「あいつら、高い葉っぱの周りをぶんぶん飛んでるから、なかなか捕まえられないんだ。けど、たまにこのぐらいの高さの教室に入って来たことが何回かあってさ」
教室が放課後閉まってるのは当たり前。先生が最後、日誌を持って誰もいない事を確認して、先生専用の鍵で教室を閉めた後、職員室に戻っていく。
廊下側の下の引き戸って、みんなサンを掃除する時に鍵を外すんだけど、その後鍵をかけ忘れるんだよね。帰りの会で、先生がチェックしてって言うんだけど、おしゃべりに夢中な女の子達は上の空。はぁいって返事だけして、机の下に屈む動作すらしないから、大抵開いてる。
トモヒコ君はごちごち膝の皿を当てながら四つん這いになって教室に入っていった。トモヒコ君がドアの鍵を開けてくれる間、私はふと、誰もいない隣の教室…マツリちゃんと喧嘩した机が目に入った。
「…ねぇ、トモヒコくん。マツリちゃんって、どういう人なの」
「んー?おいらはあまり好きじゃないよ。キーキーうるさいし。でも、昔はあんなんじゃなかったよ」
廊下に誰もいない事を確認して、私が入った後にドアをガラガラと閉めるトモヒコ君。
「あんなんじゃなかった?」
「んー、カナがいなく…あっ」
「カナ?」
「あ、えっと、んー、いつからか、ものすごく攻撃的になったし、あんま人と関わってるの見なくなったな」
「ふぅん。昔は違ったんだ」
お茶を濁された事は気付いたけど、トモヒコくんがあまりその先を話したがらなかった。それに私もふと思っただけだったから、そのまま話を切り上げた。
初めて入った放課後の教室。色んな匂いが混ざってた6時間目と違って、埃臭さが鼻につく。トモヒコくんがガラッと窓を開けた。すーっと、たいして涼しくない風が私の髪を撫でる。トモヒコ君は窓から身を乗り出した。
「なぁ、そういえば夏美ィは何してたんだ?」
「え?私?あー、ほら、覚えてる?1週間前の…放課後、ゆうやけ隊の話。これこれ」
「あー!忘れてた!ニワトリを探せ…か。んー、これ、なぞなぞか何かか?ここら辺じゃ、ニワトリなんてこの学校くらいにしか居ないけど」
「だよねぇ。やっぱり、誰かのイタズラだったのかな、これ。そもそも、いつのものかもわからないし、この町の事じゃないかもしれないし。そのニワトリが今生きてる訳ないか。多分死んじゃってるよね」
ま、そんなだよね、って、その紙切れをくしゃっと丸めてゴミ箱に捨てようとした時だった。それまで明るかったトモヒコくん声のトーンがほんのちょっぴりだけ、下がったような気がした。
「死んじゃっても、んー、えっと、それが完全になくなるって事は無いと思う。きっとどこかに、何か残されてる。残されてなきゃ、だめだ」
少し立ち止まって、つい、トモヒコくんを振り返ってしまった。どこかくたびれたような小さな背中。虫を探しているようで、もっと遠くの空を眺めているだけの目。
そんな打って変わったようなトモヒコくんに言われて、私は黙った。でも、トモヒコくんは気にしてなさそうに、夏美ィも来いよ、って明るく言ってくれた。
それで、私も窓に腰掛けようとした時だった。スライドさせた窓のレールの先。てかてか銀色が照り返すレールの上に、まばゆい、金色の折り紙より欲しくなってしまいそうな、虹色の夢の宝石。初めてステンドグラスを見た時と同じ。
もしもこれが、生き物じゃなくてこんな形の宝石だったら…絶対に動かない無機物だったら。大切に手ですくって、ツバメの雛を置くように、丁寧に宝箱に入れてしまうかもしれない。
「たっ…たっ…と、トモヒコくん…」
最初のたっ、で、小声にして、右手はぴんと指差しで、左手は内緒話のように口に添えて。トモヒコ君が口を開けるよりも早く、わたしは左手を「しーっ」の形にした。呼吸を止めたトモヒコくんが、私の視線の先を追う。
エメラルドにたっぷりのルビーやサファイアを乗っけて。絢爛豪華、7色は無いけど、面妖な背中は人をそう錯覚させ、重宝させるために違いない。本物のタマムシ。歴史の教科書で見て、次のページにいったのに何度もページを戻した。羽だけしか載ってなかったから、全体像ってどうなってるのかなって思って。
のっそり歩くわけでもないし、飛ぶ気配も無い。どこを見てるのか全く想像もつかない黒い真珠には、果たしてこれから捕まえられるという危機はあるのだろうか。そんな事を心配してしまうくらいだった。
なつみぃ、なつみぃ、とって、とって。
トモヒコくんが玉虫を指差して、ぴょんぴょん今にも跳ねそうに、私に必死にアピールしてきた。私はもちろん眉を八の字にして、いやいやいやって脳をこれでもかってぐらい揺らしていた。するとトモヒコくんが、音を立てないように窓からそろりそろりと近付いてきた。
ごくりって、その音が教室中に響きそうなくらいに、息を飲み込んだ。カァカァ。カラスが確か鳴いてたような気がする。私が捕まえる訳じゃないのに、心臓がエンジンみたいに加速していくのがわかった。
風が空気を読んでくれて、止まった。トモヒコくんは網を使う事も忘れていた。両手を面積がなるべく大きくなるように重ねて、あと一歩まで近付いた。玉虫がようやく警戒をし始めて、トモヒコくんにぎんぎらぎんに輝くおしりを向ける。トモヒコくんはその瞬間、ガバッと身を投げた。
「とっ…あ、あー!」
ハエの複眼は、人の動きがスローモーションに見えてるらしい。そしたら、玉虫もそうなのかな。一緒に私もガッツポーズを取ってしまうくらいのタイミングだったのに。
玉虫は、それをギリギリでかわす遊びを楽しんでるように、いともたやすくトモヒコ君の両手をかわしてしまった。ぶーん。音を立てて飛んでいってしまう。
もう12で、来年は中学生になるのに。リーダーワッペンを付けてる事なんか気にもせずに、トモヒコくんは、わかりやすく地団駄を踏んで、ゲームに負けた子供みたいに悔しそうな顔をしていた。すぐにキッとした顔を私に向けて、
「夏美!逃げた!追うぞ!」
トモヒコ君が勢いよく窓に立ったかと思うと、窓の外のでっぱりについてるパイプに手をかけて、足をふわっと、なんの躊躇もなく宙に投げた。
目玉が遠くの地平線まで飛んでいくかと思った。スローモーションの入る余地のない、思い切りすぎた一瞬。私はその一連の動作に度肝を抜かれた。
「えっ、ちょっと!」
トモヒコくんはジャンプの反動を利用して、もう片方の手もパイプにつけて、そのまま下へとスーッと降りて行く。仰天する私に目もくれず、四肢を地面にばんとつけると、猛獣のように玉虫の逃げた方向へと駆けていった。
「なんだ今のは!誰かいるのか!」
と、下の方で大人の怒鳴り声が響いた。まずい。しかも、さっきの…プールの時の、あのおじちゃん先生!!
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