無言の彼らの前に、回廊の暗闇から見える宮廷の庭の花々だけが眩しいほどに鮮やかで、時までが止まっているような昼下がりだった。
オラードの王都ブランドレーナ。
王宮の広い回廊の片隅で、ケイロンズは盛夏の日差しをいっぱいに受ける中庭を眺めていた。傍らにはケイロンズ同様に古くから王家に仕える貴族が数人立っている。
気怠い暑さのなか、日除けの下りた石造りの回廊の冷たさと、外の明るさに比して一層暗く感じさせる日蔭とが、佇む者たちの顔をより固いものとしている。
濃い闇に皆の表情は定かでないが、一様に渋い顔つきであることは明らかだ。
つい先ほど、大臣のフォルネーリから、バレルトの出していた干拓の承認が下りたと聞かされたばかりだった。
王を取り巻く側近に対する根回しでふた月あまり引き延ばしたが、この辺りが限界だろう。工事の遅れによりバレルトは多少の散財をしたと思うが、一年も経ち入植者からの徴税が可能となれば、それらをはるかに上回る富が絶え間なく得られるはずだ。
暗がりに、傍らにいる老マチェーズの口元が動く。
「昨年の治水工事の折はもう少々かかったかと思うが、此度は存外早かったの」
オラード東方のバルベーヌ郡を治める領主で、譜代の貴族では筆頭の大家だった。息子もいるが、まだ自身が名主として君臨している。
「バレルトもそれなりに手を回しているということですな。大臣たちにとっても、片方だけでは甘みは少ない。我らとバレルトを天秤にかけ、値を吊り上げておりますよ」
応えたのはカルバクールだ。マチェーズ同様に東方の郡を治めている。
一歩後ろでは、オームがいつもの他人を値踏みするような忙しない目つきで、話の行方を追っていた。
オラードには大小合わせて二十一の郡がある。
王都を含めた三郡が王家の直轄領、十三の郡を古くからの貴族が占め、国教寺院の直轄領が二つ、そして残りの三つの小郡にはバレルト家を首め軍属上がりの領主がいた。
この均衡は、貴族たちにとって理想とまではいかずとも、不満に思うほどでもなかったが、先の大戦で旧ヴェナード領が割譲されたことにより、彼らの将来には深刻な不安の種ができてしまった。
オラード本国に編入されることとなった旧ヴェナード領は、オラード国としての統治が落ち着くまでは全てを王家直轄とし、王都のネルタに王弟が入城すると、各郡には代官の職が置かれた。
彼らは、数年の任期が明ければ今の領地を一旦王家に戻し、その中からなにがしかの領土を分け与えられたうえで一領主となるだろう。
もちろんその時にはヴェナードの領地の大半は王家のものとなるが、この代官としての統治期間における彼らの権力は絶大なものだ。上手く立ち回れば、思う存分に私腹を肥やすことができる。とすれば、任期が明けて地方の一領主となったとしても手元には莫大な富が残り、しかも代官時代の統治の手腕が認められれば、与えられる領地も職位も相当なものとなるはずだ。それをして、オラード国の中枢に食い込むこともできるだろう。
ところが、任官された五人の代官職は悉く大戦で活躍した軍人で占められ、オラード貴族は一人として介入できなかった。
戦乱冷めやらぬ地の政には難題も多い。まして、今まで他国であったものを自国の法制に則り統治するには軍人が適格、と国王は宣うたが、王家にしても、自尊心のみが高く歴史上何かと自分たちの私欲のために立ち回ってきた貴族より、軍人として仕えている者どもの方がずっと扱いやすいと考えている。
もし今後数年のうちに貴族と軍属領主の力が同等となれば、政における自分たちの立場はますます希薄なものとなっていく予感が、貴族たちにはあった。
王家に従順な軍人たちの台頭を防ぐためにも、ヴェナード領での軍属の動きを妨げ、あわよくば代官の職を解き、代わって自分たちが統治権を手にしたい。とりわけあのバレルトに大きな権力を与えることだけは避けたいと、彼らは常日頃から画策していた。
貴族から見れば、軍人なぞ戦の勝ち負けに目端が利くのみで、政や国家間の駆け引きには到底遣えぬ武骨な乱暴者といった印象しかない。また政治に伴う利権や袖の下は、彼らにとって通貨取引と同等のものとして罷り通っていた。
それは罪悪などではない。貴族とは、そもそもそのようにして生きて行く選ばれた存在だ。それを目先のことしか分からぬ無粋者どもに邪魔されることは何としても防がねばならない。
暗がりで押し黙った男たちの頭にあるのは、そのような驕りと自惚に歪んだ尺度でしかなかった。
「次の手は、どなたかお考えですか?」
オームが眼を左右へと回す。だが応えはなかった。あったとしても、こんな場で口にするほど彼らも浅はかではない。
ケイロンズが、同胞に目を向けつつ場を収めるように言う。
「所詮その場しのぎの手段ですから、この辺が潮時でしょう。これ以上引き延ばして後々バレルトとことを構えるような事態になれば、その方が厄介です」
確かに、と皆一様に頷いた。オームも黙り込む。
無言の彼らの前に、回廊の暗闇から見える宮廷の庭の花々だけが眩しいほどに鮮やかで、時までが止まっているような昼下がりだった。
「ご覧なさい。バレルト卑卿だ」
ケイロンズの隣郡を治めるゲルニオの声に皆が顔を向けた先には、向かい側の歩廊を見え隠れしながら歩くベルーノ・バレルトがいた。
バレルト家は領主として名を連ねてはいるが、代々続く貴族からすれば成り上がりの田舎者だ。彼らは、軍属上がりの領主を陰では卿の前に卑と付けて呼び、自分らとは違う者と見下していた。
ベルーノが治めるモルトナは豊かだが、小郡のため王都における力はさしてない。また彼自身、貴族たちの腹は分かっていながら殊更に対立しようともせず、何事も穏便に済ませようとする性格のため、周囲から小者と評されている。
だが、兄オリガロの勢力が大きくなれば、いつ兄弟いずれもが自分たちの脅威になるとも限らない。今もベルーノが、この王都での動きを逐一兄に報告していることは明らかだ。
「そういえば、バレルトの娘はあの叔父の許に身を寄せていましたな」
カルバクールが思い出したように言う。
「何でも、今では世捨て人同然で畑の世話に明け暮れているとか」
「とうに年頃も過ぎたはずだが、虜囚となっていたと噂の娘では、輿入れもできませんな」
「女だてらに軍になぞ身を置くからそのようなことになる。身のほど知らずの末路だの」
皆の顔に侮蔑の笑みが浮かぶ。バレルトの醜聞と言えるものであれば、どんな些細なものでも溜飲が下がる。
暗闇の中に漏れる彼らの含み笑いを、ケイロンズは黙って聞いていた。
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三日後、アンブロウではバレルトがやっと届いた干拓受理の知らせに、さっそく細かな指示を配下に与えていた。
バレルトには、このジラームの干拓以外にもやらねばならぬことが山積みだった。
ここアンブロウに加え、隣接するノシビアとサンブールの二つの郡も彼の統治下に入っている。
形の上では、王家よりブレスロウ大臣に下知された職務を大臣の代官としてバレルトが受け、三郡の法務、農務、財務などの統括を行っているが、今後もブレスロウがこの地を実質的に治める気配はない。ゆくゆくは王家に戻るが、今のバレルト自身の裁量によって、任期が明けた際に与えられる領地と権限の大小が決まる。
今納めている三つの郡のうち、一つの郡の半分ほどの領地でも、オラードの貴族に匹敵する身分となる。
だが、旧ヴェナードの制度をオラードの流儀へと変更し、領民を帰順させることは、なかなかの大業だった。
その中でも特に頭を悩ますのが宗教だ。
オラードもヴェナードも、ともにルスタ教を国教に定めていた。
天空を治める神の一族、太陽神ルスタを筆頭に月や星々の神々が、魔族を地の底に封じたという伝説に起源を持ち、二国以外にも広域で信仰されている。
ただし、ザクスールやスヴォルトをはじめ、大国でもいくつかの根強い土着信仰があり、どの国家も領民の信仰には比較的ゆるやかな政策をとっていた。殊にザクスールは、南方を起源としたシャラフ教とルスタ教が二大信仰として浸透している。
ヴェナードには、ザクスール起源のシャラフ教の信者もいた。旧ヴェナードの歴史上、国教の敵とみなされしばしば弾圧されもしたが、大戦の末期、隠れていた信者たちはカリフィス王朝の力が弱まりつつあることを察知するとそこここに現れ、彼らはヴェナード国ではなく、むしろザクスールやオラードに同調した。
ヴェナードの解体に一役買うことにもなった彼らの改宗は望めない。ザクスール本国も絡むこの件に下手に手を出せば、新たな国家間の火種とも成りかねない。
だが、オラード本国の国教総本山である総統寺院より、旧ヴェナード領民のルスタ教への改宗が強い要望として出てきていた。
国教寺院には、ヴェナード領が王家の直轄領となった暁に、相応の範囲が割り当てられる手筈となっている。
直轄領民に異教の民が混じることを嫌う彼らが、バレルトの統治期間に極力ルスタ教への改宗を迫るのも当然で、寺院の後ろ盾を確保しておきたい王家もこの件には強い姿勢が取れない。
自らの手は汚さず、嫌な仕事はすべて他人にやらせる点は、坊主も貴族も変わりはないな、とバレルトをはじめ軍人たちは常日頃から国教寺院を苦々しく思っている。
とはいえ、王家も暗に了承している改宗の件を、多少なりとも進めないことには、バレルトの評価にも影が差す。
悩みどころだった。
加えて、彼にはもう一つの難題がある。ソルヴィグで目にしたフェルゾムの秘密、特に大量の火薬の出所や、並みの者とは異なるあの頑強かつ俊敏な身体の謎など、今後の軍備に大きく関わる問題の究明だ。
バレルトは、ソルヴィグ落城においてその眼でフェルゾムを見た最高司令官として、逃げたフェルゾムの捜索の責任者となっている。彼らを探し出すためには、フェルゾムの謎についてもひも解くことが必要だが、ソルヴィグで手に入れた焼け残りの品々だけでは、思うように進まない。
彼らの身体の秘密はともかく、火薬の原料となる硝石の出所はすべての国が躍起となって探している。もちろん自分を出し抜こうとするオラードの貴族たちも同様だ。しかもソルヴィグでの一件を知った貴族どもは、バレルトが入手した品々を早々にオラード本国に運ばせ、それ以来見ることもできなくなってしまった。そうと察して主だった物を密かに手元に隠さなければ、何の手がかりもなくなっていたことだろう。
オラードに送った残骸から、貴族どもがそうたやすく何かを突き止められるとは思えないが、用心に越したことはない。
これはすべての国が集った争奪戦だ。もしそこに最も早く到達できれば、この世界を支配することも不可能ではなくなる。
彼自身は極めて現実的にものを考え、一足飛びに自分が大きな権力を握るべきか否かは時をかけて吟味するつもりでいる。この世とは、唯一人の者の手に負えるほど他愛のないものではない。
だが、知恵の浅い輩が邪な欲望を持てば力の均衡が崩れる。フェルゾム自身が良い例だ。それを考えると、誰よりその取り扱い方を知っている自分が手に入れることこそが、この世を救うこととも思える。またそうであるが故に、余人に出し抜かれることは是が非でも避けたい。
やはり手駒が足りんな、とバレルトは思った。
ソルヴィグでの副官バーゼルの死は彼にとって大きな痛手だった。あの男が道連れにされたのは果たして偶然か。それとも、二年前、自分の知らぬところで何かが進んでいたのか。
すべてはフェルゾムとともに跡形もなく吹き飛び、ソルヴィグの城と共に燃え尽き地の底に埋まった。城は廃墟と化し、幾度となく発掘も行われたが、今や新しい手掛かりはほとんど見つからない。
まさにルスタ教に曰く、地獄に封じ込められた悪鬼どもだ。
ソルヴィグに思いを馳せていると、バレルトはもう一度フェルゾムという者どものことを根本から考えてみたくなった。
そういえば、あの男はどうしたろうか。
今の自分と同じことを口にし、そのまま我らの前から姿を消した男は。
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