メルロドスの杖

―血を纏う騎士―
うろはしめ
うろはしめ

第二十五話 使用人たち

公開日時: 2021年2月23日(火) 11:00
文字数:4,273

寝起きしている小屋の扉が叩かれる前から、マーカスは数人の男が近づいてくるのを感じ取っていた。

 クリシアはまた館を出なくなり、しかもほとんど自室に籠りきりになった。

 食事も部屋まで運ばせて摂っているが、前にも増して細くなり使用人たちは皆心配している。

 わけてもあの日一緒にいた三人はひとしおで、直接謝りたいというのをトレスが根気よく説得した。謝罪など入れれば、今のクリシアには逆効果だ。

 トレス自身、良かれと思って行かせた枸櫞採りがもととなり、彼女の回復の兆しを帳消しにしてしまった責めにかなり気落ちしている。

 とはいえ、自分まで塞いでいるわけにはいかず、何とかしてクリシアを良い方向に向かわせたい。そのためにはあの男を利用するしかないのだが、外に出ないクリシアには引き会わせることもできず、どうしたものかと思案が続く。


 クリシアは、寝台の上でぼんやりと過ごしていた。食事の量が減ったため、立って動き回るのも億劫だ。枸櫞採りの日のことが、新たな後悔として心に暗い染みを作っている。

 自分の不注意で皆に迷惑をかけたうえ、今まで皆から受けた恩を仇で返すような事態に陥っている。今の彼女は、塞いでいると同時に、城館の皆に会わせる顔がないという心持ちでもあった。

 そして何より、マーカスに身体を触れられたことが新たな溝を作っている。


 今までとて私の身体がどんなものかは誰もが知っていただろう。だが腕とはいえ、選りにも選ってあの男に見られ、触れられてしまった。

 気を失った私を抱えたあの男はどう思ったろう。

 今の私の身体は、私の弱さそのものだ。負った傷を克服することもできず、周囲の気遣いにも応えられず、我が身の不幸のみを抱え込んでいる身勝手で独りよがりな心。それでありながら、その弱さを必死に隠そうとする狡くさもしい性根。

 無駄な努力とはいえ、今まで必死に隠そうとしてきたその醜い私を、マーカスは即座に感じ取ったはずだ。それが、彼女には耐えられないほどの恥辱だった。


 心の片隅では、何を今さらとも思う。

 もはや女として生きられない自分が、生娘のような青臭い思いを胸に抱くとは、この方がはるかに滑稽だ。だが、それは理性では片づけることのできない何とも言い難い心情だった。


 窓の外に、モルトナの山々の蒼い峰が覗いている。

 アンブロウの父は、こんな私をどう思っているだろう。父の城にいたときは、何をするにも常に幾重にも守られていた。それが息苦しくもあったが、あるいはあのまま父の許に居続けた方が良かったのかもしれない。

 心配を掛けたくはないが、自分でもどうすることもできない心の葛藤に、彼女は出口を見つけられないままでいた。


 その頃、アンブロウの城では、バレルトが届いたばかりの一通の書簡を読んでいた。読み終えると不快な面持ちで机の上に放り出す。

 目の前に立っていたドレモントにまできつい眼差しを送る。

「ふん、また同じ回答だ。まだ許しは出せぬと言ってきたわ」


 オラード本国に送った干拓工事の許可への二度目の催促に、今しがた届いた返答だった。

「遅すぎますな。折角諸般の用意が整っておりますのに。手配した石工や人足どもも工事の始まりを問い合わせてきております」

「貴族の奴ら、そこまで調べをつけておるのだろう。待たせている者どもには、これでまた手付を上乗せさせねばならん。長引かせてわしの金が出ていくのを眺めているということだ」

 バレルトの言葉に、ドレモントが相槌を打つ。彼にしても、このアンブロウでバレルトが統治を行い始めてから、本国に送った新事案の決済が悉く歯切れの悪い回答で滞るのを目にしてきた。

 貴族たちの露骨な邪魔立てと分かってはいるが、今の彼らの立場では、残念ながらそこまで立ち入ることはできない。


「ブレスロウ閣下に、直接談判してはいかがでしょうか?」

 ブレスロウとは、周辺諸国との国境、いわゆる辺境守備の統括をしており、バレルトも今は彼の支配下に入っていた。上申は、彼がまず決済を下し国王に告げる立場にある。だがバレルトは首を振った。

「干拓の件一つにそこまでしたところで、今以上に反感を買うだけだ。他の件への締め付けがさらに厳しくなるのは、あまり好むところではない」

「ですが、ジラームの干拓は今までにない大規模な計画ですぞ。これが通れば本国も閣下への態度を軟化させるのでは?」

「だからこそ、貴族の奴らが躍起になって邪魔をしておるのだ」


 バレルトは、ドレモントに下がるように命じた。彼が退室すると、椅子から立ち上がり開け放した張り出し歩廊へと出ていく。


 天守からは眼下に城の中郭が見渡せ、その先に外郭の城壁を越えて続く城下町から、遠くアンブロウの山々が見渡せる。眼の届く大地のすべてが、今自分のものになりつつある。

 だがこの広大な地を治めるには、有能な人材、腹心が必要だ。ドレモントは戦の場では信頼できるが権謀術策を練るにはやはり物足りん。もしバーゼルが生きていたら、どんな手を使いことを進めるか。バーゼルの死後、幾人かの配下も新たに召し抱えたが、どれもいま一つ頭角を現してはいなかった。

 ソルヴィグであの男を失ったのは、やはり痛い。あの時、あの目算違いさえなければ、とバレルトは悔やんだ。


 もうしばらくはこのまま辛抱だな。そう思い返しながら、歩廊から室内へと戻っていく彼の傍を、夏の匂いの風が通り抜ける。

 穏やかな風にしばし思考を止めていると、またもクリシアのことが案じられた。

 トレスからの便りが一定の間合いで届くが、あまり変化は感じられない。娘のこともしばし辛抱か。待つのは性に合わないが、こればかりは致し方ない。時を掛けて解決することもある。肝心なのは、時を掛けるべきものか掛けぬべきものか、その見極めを間違わないことだ。

 今はトレスを信じよう。そう思うと、執務机に積まれている書簡へと眼を戻した。


――――――――――――――――――――


「イリア……レントールを見ませんでしたか?」

 尋ねるトレスに、イリアは首を振った。

 先ほどからレントールを探しているが見つからない。城館の中から中庭へと出つつ何度目かで呼びかけると、厨房からソルティニが顔をのぞかせた。前掛けで手を拭きながら足早に寄ってくる。

「レントールの姿が見えません。どこか知っていますか?」

「あの、薪の手配を頼みました。御用であれば私が」

 ソルティニが、わずかに慌てるようなそぶりを見せる。

「そうですか」

 辺りを見回しながら、重ねて訊く。

「ポルコフはどうしました?」

「ええ……庭に使う花を探すと言って出ております」

 ソルティニが、あやふやな答えを返す。


 トレスが黙り込んだ。そういえばオルテンも見かけない。

 ソルティニの顔を見つめると、相手の眼が泳ぐ。この男は裏表がなくて大変良いが、その分隠し事や腹芸は下手だ。

 あえてゆっくりと訊く。

「皆そろって、留守にしているのですか?」


 ソルティニはあいまいに口ごもったが、トレスには即座に察しがついた。だが仕方がない。彼らにも考えがあってのことだろう。今回は大目に見ることとしよう。


 寝起きしている小屋の扉が叩かれる前から、マーカスは数人の男が近づいてくるのを感じ取っていた。何度目かの音に用心深く近づき、開く。跫から誰かは分かっていた。

 案の定、三人が揃って立っている。


「……突然、すみません」

 オルテンがぎこちなく挨拶をする。マーカスは黙って三人を見た。

「実は、あなたにお願いがありまして……」

 深刻な面持ちのまま続ける。

「あの枸櫞採りの日から、クリシア様の様子が芳しくありません」

 同意を求めるように横の二人を見る。長身のポルコフが古びた口調で言った。

「部屋に籠りきりになられましてな。食事も以前に輪をかけて減っていらっしゃる」

 マーカスは何と答えるべきか迷っていた。この者たちがなぜ来たのか、その目的は察しがつく。だが俺に何ができる。


 黙っているままの彼に、オルテンが意を決した顔つきで言った。

「あなたに、見舞っていただけないかと思いまして」

 オルテンの言葉にマーカスが今まで見たこともない表情をした。見舞い。この俺に何と似合わない言葉を吐く。一言だけ返す。

「会ってどうする?」


 三人が目を見合わせる。オルテンがおずおずと口にした。

「あなたが来てくれれば、クリシア様も元気になられるのではないかと……」

 歯切れが悪いが、彼らにもこれ以上の言葉がなかった。

 クリシアがマーカスに特別な想いを抱いていることは分かる。それは、色恋のようなものでもなさそうだが、それでも今の彼女にとって、この男こそがなくてはならない存在ということも分かる。

 それをどう言い表せばよいのか。ここにいる誰にも分からなかった。


 マーカスも、応じもしなければ断りもしない。

 男が四人で顔を合わせながら、先に進む手だてが分からずにいる。


 その居心地の悪い沈黙を破ったのは、レントールだった。

「理屈じゃねえんです。とにかく、お嬢様はあなたがいないとだめなんです」

 オルテンとポルコフが同意する。マーカスが眉根にしわを寄せた。しばらく考え込んでいたが、渋い顔つきのまま言う。

「後で行く。帰ってトレスにそう伝えろ」

 後ろ手に扉を閉める。三人が安堵した表情で頷いた。


 うとうととしていたクリシアは、人の気配で目を覚ました。トレスが部屋に入ってくるところだった。また何か言われるのか。ぼんやりした頭のまま、心持ち身構えるように彼女を見る。

 目を覚ましていると見たトレスが彼女に告げる。

「マーカスが見舞いに来るそうです」


 その言葉にクリシアがはっきりと目を覚ます。

 見舞い。何とあの男に似つかわしくない行いだ。だが、本当に来るとしたら厄介だった。平静でいられる自信がない。寝台に横たわったまま口を開く。

「……会いたくない。断ってくれ」


 だが、トレスはその言葉を否定した。

「お嬢様、お会いになってください。そして彼と話をしてください。それが今何よりも必要なことです」

 クリシアがトレスを見つめる。

「何を話せと言うんだ?」

「あなたの心が一番欲していることであれば、何でも良いのです。あの男なら、それを受け止められるはずです」


 何を言っている。私が一番隠したいことを知られた相手に、その隠し続けている心の内を話せと。

「私には話したいことなぞない」

「クリシア様!」

 トレスが叫ぶ。目がぼやけていた。泣いているのか。

「お願いです。マーカスと会ってください」


 クリシアの鼓動が高まってくる。

 今まで何に付けても冷静だったトレスが、なんでも解決できた彼女が、泣きながら私に頼み込んでいる。しかも自分ではなくマーカスを頼れと。

「あの男なら、あなたを救えます」


 トレスの言葉に、クリシアは心を決めた。

 もう逃げていることはできない。

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