「どこまで強くなったのか、それを見せろと言っているような気がする」
若い兵士の一隊は、どこか遠くから響く叫び声を聞いた。
分隊長が手を挙げ皆を制す。全員が耳を澄ました。だがもう何も聞こえない。
お互いが目を見合わせる。仲間に何かが起こったのは間違いない。あまり望ましくない何かが。
だが、今の彼らには何もできなかった。自分たちが今どこにいるのかさえ不確かだ。もし別の隊が不運にもフェルゾムに遭遇し、そして戦死したのだとしても、それは受け入れねばならない事実だった。ここは戦場だ。恐れ、挫ければ死ぬだけだ。自らを奮い立たせ、前へ進む他に道はない。
分隊は、まだ通っていない方角へと進んでいった。
控えの間から反対の通路へと向かった四つの分隊も、途中で二手に分かれ別々の方角へと進んでいた。
頬に傷のある老兵たちの隊列は、ほどなくして上下へと続くらせん階段を見つけ、上と下とへ分かれた。老兵の隊は下だ。今は六人の仲間と暗い通路を進んでいる。また曲がり角に出た。行く手を確認しつつ、分隊長がつぶやく。
「この城は変だな。通路ばかりで部屋がない。なんでこんな造りになっているんだ?」
それは皆も疑問だった。迷路のようにして敵を分断するとしても、ここまで複雑では城内にいる自分たち自身が迷ってしまう。しかも通路ばかりで部屋らしい部屋にも行きあたらない。みな蟻の巣にでも迷い込んだかのようで、奥へと進めば進むほど元来た場所、住み慣れた世界には二度と帰れなくなるような、そんな心持ちになっていった。
その時、ようやく通路の先に扉が見えた。広間を出てから初めての扉だ。鍵はかかっていない。全員が身構えると分隊長が一気に開ける。だが中からの攻撃はなく、皆はゆっくりと室内に入った。
そこそこの広さの部屋だった。石造りの大きな据え付け卓があり、上に燭台が残っている。古いが蝋燭も立っていた。敵がいないことを確認すると、蝋燭に火を灯す。壁に点在する燭台にも灯すと、室内が見渡せる程に明るくなった。蝋燭と松明に照らされた兵士たちの影が、壁に大きく揺らいでいる。
あの息苦しい通路から解放され、一同はほっと一息ついた。
改めて内部を確認する。調度品は、古い棚一つを除いてまったくない。壁は築城の際の石肌がむき出しで、見るからに寒々としている。フェルゾムたちは普段こんなところで暮らしていたのだろうか。
「隊長、扉があります」
歩兵の声に全員が振り返る。部屋の奥に扉があり、開けると下へ降りる階段があった。
「よし、調べよう。三人はここに残れ。何かあれば繋ぎをつける」
老兵と手槍を持った突撃兵二人が残り、分隊長ら四人が階段を降りて行く。残った三人は、彼らの姿が暗闇に消え、足音が聞こえなくなるまで戸口を覗き込んでいた。
やがて何も聞こえなくなると、入ってきた扉と仲間の降りて行った戸口を交互に見やりながら、動きを待つ。
しばらく無言のままだったが、おもむろに一人が老兵に話しかけた。
「なぁ、あんたが夕べ言っていたフェルゾムの話だが……」
老兵が目を向ける。あの話を近くで聞いていたらしい。
「あんたの家族は気の毒だった。だが、あんたをそのままにしたってのは、どういうことなんだろう」
老兵は黙っていた。
「フェルゾムは悪鬼だの魔物だのと言われるが、あんたに情けをかけて見逃したのは、奴らにもそれぞれの考えや思いがあるってことなのか?」
「俺は、あいつらもただの兵士だと思うよ」
もう一人の兵士が口を挟む。老兵がそちらを向く。
「誰だって、いざとなれば平民を殺す時がある。敵なら仕方ない。気を抜けばいつ殺られるか分からないしな。上から禁令が出なければ、城内のものは勝った俺たちのものだ。どうしようが罪に問われることはない」
そこで間を置いたが、最後に一言付け加えた。
「……俺だって、平民を殺したことはある」
翳りを含んだ言葉に、先に口を開いた兵が取りなすように言う。
「確かにそうだが、それならフェルゾムはなぜすべての人間に恨まれる?」
「そりゃ、ヴェナードの奴らの策略だよ。いずれにせよフェルゾムが強いことは確かだ。そこに悪鬼だの魔物だのと風評を立てれば、見たことのない奴らは恐れて立ち向かえなくなる……周りが恐れれば恐れるほど、戦略的には有利だ」
そこまで言ったが、老兵が自分を見る目つきに異論の陰を察し、取って付けたように言った。
「確かに恐ろしい相手さ。ただ俺が言いたいのは、ここまで来てあいつらが誰で、何を考えてるかなんて言い合っても仕方ないってことだ。奴らは敵なんだ。戦って勝たなきゃならない。余計なことは考ないことだ」
「奴は、俺に時をくれたのかも知れん」
老兵が、目を自分の前の石畳に戻す。
「どういう意味だ?」
先に問いかけた兵士が聞き返す。蝋燭の炎の中で、老兵の顔が今までより年を取ったように見えた。
「俺もずっと考えてきた。なぜ俺だけが見逃されたのか……奴はもしかしたら俺を待っているのかも知れん。目の前ですべてを失った男が、いつか自分を倒しに来るのを。そしてどこまで強くなったのか、それを見せろと言っているような気がする」
二人の兵士が黙り込む。老兵もそれ以上語ろうとはしない。蝋燭の芯が燃える小さな音だけが、部屋の中を支配している。
突然、音が聞こえた。瞬時に三人が身構える。遠くで鉄と石とが打ち合ったような音だ。仲間が降りて行った戸口に詰め寄る。燭台で照らしてみたが、灯りが小さく奥まで見通せない。
しばし思案していたが、三人は降りていくことに決めた。先頭の突撃兵が燭台を持ち、二人目がその脇から手槍を突き出す。最後に老兵が弓に矢をつがえたまま続く。真っ暗な石段を、ほとんど足元だけを照らすようにしながら三人は降りて行った。
階段は二十段ほどで終わり、そこからまた狭い通路が続いている。松明よりもずっと小さな灯りはほとんど届かず、目と鼻の先にフェルゾムがいても分からない。いまこの時にも、襲ってくるかもしれない。
三人はいつ何に出会うかもしれない中を、一歩一歩進んでいった。
――――――――――――――――――――
通路は突き当たると右手に折れ、やがて左手に扉が見えた。しめし合わせると、先頭の突撃兵がかがみこみながら扉を開ける。老兵が手弓で中を狙う。だが部屋には誰もいない。先へ進むとまた扉があったが、そこにも誰もいなかった。彼らはその先の突き当りにある三つ目の扉を開けた。そしてあっと驚いた。
その部屋には蝋燭と松明がこうこうと燃え、室内を照らしていた。
変わった造りの部屋だった。ほぼ円形で周囲にぐるりと無数の小部屋があり、その小部屋のすべてが入り口を鉄格子でふさがれている。牢獄のようだが、こんな手の込んだものは見たことがない。通常の城の牢なら地下の穴倉で十分だ。囚人は鎖でつないでおけば逃げ出せない。何のためにこんな独居房のようなものをつくったのか。
そして、その部屋の床に、明らかに今流れたばかりの血だまりがあった。その血だまりから、何かを引きずったような赤い帯が部屋の奥へと続いている。
三人はその血をたどりながら進んだ。行く先に、真っ暗な入り口がぽっかりと開いている。扉はない。血の帯は奥の闇へと続いている。
燭台を持った兵士が明かりを差し出し一歩踏み込んだその時、ずしんと肚の底まで響く鈍い音と共に、兵士の身体が小刻みに震えた。両腕が垂れ、燭台と手槍が堕ちる。火のついた蝋燭が床を転がり、身体がそのまま押されるように戻ってくる。
その顔面に、長大な戦斧のきっさきが深々とめり込んでいた。
二人の兵士が思わず左右へ飛びしさる。戦斧の柄を、赤く染まった甲冑の腕が握っている。死んだ兵士を突き刺したまま、ゆっくりと暗がりから出てきた腕の先には、血まみれの巨漢の姿があった。
老兵がすかさず騎士を射た。眼の前だ。避けられるはずがない。だが、即座に戦斧に突き刺さったままの兵士が盾とされ、その背に矢が突き立つ。空いた背目掛けて突撃兵が手槍を繰り出した。騎士が背後にも眼があるかのようにかわし、大きな手で柄を掴む。万力で締め付けられたように、槍はびくとも動かなくなった。尋常な力ではない。兵士の額にどっと汗が噴き出す。
その兵士を騎士が槍ごと振り払う。老兵めがけて吹っ飛び、もつれるように倒れた二人を大斧が襲う。一撃で突撃兵の胴が両断され、飛び散る血しぶきと臓物の中を、老兵は転がって逃げた。
素早く矢をつがえ、狙いも定めずに射る。矢が騎士の脇腹をかすめ、そのまま背後の壁に突き立つ。逃げながら次の矢をつがえた老兵に、騎士が掴んでいた手槍を投げつける。老兵が思わず弓で払う。だが穂先にあたって弦が切れ、はずみでつがえた矢が自らの腿に突き立った。呻き声をあげ倒れ込む。背後の鉄格子に身体を打ち付けた。痛みをこらえて起き上がり腰の剣に手をかけた彼を、騎士が静かに見据えていた。
老兵は今改めて見た。その騎士の冑を。太く曲がった二本の角。そして左の肩甲にある赤く滲んだ手形を。アスリーの血でつけたあの手形。これだけの年月を経て、なおあの時と同じ鮮やかな赤色のまま変わらないアスリーの血。
あの騎士だ。まちがいない。
騎士は老兵を見ていた。老兵も騎士を見ていた。あの時と光景が重なる。今まさに目の前でアスリーを、そして家族全員を殺され、自分は何もできずにただくずおれ泣いていたあの時に戻った。そのまま長い長い時が過ぎたようにも、本の一瞬のようにも思える奇妙な感覚だった。どこか遠くで、たった一つの感触だけがしきりに何かを訴えかけているような、そんな気がした。
あれはなんだったろう。老兵は、暗闇の中から浮かび上がってくるその感触を思い出そうとした。だんだんとだんだんと、その感触に近づいていく。家族を失ってから、その代わりにずっと自分のそばにいた何か。それがなければ、今まで生きてこられなかった何か。それだけを頼りにここまで来た何か。やがてその感触が記憶とぴたりと重なった。
それは、手の中にある剣の柄。それを握る自分の手。手につながった腕。この身体。そして心。老兵は今この時へと帰ってきた。再び、自分の眼で騎士を見る。痛みをこらえ歯を食いしばる。
次の瞬間、剣を抜くと猛然と騎士に切りかかった。
老兵の剣を、騎士はそのまま大斧で受けた。鉄柱でも叩いたかのような衝撃が腕に走る。
凄まじい力だ。人間とは思えない。
胴をめがけて薙ぎ払う。今度も斧に防がれ手がしびれた。両手で振り被り打ち下ろす。かわされた、斬られる。夢中で剣を振り回し、脚の痛みをこらえながら身をよじって逃げた。だが斧は襲ってこない。振り返ると、騎士はそのまま部屋の中央に佇んでいた。
息を切らしながら叫ぶ。
「俺は、お前を殺す!」
騎士は微動だにしない。老兵は剣を構えなおすと、絞り出すように言った。
「おれは……おまえを、殺す」
もう一度斬りかかる。今度は騎士は受けずによけた。それで十分だった。続けざまに剣を振り、息もつかずに斬りかかる。だが悉くよけられた。片足を引きずりながら、延々と繰り返す。
騎士はただよけるだけだった。老兵の息が上がってくる。腿からの出血もひどかった。鉄格子に打ち付けた背中が痛む。肩で息をしながら剣を振り、とうとう足がもつれて無様に転ぶ。剣を頼りに身を起こしたが、傷を負った脚ではもう立てなかった。騎士を目の前にして壁際にへたり込む。出血で頭も朦朧としている。剣の柄が手からこぼれる。もう掴む気力もない。
老兵は悟った。
俺はこいつを殺せない。いや、そんなことは初めて出会った時からわかっていたことなのだ。例え何百年かかろうとも、俺はこいつに敵わない。己の無力さを思い知った。所詮、俺と家族の望んだささやかな一生なぞ、こいつらから、いやこいつらも含めたこの永い永い時の中では、取るに足らないものなのだと悟った。
哀しかった。哀しいのに、なぜか出てくるのは笑い声だった。
老兵は可笑しさをこらえきれずに笑った。その眼の中にアスリーの顔が浮かんだ。家族の顔も浮かんだ。みんな笑っていた。老兵も笑いながら、目から涙があふれ続けた。
その涙の中で、松明に照らされた部屋がゆがんだ。騎士の姿もゆがんだ。
そのゆがんだ騎士がゆっくりと斧を構え、一撃で自分の首を刎ねたとき、老兵は奇妙に心が休まるのを覚えた。
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