「いいか?夏美、ボールをよく見るんだ!ここだ!この中心を見てろ!最初から出来ないとか抜かすんじゃねえ!!」
「む、無理だよアキラくん。勘弁してよ、もう腕、痛いよ」
「甘えんな!夏美!俺はお前のその態度が気に入らねえんだ!その根性直るまでやるぞ!!」
言い方はすっごく失礼なんだけど、まさに野球バカという言葉がしっくりくるくらい…目を閉じればそこに野球部の顧問がいるんじゃないかってぐらいの熱血漢がアキラくんだった。
どうしてこうなったかって?本格的に放課後夕焼け隊をやろう、って皆で話した後に。予想以上にあの3番目の手紙が難しかったから、気分転換でもしながら考えようって事になったんだ。それで、アキラくんが野球でもやろうぜっていうから。ちょっとお遊び気分でやったんだけど。まさかアキラくんがこんなに熱血漢だったなんて…全く冗談じゃないよ。
「はぁ、バカ夏美。だから明と遊ぶの嫌だったのよ。もー」
「だ、だってぇ」
「こらー!夏美!聞いてんのか!」
そう口を尖らせて、キャッチャーのマツリちゃんが大きなため息をついてしゃがみ込む。遠くの外野で待ってる友彦くん達はすでに飽きちゃってて、カブトムシなんか空に投げて遊んでいた。
「いいか?夏美、確かにボールは怖えよ。当たったら痛い。だから目を瞑ってがむしゃらにバット振っちまう」
アキラ君が私の肩を掴む。
「でも、それで済まそうとすんじゃねえ!しっかり球が来たら当てるんだ!当てられる自信がなかったら、一回でも二回でも見送れ!大事なのはバットを当てようとする心意気だ!!初めから逃げるんじゃねえ!男は絶対逃げねぇ!」
「わ、私女子なんだけど…」
「うるせー!それなら、俺の母ちゃんの方がつええぞ!言い訳をするんじゃねえ!進めねぇぞ!」
カラン。瞬間、世界がワープして戻ったような気がした。何故か無表情で黙って、バットの先端を地面にざりりと着けてしまった。どうしてか分からない。さっきまで、楽しくはなかったけど、元気にやっていたのに。周りの視線が変わる前に私はハッと我に返って、あはは、ごめんって仕切り直した。
アキラ君の表情がニカッと明るくなる。私は何とも言えない表情で、爪が食い込むくらいにバットを握りしめる。マツリちゃんが、そんな私を探るように見ていた。私はマツリちゃんの方をあえて見ないで、腕まくりして痛い手を持ち上げた。
ピン、ポーン。
きっと面倒な訪問販売だとか、どうせ私が出て行っても父が不在で、って終わらせる会話になるだろうから、私は狸寝入りを続けたままだった。
げほげほ咳をして、布団をギュウッと被る。向こうにいた時と違って、たくさんはしゃぎすぎてた。私の気持ちに追いついてこれなかった体。とうとう悲鳴をあげてギブアップしてしまった。アキラくんの猛特訓の次の日の朝起きたら、37.5℃。夏だよ?改めて数字を見ると、クラッとしてしまう。
心配してくれたお父さんが会社を休もうとしてくれたけど、なんとかお父さんを言いくるめる事が出来た。私は学生、お父さんは社会人だもの。責任の大きさが違う。お父さんは行かなきゃいけないんだ。
ピンポン。ピンポン。ピピピポポポーン。
あぁ、もう、うるさいなぁ!
あんまりにもうるさかったから、私はダルすぎる体を起こして、途中くらっとしながら、玄関へと足を伸ばした。途中、パジャマがはだけてる事に気づいて良かった。ボタンをしっかり留めて、玄関を開けた。
ガチャ。逆光が眩しくて、しばらく暗い部屋にいた私はついギュッと目をつぶって怯んでしまった。何度か下を向いてまばたきしながら、目線を前に向けた。何やら見覚えのあるシルエット達がそこにいた。
「おぅ、大丈夫かぁ夏美」
「夏美、きたよー」
「へぇ、ズル休みじゃないんだ」
びっくりした。というかそっか、欠席した人には家を知ってる人が予定帳とか届けるんだった。アキラくん、ミドリちゃん、マツリちゃん。全然お見舞いって感じじゃない笑顔で、私の家に来てくれた。
「わぁ、みんな…マツリちゃんは来なくても…う、ゲホッ」
この時期の咳は本当にタチが悪い。ゲホゲホいつまでも止まらなくて、海老反りでベッドをボフンボフン揺らすんだもの。私は鼻水を啜って、ずれたマスクをしっかり鼻につけた。
「ふん、病人になると嫌味も返せないのね。可愛いじゃん。いい気味」
「ほーらバカマツリ。だからあんたと来るの嫌だったの。風邪引いてる人になんてこというの。夏美大丈夫?今日ね、みんなで折り紙折ったの。ほら、これ…と」
「うぉー!悪かったぜ夏美。でも、俺の少ねぇ小遣いも出したんだぞぉ。ちゃんと俺の時は来いよな。だっしゃっしゃ」
得意そうに満面の笑みで目配せして、アキラくんとミドリちゃんは後ろに組んでた手を前に差し出した。折り紙の入った予定帳入れと、ビニールの手さげの袋。
「あーっ!ドーナツ!え、いいの、これ?」
「夏美の為に夕焼け隊で出したの!もちろん、友彦もカイソータも、マツ…皆、出してくれたよ。これ食べて良くなって、早く学校来てよ!」
「待ってるぜぇ、夏美!大丈夫か?ネギを首に巻いてミカン食うと治るってオヤジが言ってたぜ!」
「バカ、あんたじゃあるまいし。とにかく、感謝しなさいよね。…って、あんた、大丈夫?」
じわぁってきて、つい顔がほころんだ時だった。また頭がくらぁっとして、玄関のドアに手をついてしまった。反射的にミドリちゃんが、私の体を支えてくれる。こんな現実、信じられなかった。漫画じゃあるまいし。こんな経験、向こうじゃ味わえなかった。私みたいなつまんない、休んだ人間のために…
私のために、こんな事…
「ご、ごめんね夏美。体調悪いのに…ほら明、えと…茉莉はそっちでしょ、家。私達は帰るよ!じゃあ、また学校でね、夏美」
「お、おう。しっかり治せよ!じゃあな夏美!」
ミドリちゃんとアキラくんはそのままバイバイってして、夕日に向かって帰っていった。マツリちゃんはそれを見届けた後いきなり腰を屈めたものだから、アッパーでもかけられるのかと私は身構えた。
「バカ。手、貸しなさいよ」
って言って、びっくり。私の体を支えて一階のベッドまで運んでくれた。ゲホゲホする私の頭の上に、雑に縛られたビニール袋の氷が置かれる。かなり冷たくて水が垂れてきた。マツリちゃんは急いでタオルを敷いてくれた。
「大人しくしてなさいよ。全く」
本当に意外だった。こんな意地の悪い子で、ちょっかいばっか出して、嫌味ばっか言って、いつも喧嘩腰なおてんばなのに。予定帳を見ながら、マツリちゃんは私のランドセルに明日の荷物を詰めてくれていた。ランドセルがギチって音を立てるくらいに何にも考えないで荷物を入れるんだもの。
お箸をそんなところに突っ込まないで、とか、私と違って色々雑だったから指摘したかったけど、真剣に手を動かしてるマツリちゃんを見て、風邪も悪くないかもって再び天井を見つめていた。そんな時だった。マツリちゃんが、唐突に…静かに口を開くものだったから。びっくりした。
「…あたしの事、嫌?お節介?鬱陶しい?」
いつまでも天井を眺めていたら、いつのまにかマツリちゃんが私のベッドの縁に座っていた。背を向けて、ミサンガの腕に力が入って、ベッドがくちゃっとしていた。とっても意外な言葉。少し笑って、私は目だけをマツリちゃんの方にやって、それでもう一回視線を天井に戻して。
「鬱陶しくなんかないよ。向こうにいた時より…ずっと楽しいんだ。みんなもそうだけど、マツリちゃんのおかげで、元気になれてる気がする」
「…そっか。そうなんだ」
でも、マツリちゃんが聞きたいのはそれじゃないって私は気づいていた。だって、この前から薄々気付かれてたのと、部屋中をキョロキョロ見回していたから。この後に出てくる話を予想できていた。だから、天に向かって口を開けた。
「…働いてるのはお父さんだけ」
「うっ。そ、そう…」
予想通り。ちょっと動揺するマツリちゃん。
「…じゃ、じゃあ、娘のあんたが寝込んでるっていう時に、あんたのお母さんは何やってるの」
「別に。どうだっていいよ」
「どうだってって…」
言い終わる前に。
「わぁ、これ、あのもちもちのやつ!!これ、食べてみたかったんだ。ありがと、マツリちゃん。友彦くん達にも、よろしくね」
体を起こして、ドーナツの箱を開けて、会話を終わらせようとする。
「ねぇ、質問に答えて。あんたのお母さんは、」
せっかくお茶を濁したのに。そこまで突っ込んでくる人は初めてだったから、びっくりした。向こうにいた時だったら、この時点で察して、うわ可哀想だな、聞かない方がいいかって思ってくれたのに。もしくはほとんどはすり替えた話題に乗ってくれるのに。こんな気が強くて勘のいい子だもの、言うしかないでしょ。マツリちゃんは真剣な表情で、小学生らしくないキッとした目で問い詰めるように、私を見ていた。
まるで、オトナの目。白状しなさいって言わんばかりの、絶対服従の鋭い、鷹のような目。だから、ごく自然に。おはようって言われた時に、おはようってたとえ寝不足でも、あぁよく寝てたんだなって思われるくらい自然に。すぅっ、息の音を立てないようにして、
「いないよ。私にお母さんなんか」
ずぶぶ。ごぽぽ。知ってたけど、やっぱり失敗。海底に沈んだタイタニックのように。マツリちゃんが来る前の、あの静かに澄み渡りきった部屋のように。ベッドはすでに、凍てついた大地。夏という時間さえ忘れさせる。
だから私は、この話をどこか遠くの世界に持ってきたいのだ。こうやって、元の話、元の口調、元の間に戻すのにすごく長い時間がかかる何度目か分からない飽和のループ。なるべく気にしてなさそうに、なるべく横目を使わないで、ドーナツの箱の中をがさがさ探して、夢中になってる子供のフリをした。
子供だけど。口角を一生懸命吊り上げた。
「…ごめん」
初対面の人間に廊下でぶつかりそうになっても、嫌味しか出ないくせに。謝るどころか、人の大事な髪を引っ張って喧嘩に持ち込んでくるくせに。全然似合わない、なんて言ったら殴られそうだったから言わなかったけど、そう思うくらいに、正に「反省」っていうカンジで。
声のトーンを落として私から目を逸らした。だから嫌だったんだ、こういう雰囲気を作ることになるのは。察してくれれば未然に防げたのに。私は、マツリちゃんに聞こえるくらいに大きなため息をついて、
「いいの。みーんなそう言う。別にごめんなんかしなくてもいいのに。大丈夫だよ。あ、というか、時間大丈夫かな。もう5時になっちゃうよ」
やっちゃった。話題をずらした先が「時間」だったから。せめてもうちょっと、明日の支度したの、とかだったら良かった。マツリちゃんは、本当に勘がいいというか鋭いというか。気付いて欲しくない事に気付いてしまう直感力を持ってるみたいで、下を向いていてもマツリちゃんの目が大きくぱっちり開くのが分かった。
「あんたの…あ、あんたのあの時計って、やっぱり」
膝の上で握りしめた拳が、マツリちゃんの短パンをくしゃくしゃにする。アイロンかけるのが大変になるよって、おどけたかった。
それ以上言わないで。
そう思った。私に、私に近寄らないでって。あなたに話をしたところで、どうにもならないのだから。見えないバリアをすぐにでも張って逃げたい気分だった。
「あれ?あぁ、あれは…中古屋さんで買ったただの時計だよ、デザインが好きだから気に入っ…」
「お母さんの、なんだ」
ずどぉん、と、空が落ちてきたような気がした。ぺしゃんこにはならないから、死んだから話せないっていうのは逃げ文句にはならなかった。でもそのかわり、なんだか青と白の混ざった海の中、私達はお互いが透明になって、足に広がる水紋を真剣に凝視してる感じがした。
ミーンミンミン。岩にしみ入るっていうけど、家にしみ入るって感じたくらいに、セミの声がすべての壁をすり抜けて私たちの静寂を支配していた。それがある意味、心地よかった。その邪魔がいつまでも続いて、私達のコトバを壊してくれれば良いのにって切に願っていた。
そしたら、とうとう、マツリちゃんが天下泰平を崩してしまった。
「それをあたしは…いや、あたしのせいで」
青ざめるマツリちゃん。
「マツリちゃんのせいなんかじゃないよ。それに私、どうかしてたんだ。もういないはずの人なのに、いつまでも私は忘れられなくて」
「…はぁ?」
ちょっと笑って、自嘲気味に言ってみる。
「あはは。逆に時計が無くなったおかげで、お母さんを思い出さなくて済むよ。強くなれる」
しばらくの沈黙。笑わないマツリちゃん。
「なによ、強くなるって。あんた、産んでくれた…お母さんに、そんな、そんな冷たい事言うの?何でよ」
「…何でだと思う?」
「それが分からないから聞いてんの。教えてよ」
「死んだ人は帰って来ないから」
冷たいナイフで切り捨てるように、私は早口でそう続けた。
「いつまでもめそめそしてたら、誰が、お父さんを支えるの。我儘言ってる場合じゃないんだ。もっと大人にならなきゃ。話させないでよ。こんな事」
立ち上がって、私と面と向かうマツリちゃん。
「だからって、今のあんたを見て、あんたのお母さんとお父さんが喜ぶって思うの!?そんな事、子供のあんたにしてほしいって!?」
マツリちゃんが声を荒げるから悪いんだ。そんな、かんしゃくを起こす大人みたいに、全然女の子らしくない、目の前の異物を言いくるめようとする猛獣みたいな声を出すから。なにが分かるんだ。言う方は気楽だ。安全な場所にいるのだから。私はカチンときて、
「マツリちゃんに分かる訳ない!残された人間は残した人間の代わりにならなきゃいけない!」
スパァン。
人は全く、予想外の事が起きると事前の準備すら出来ないのだ。柔道の受け身だって、畳をみて初めて、あっそうだって気付く。何回も何回も考えたうち、やっと出た私の答えだったから、なおさらぶたれるなんて思うわけないじゃない。しかもこんなにも遠慮を知らない子供のビンタだなんて。
寝ている私のお腹あたりに足を広げて、乗っかるような感じで距離を詰めて、一瞬の出来事だった。はーっ、はーっ、と、マツリちゃんは怖い顔をより一層怖くして、他の誰とも違うその真剣な目で、私の全部を睨みつけるように、力の加減を考えない乱暴な手で私の頰を叩いたのだ。
じぃん、じぃん。
毛細血管が悲鳴をあげて、私の脳がびっくり。恐怖と怒りと呆れと…それからそれから。信号を出すのが間に合ってないらしくて、痛みを感じたのはそれから後だった気がする。
「おまえっ…おまえ、なんでか分からないけど、なんかキライだっ!!」
キライは、人を遠ざけるコトバ。言われていい気がする人なんてこの世にはいない。だから弩に弾かれたように。飛びつくようにその言葉にムキになってしまった。なんとかしてこの子に説教しなきゃ、異物を無くさなきゃっていう事だけが頭に浮かんだ。そんな誘導されたら、普段は心にしまっておく言葉を放っちゃうじゃない。
「…誰だってそうやって、前を向いて生きていけると思ったら大間違いだよ。マツリちゃんに私の何が分かるの。誰だっていつかは、自分を殺さなきゃいけないの。私は、それが早かっただけ」
「なに…大人、ぶってんのよ。なに、なによそれ!自分を殺すってどういう意味よ!」
「今は分からないよ、きっと。でもいつか分かるよ。だからマツリちゃん、自分を大切にね。それと」
目を閉じる。
「今日はもう…帰ってよ」
また、怒るマツリちゃん。
「時計は!じゃあ、なんであの時計をあんなに大事にしてたの!おまえ変だ!矛盾してるじゃない!」
「同時に憎いんだよ!お母さんが死ななかったら、私はこうはならなかったんだ!」
「おっ…おまえっ…!」
ふーっ、ふーっ、と、大地を震えさせるような息を更に加速させて、マツリちゃんはわなわな震える口を何か言いたそうに「あ」「い」「あ」「い」の形に動かして。
一回言葉をまとめようとしたのか、しばらく口を閉じて、また私をぶとうとした。私は咄嗟に、もう片方のほっぺたを守ろうと、カメラのフラッシュを防ぐような動作をした。マツリちゃんは、そんな私を見て手を引っ込めて、
ぶわっと、
「もっと自分を大切にしなさいよ!」
って。
ビーンと、部屋中に反響が広がる。マツリちゃんはまだ何か言い足りないって感じで、私の顔を睨みつけながら、そのまま玄関から出て行ってしまった。
ボーン、と、振り子時計が音を立てる。
でも。
それでも。それでも。
何にも響かなかった。顔はその人の方を向いていて、でも心はすっからかんで。
こんなにこの人は私の事を真剣に見てくれてるのに、この、この馬鹿で薄情な私は何も感じなくて、それを別に憎む気すら起きなくて。だから私は私が大嫌いで、私に誰も近付いてきてほしくなかった。もう人間としてのネジが外れてるというか、脳が溶けてしまってるんじゃないかって思うぐらい、殺してやりたいぐらい…嫌いだった。
ごめんね、ごめんね。マツリちゃん。嬉しかったよ。でももう、駄目なんだ。
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