がこぼれそうになり。慌てて目を瞑ると上を向く。この男の前で泣くのは何度目になるのか。だが面と向かって涙を見せたのは初めてだ。そして、これは哀しみの涙ではない。やっと以前の自分に戻り始めた感触を掴んだ。嬉しかった。
彼女は掌で両目を拭うと、手に持った肉に眼を戻した。セフィールも一本を取ると、おもむろに齧る。彼女ももう一口噛んだ。口中で噛み締め、ゆっくりと飲み込む。少し焦げた甘味も久しぶりだ。
この男が調理をできることはソルティニから聞いている。しかも剣に負けず劣らず、大した腕前だ。
「……どんなもので味付けを?」
「蜂蜜に果実の蒸留酒と枸櫞や柑の果汁を混ぜてある。香草もいくつか入っている」
道理で、甘いだけではなく複雑な味だ。
「肉はどこで手に入れた?」
そう訊く彼女に、セフィールはしばし口を動かした後で言った。
「少し歩いた場所に沼がある。そこにいる」
水鳥か。頷く彼女がまた一口齧る。常よりもやや時をかけ、ゆっくり一枝の肉を食べ尽くすとそこで止めておいた。あまり気を逸らせず、慎重に行く方が良い。だが、肉が食べられれば身体も次第に元に戻る。
彼女の心から、また一つの懸念が消えた。
――――――――――――――――――――
それから三日ほどが経ち、彼女の身体が日課に慣れたのを見定めると、セフィールは徐々に剣の使い方を手ほどきし始めた。郭に出ると、彼女にオラード軍での教練に沿って形を取らせ、少しずつ修正する。
「踏み込みが浅い。もっと腰を落とせ」
「下から上に突け。小指に力を込めて捻りながら引き抜け。正面から突くよりも楽で、隙ができにくい」
「突いて間を置くな。突きと抜きは一つの動作だ。抜いた後すぐに変化させて別の敵の相手もできる」
セフィールが手本を見せながら言う。
「重心はここだ」
クリシアの脛を自分の木剣で軽く叩く。膝下よりもやや足首よりを意識するように言う。
「肩を上げるな。意識はここだ」
肩甲骨を叩く。
「身体の中心は、背中ならここだ」
肩甲骨に挟まれた背骨のやや下よりを押される。
「腹はここだ」
そういって彼女の臍の下を叩く。
「ここに意識を落とし込み、体を沈めろ」
彼女が腰を落としていく。
「もっとだ」
セフィールが声をかけた。もっと、もっと。クリシアの膝が震える。彼は黙って見ているだけだ。耐え切れずに尻もちをつく。肩で息をしている。腿が痛む。だが弱音は吐かない。彼女は立ち上がった。
セフィールの教えは剣捌きよりもまず身体の動きが中心だった。頭、肩、腰、膝、この四つを常に意識し、重心の崩れを防ぐ。脚と体幹を使って攻撃を躱し、去なす。組み打ちでは相手の力を応用して、攻めの流れを断つ。
人の身体の造りから四肢の動き、手首、肘、肩、膝といった関節の向き、当てる位置を本のわずかに変えただけで、力が増える、潰える、それを徹底的に教えられる。
「お前は女だ。力ではなく速さと体捌きを使え」
「相手の剣を受ける動作はないと思え。受けるのは自分が切るためだ。切るために邪魔な剣を流す。そのために受けがある。受けたら必ず切れ」
何度も繰り返すが、なかなか納得の得られるものにはならない。セフィールは優秀な師で、そして厳しかった。
「動きが大きい。無駄が多い。そして遅い」
同じ動作を彼がやると、クリシアの倍以上の速さになる。
「俺とお前の身体の差はあるが、並みの者よりはずっと早くできるはずだ」
朝起きてから日没まで、水汲みや洗濯、食事の用意の際にも、彼女は身体を鍛え、素早く動けるよう筋力を鍛えることに没頭した。
セフィールの教えは、軍の教練と似ている部分もあるが、さらに細かく実践的だ。剣の持ち方、振り方、受け方、捌き方、どれをとっても隙がない。動作は必要最小限で、なおかつ攻撃の効果は最大まで引き出せるように整えられていた。切り結ぶ角度、押し、引き、残心、体捌き、全てがクリシアには新鮮だ。
ここまで極められ、収斂された武術があるとは思いもよらなかった。使う筋肉もことごとく違う。病み上がりということを抜きにしても、彼女にとってはかなりの負担だ。寝る直前まで、鍛錬のためにできることは何でもすることに決めた。
いつも日課が終わるとへとへとになり、寝藁に倒れ込むようにして前後不覚に眠る。起きればまた同じ一日が始まる。
セフィールからもらった軟膏は、ほのかに甘い香りがした。薫衣草と薬菊、そして南方の豆の木の樹液から採った蒸留液が入っていると言われ、手の肉刺以外にも、稽古でできた切り傷、擦り傷、何にでも役立った。稽古の疲れや身体の痛みには、別の薬油があった。
ある晩、手に軟膏を擦り込んでいる彼女をセフィールがじっと見ていることがあった。何かをため込んでいるような表情。
面映ゆさを感じた彼女が何だと問うと、彼は自らの左頬にゆっくりと指をあてた。
「その傷にも塗ってみろ。時はかかるが目立たなくなるかも知れん」
それだけ言うと去っていく。
残された彼女の口元が震える。今の一言に、セフィールが自分を女として見てくれていること、気遣ってくれていること、そして傷つけないようにと、わずかながらの戸惑いを感じていることが知れた。それ以来、頬の傷にも擦り込んでいる。
毎朝、顔を洗った後で頬の傷に軟膏を擦り込むとき、彼女はいつも化粧をしているような気分になった。貴族の婦女子たちが、殿方と呼ぶ男と会う前にはいつもこんな気持ちなのだろうか。
そしてそれからというもの、セフィールと会うたびに、なぜか微妙に伏し目がちになってしまう自分がいた。
夜、手にできた傷に軟膏を擦り込んでいると、彼の生い立ちへの興味が掘り起こされる。彼女も兵士のころに怪我の治療法や薬草の類は多少聞きかじっていたが、それとは明らかに違う。そもそも戦場での治療は大雑把だし、手足の怪我も傷が塞がれば幸いだが、もし長引いて膿めば肉ごとえぐり取るか、場合によっては切り落とし焼きつぶすしかない。それでも命があれば儲けものだ。
セフィールが、素性や階級はともかく類稀な戦士であることはもちろんだが、これらの知識は戦とは違う暮らしで身に付けたものに違いない。
だが、さして知られていない薬草の蒸留や薬剤の精製を、どこの誰に教わったのだろう。
ふと、クリシアの頭に今までにはない考えが浮かぶ。
あの完璧なまでの腕前。俊敏さ。しかも膂力も人並み外れている。身体に似合わぬ怪力とさえ言って良い。そして、隠したがる過去。
彼女の手が止まる。
彼女も遭ったことはないが、この世の誰もが知っている怪物たち。
父のバレルトが掃討し、そして三人だけがその手を逃れ、未だに行方のつかめない魔の騎士たち。
クリシアも並みの女ではない。一つの事柄についてはあらゆる見込みを頭に浮かべ、事実と照らし合わせ、確証を得て結論を出す。手を止め、頭の中で探ってみた。なるべく感情は交えずに。当てはまる部分は多い。急に部屋の中が寒くなった気がした。
もしあの男が逃亡した騎士だったら、私はどうすればよい。ただ、唯一の反証は何より彼の言動に垣間見える自分や周囲へのさりげない気遣いだ。それは館の皆も感じている。噂に聞く魔物とはどうしても重ならない。そう思い返すと、再び手を動かし始める。
あの男の過去に何があったとしても、今は自分の師であり、そして紛れもない恩人だった。私は彼を裏切ることはしない。
横になると、彼女は眠りについた。
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