「夏美!!おい、しっかりしろ!おい、夏美!おい!!!」
ごふっ、がぶっ、ぶへっ。止まらない咳に、私は何度も地面を叩きつけて、顔中からクジラのように水を吐き出していた。一体何が起こったのか、知る由もなかった。けれど、それは私の身体がよく知っていた。
からだが痺れてる。動けない。体の先っぽが、異常に冷たい。早く切り離してほしいくらい、液体窒素が詰まってるくらいに寒かった。光が眩しい。なのに、瞬き一つできない。目が乾いて、痛い。全身から肉が消え失せて、液体になってるようだった。
必死の形相で、私に怒鳴る男の人。修羅の如く、私に何かを言ってる。何を言ってるんだろう。聞こえない。でも、きっと怒られてる。叱られてる。いつも疲れていて、うんざりするぐらい、聞き慣れた声。そんな声が、こんなにもデシベルをあげている。誰だかなんて分かっている。こんな所まで、追ってきたから。
ようやく分かった。理解した。
死ねなかった事に。
歯をがちがちさせて、私は目の焦点も合わないまま、夕暮れの憎たらしい空を見つめた。残酷だ。この世界は。私の夢一つさえも、塵となって、いとも簡単に吹き飛ばしてしまうのだから。残酷だ。残酷すぎる。それ以上でもそれ以下でもない言葉だけが、私を支配した。
助かった。助かってしまった。頼んでもないのに。泣きたかった。私のために。私のための涙を零してやりたかった。でも、そんな泣き方さえ私の体は忘れていた。ぷるぷると、口が動く。私の怨恨を、伝えたがる。私は、ぼろぼろになった体の奥から、あ、あ、と、力を振り絞った。
「わ…わだ…わ、わだ、じ…」
声が出た。薄れてる意識の中で、必死に。
「わだじ…私…死ねだ…のに。なんで…ようやぐ…終わっだ…の…に。二度…と…代わりに…なら…なぐて、済んだ…の、に…」
かふ、こふ。伝えるべき言葉を、出せない。脳が働かない。途切れ途切れになってしまう。私はいつだって中途半端だ。自分の身体にさえ邪魔をされる。うつろな眼差しで、私は精一杯の声を出した。絶望以外の何ものでもない、掠れた呻き声で。精一杯の恨みと懇願を込めながら。この世界に生まれた事を、この世界に生を受けた事に、この世界で生きる苦しさに、心の奥の底からの声を振り絞って、
「もう…ゆるじで…」
男の人の目が見開いた。すごい勢いで、男の人が私の手を引っ張って、体の自由もないのに無理やり起こした。そのまま川に投げられるかと思った。私は、されるがままに、そのまま前のめりに倒れ、
ぎゅっ。
心臓に近い、胴体にしか感覚が残っていなかった。手足は依然感覚がなかった。それなのに、そんな状態の私なのに。体に大きく、苦しい感覚が締め付けてきた。何が起きているのか分からなかった。固いゴツゴツした手で、ギュウっと、茉莉ちゃんとはまた違う感触で、必死に離さないように、逃げられないように。
お父さんが歯を食いしばって、唇から血を流していた。お母さんの棺桶を抱きしめたように、私を泣きながら抱きしめていた。
「すまない。すまない。夏美。お前の苦しさの、何も知らないで。お前は、母さんを殺してなんかいない。そうじゃない。夏美。本当に人を殺していたのは、父さんと母さんだ。夏美」
お父さんの顔を見れない。抱きしめられてて、後ろ向けないから。体動かないし。
「こんないい加減な父親ですまない。こんな罪な大人ですまない。こんな、こんな…こんな家族を選ばせてしまって、すまない」
耳の感覚が、ぼやけた音しか聞き取れない耳が…ようやく、聴こえてくる。風だとか川の音はまだ聞き取れない。けれど…お父さんの声だけは聞き取れた。耳元だから。
「お前に優しくなれ、なんて母さんと一緒に言ってしまった。我慢をさせてしまった。お前は、子供だったのに。親の影響を与えてはいけない存在だったのに」
お父さんがペラペラと喋る。私は、何とか口を動かす。
「違ゔ…私のぜいで…お母ざんは」
ギュウと、思いっきり締め付けられた。その言葉を言わせまいと、肺の水が外に出るくらい、骨が折れるくらい。
「お前まで…お…お前まで喪う、所だった!!お前まで!かけがえのない、私の唯一の娘を!私のせいで!」
初めて私に向ける、私のために向ける、お父さんのぐしゃぐしゃな泣き顔。よく見ると、ヒゲは何日も剃ってない。じょりじょりした感触だった。
「無事で…無事で…本当に、本当に、本当に良かった…」
お父さんの背が、とても小さく見えた。膝をついているから、とかじゃなかった。こんなにも近くに、こんなにも同じ位置に、お父さんがいた。
「違う…私は、お母さんを殺した…」
「お前を!私達は12年も殺していたんだ!両親が正しいなんて、親が正しいなんて、思うんじゃない!!自分を責めるんじゃない!自分を赦せ、夏美!!」
茉莉ちゃんに初めてビンタされた日。自分を大切にしなさいよ。本来なら、そんな事言ってもらえるのは喜ばしい事なのに。それでも胸には全く響かなかった。
自分を赦してやる。
それが、私が一番言って欲しかった…探し続けた言葉だったんだ。長い長い旅路で、彷徨い続けながら…暗闇の中を永遠に探していた言葉。その一言が、父親からの一言が、とうとう、ようやく、私の琴線に触れた。
あぁ理解した。お父さんが来る日も来る日も頭を抱えていて、会社で嫌な事があったんだと、隙間から眺めていた。ご飯を食べた後も、片付けとくから部屋に戻りなさいって言って、ずうっと食器を見つめていた。その理由が、私にあった事。
「お父さん…」
「喋るな。喋らなくていい。お前は優しい子なんだ。何を言うかなんて分かってる。だから、聞くだけでいい。お前が母さんを殺したというのなら、私達だってそうなんだ。お前を、生きたまま殺していた。1番残酷な事だ」
じわ。じわぁ。
私の視界がなんだかぼやけて、家族に対しての、生あったかい涙が溢れた。お母さんが死んだ時以来、決して家族に見せなかった涙。お父さんは私を胸に押し込めた。むぐっ、て、私は何も喋れなくなって、もがいたけど、それでもお父さんは全く手を緩めてくれなかった。力を込めるお父さん。茉莉ちゃんより強い。
「すまない。すまない。本当に、すまない。茉莉さん家がいいと言うのなら、私が頼んでどうにでもしよう」
なに…を?
私は意識の戻ってきた頭で、考えた。
「時間がいるが、夏美、お前を養子に。そのお金はいくらでも工面しよう。それが、せめてもの罪滅ぼしだ。夏美に出来る、贈り物だ。お前が望むなら、私は死んでもやり遂げる。お前の失われた12年を、奪ってしまった12年を取り戻せるなら」
「そ…そこまでじゃ…」
私はくすり、と、お父さんの背中で笑った。お父さんは、まだ泣いていた。大の大人が、みっともなく。私は、お父さんを初めて知った。お父さんは、こんなにも家族の事を想ってくれてる人だった。娘を大切にするあまり、娘の心情を探そうとするばかり、異常に気を遣ってくれていただけだった。
それを私は、私に対する嫌悪だと、勝手に思っていた。どうしようもないバカ娘だ。私は何年も家族を疑っていた。お父さんの背中を、ぎゅっと、抱き返した。うれしかった。だって、家族の事、ようやく分かったの。私は、また鼻を啜って泣いていた。色んな人に泣かされて。すっかり涙腺が弱くなってしまっていた。
まだ、感覚が戻らない手足。泣いて疲れた。お父さんが、時折ずり落ちそうになった私を背負い直してくれた。綺麗で、川底まで透き通って輝く時津川。夕日の眩しい時津川。私にいつも関わってくれる時津川。いつも見る、嫌な夢。あの夢の中で見ていた川。泥だらけの顔で、いつも泣いて歩いていたあの川…
ここだったんだね。
「ごめんなさい…お父さん。私、許されない事を…言ってはいけない事を」
「言うな。そう言われると、父さんは負い目しか感じないんだ。まだ娘が気にしてると思うだけで」
お父さんは、優しい声で囁いた。
「もう一度言う。何度だって言う。夏美。お前は、好きにすればいい。わがままにすればいい。しっかり、この家族をやめるという事も考えるんだ」
お父さんの髪の毛。油汗で、少し臭かった。ゴワゴワしてて、顔が当たるたびにちくちくして痛かった。
「母さんは、よく、お前を何よりの宝だと言っていた。そしてお前は生きている。母さんの、最高の喜びだ」
「うん…」
「死んだら、いつでも母さんには会えるんだ。その時、確認でもすればいい。私の、父さんの言ってた事は本当だったと、思うだけだがな。だから夏美、今は自分を生きるんだ。思うままにしなさい」
やっぱりこの人なんだ。私のお父さんは。私はうるっとした目を、どうにか堪えた。この場面で泣くのは、お父さんに失礼だったからだ。
「そんな…お父さん、違うよ。私が勝手に、だよ。だから大丈夫だよ、おとーさん」
「聞きなさい。お前の頭の中の母さんは、妄想なんだ。幻なんだ。そして、その幻は私が作ってしまったんだ。もういい。夏美。お前に決して罪はない。死んでもそう言える。だから…今は、ゆっくり…寝なさい」
視界がだんだん、暗くなってゆく。揺さぶられて、疲れて、とっても瞼が重くなる。いつの頃か忘れていた、お父さんの背中。
こんなに近くにあった。私…お母さんを追うあまり、失わなくてもいい所まで、自分で失っていたんだ。見えてなかったんだ。
私…本当に、バカ。
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