卒業式の時だけ、みんな外側は大人になる。大人になる準備をする。奏太くんは凛としててかっこよかったけど、明くんと友彦くんがスーツ着てるのはおかしくておかしくて。全然似合ってない、って、言っちゃった。
私にとっては、全く実感のない卒業式だった。たった一年しか通ってない学校での卒業式。周りは泣いたり喜んだりしてたのに。あんまりにも実感ないから、私は本当にトカイ帰るのかなぁって。
「中学生かぁ。なんか、寂しいね」
緑ちゃんと、卒業証書の丸い筒を持ちながら、二人で記念写真を撮る。桜がひらひらと舞う。その桜吹雪にしばらくの間、心を奪われて、緑ちゃんが隣にいる事を忘れていた。桜。雪のように切なく、雨のように儚い。
そっと、手のひらで桜の花を受け止める。ここに来てから、山のようにたくさんの感情と、思い出が生まれた。初めて生きている感じがした。初めて…鎖が外れた。同時に、緑ちゃん達が、羨ましく、そして妬ましかった。私のすぐ側まで、黒い裂け目から無数の手が出てきている。緑ちゃん達は前に進むのに、私だけが取り残されてゆく。
「それでね、みんなで夏美に最後のプレゼントを用意したいんだ。夏美は何がいい?」
もうあんな生活に戻りたくない。このまま、みんなと中学校に行きたい。茉莉ちゃんと一緒に、同じ部活入って帰り道に寄り道したい。またオーショーで、今度はしっかりお金持って、色々買いたい。お父さんが悪いんだ。仕事の都合は分かる。けれど…私は都合の良い道具じゃない。何も不快に思わないロボットじゃない。
香織さんの代わりじゃない。私の事なんかちっとも考えてくれちゃいない。本当の娘なんかとっくに忘れて、私を香織さんとしか思ってない。茉莉ちゃん家の交換会で、私は勇気をもらった。苦しければ吐いていい。二人とも、私にとっても優しくしてくれた。だから私も、心の内をお父さんに話す気でいた。
でも…どこに、自分の本当の気持ちを言える子供がいるのだろう。家族がいるのだろう。人間が…いるのだろう。この世界に「素直」な人間がいるとしたら、それはジャングルに捨てられた子だ。結局、私はお父さんに何も言えなかった。結果、家族を憎んだ。運命を憎んだ。同時に…家族だからこそ憎めなかった。こんな家生まれたくなかった。こんな運命に出逢いたくなかった。
在りし日の私を…潰してやりたかった。
「おーい。夏美ってば。夏美。聞いてる?」
「えっ?あ、えと…ごめん」
「もー。そりゃ不安はあるだろうけどさ。私達だって夏美の事不安なんだし、最後は意地見せてよねっ。で!何がいい?」
「私にプレゼントなんか。もう十分すぎるほど貰ったよ、せめて…引越し中止とか、欲しいかな」
「もー。そういうのいいの。絶対用意するから。一週間後…だっけ?」
「うん。ごめんね、最後まで」
「いーの。あ!ごめん、これ。返すの忘れるとこだったー。茉莉には…じ、自分で頼んでよ。そろそろ4組もお別れ会、終わるころだし」
あまりにも、あまりにも実感なかったから。普通なら絶対忘れない、卒業アルバム。寄せ書きするからって、緑ちゃんに預けてたんだっけ。今日の朝に貰ったばっかだったのに。
「ハタチまで見ちゃダメだよ!あとは茉莉だけだからね!じゃ、一週間後!またね!」
卒業式が終わったら卒業祝いに、親と一緒にご飯食べに行ったり、ショッピングに行くのが当たり前みたい。だからみんな予定がコミコミ。もう一回会えるからって、みんなとはあっさりすぎるお別れをした。緑ちゃんが言うには、茉莉ちゃんと別にそこまで仲は悪くないけど、一度関係が壊れちゃったからギクシャクしちゃうみたい。
私は校門の前で、まだ実感の湧かない頭で、茉莉ちゃんを待っていた。
「あっ。ちょーどいいとこに。早くしてよ、寄せ書き。あたしこの後予定あんだから」
あんな乱暴で、いつもぶっきらぼうで、暇があれば喧嘩売る子だもん。そんな子が、しっかり格好だけオトナにしてて。全然似合ってないよ、って、バカにしたかったけど。首に私の買ったネックレスの紐が見えたから、私はその言葉を心にしまった。
「そーいえば、来週集まるのよね?なんか一週間後にあんたにプレゼント用意しろって言われたんだけど」
「茉莉ちゃんまで…いいよ別に、私はたくさん貰ったし」
「春生まれなのに、夏美なのね。まぁ、いつかのお返しもしたかったからいいけど。ちなみにあたしの誕生日、8月だからね」
茉莉ちゃんが私の卒業アルバムを取って、さらさらとペンを動かしてゆく。
その動作に何の違和感もなかった。
その動作には。
私の中で時間が止まった。茉莉ちゃんの言葉に、思考が停止した。凍りついた。ペンを握る指が、接着剤でくっついたように動かなかった。
もしかして。もしかして、もしかして。もしかしてもしかしてもしかしてもしかしてもしかして。
「ほら、早く書いてよ。なんでもいいから。親、待ってんのよ。はーやーく」
何故忘れていたの。何故気付かなかったの。何故伝えていなかったの。何故。ガクガク膝が震えた。足のつまさきから、黒色が波のようにじわしわと這い上がってくる。心臓に頭の信号が届く。加速する。血管が膨張する。気持ち悪くなる。
来週、帰ること、言ってない。
やってしまっただとか忘れていただとかそんな絶望じゃなかった。お母さんの時と同じ。目の前が一筋の閃光とともに、夜となった。やがてグラデーションも消え、完全に真っ暗になる感覚。
言い訳をするのなら。言い逃れをするのなら。
何人にも向こうに帰るのを伝えていて、その都度茉莉ちゃんはいなかった。茉莉ちゃんと会う時はいつも喧嘩や憎まれ口。茉莉ちゃんが心の拠り所で、茉莉ちゃんはいつも「普通」を吹き飛ばしてくれていたから。私は今まで自分を殺す事で生きていたから、思い込みが強かったから。
押し込めていたんだ、お母さんの時みたいに。茉莉ちゃんと別れる現実を。
いや、きっとどこかでは気付いていても、体は恐れていたんだ。伝えるという残酷な現実を。手が震える。冷や汗がでる。呼吸ができなくなる。茉莉ちゃんと顔を合わせられなくなる。全身から、力が抜けてゆく。
「どーしたのよ。ほら、はやくって!時間ないって言ってるでしょ!」
もう戻れない。もう時間は帰ってこない。もう遅い。もう退けない。私は茉莉ちゃんに見られないように、お札の封印を書くように、拳に爪を食いこめせ、震える指で…
ごめんね。
そう書いて、茉莉ちゃんに渡した。茉莉ちゃんは卒業アルバムを脇に抱えて、急いで走っていった。ズドンと重力に体を沈められる。へなへなと、その場に膝をつく。瞳孔が開く。その瞳孔から、何もかもが流れ落ちそうになる。頭の中の全てが、ぐちゃぐちゃに溶けてゆく。ゆっくり顔をあげると、目の前が墨のように真っ黒だった。
「あぁ夏美か。おかえり。見ての通り、今荷物をまとめている。おまえは休んでていいから、もう少し待ってくれ。そしたら、卒業祝いだ。お前の欲しいもの、買いに行こう」
無表情のまま、私は家に着いた。家に着かざるをえなかった。頭は動かない。体は動いた。不幸にも、私の足は帰り道を覚えていた。勝手に私は帰っていた。意識がじわじわと戻ってくる。封じ込めたい現実の輪郭が、はっきり見えてくる。色が分かってくる。音が分かってくる。触覚も嗅覚も、全てが私の体に戻ってくる。
「しっかり、みんなとは…茉莉くんとは、お別れ…できたか?」
この人。何か、私に向かって話してる。軽々と。
何言ってるんだ、この人。どんな顔で言っているんだ、この人。
灰色の世界に映る物体が、いつまでも答えない私の方を向いた。動きを一旦止めて、私の顔を覗いてくる。
「夏美?夏美、聞いてるか?」
ダメだ。この人は分かってくれない。分かってくれない。分かってくれない。分かってくれない。分かって…
くれない。
じわぁと泣き虫が出てきた。思いっきり噛み潰した。噛み潰して、噛み締めて、噛み締めて、噛み締めて…
「帰りたく…ない」
やつれた男の人が、こっちをようやく、何年か振りに私を見た。私が1番悲しいのに。その男の人は、眉を八の字にした。だから、私のお腹の中でたくさんの幼虫が、一気に蠢いた。
「嫌だ。帰らない。帰りたくない。私…」
今にもお腹を突き破って出てきそうだった。貯めに貯めていた。来る日も来る日も、必死に外敵から守ってた。誰にもバレないように、嬲るように育てた私の…
卵。
「お父さんは…いいよね。私っていう、都合の良い道具があって。私には、そんなものない」
「夏美…?」
止まらない。もう止められない。壊れた蛇口のように。どす黒い感情とともに、薄ら笑い。
「私が…お母さんを殺しちゃったけどさ。私が悪いんだけどさ。私みたいなクズが、いけないんだけどさ」
「夏美、それ以上言うな。私はお前を」
これだ。これだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだこれだ。
この優しさだ!!!私が1番嫌いなものは!!!
お父さんを睨んだ。思いっきり、歯を食いしばって、すぅっと、息を大きく吸い込んだ。
「その優しさが!それが迷惑なんだよ!家族のその優しさが!!憎みたくても憎めないそれが!!」
大声で続けた。間髪を入れずに。
「私のせいだよ!お母さんが死んじゃったのは!なら私の事責めれば良かったのに!殺せば良かったのに!そんな中途半端に優しくしてさ!!」
誰かが私の後ろに舞い降りた。
「嫌だったんだよ、お父さん!気付いて欲しかったんだよ!私、無理してるの!分かってほしかったんだよ!我慢我慢、我慢ばっかで!!お母さんを忘れてほしかったの!お母さんの代わりばっか演じて、毎日毎日苦痛でしかなかったんだよ!!」
後ろから誰かが、私の肩に手を置いた。
「お父さん、私の事を娘なんて思ってないんだ!私は、お母さんの代わりだって!!こんな家、こんな人殺しになんか…!」
死神が、私の耳元で囁いた。いいぞ、言ってしまえって。それを言い終わったら、殺してやるぞって。背中を押した。だから遅かった。
「生まれたくなかった!!」
ランドセルを思いっきり、そこらに散らかるダンボール目掛けて投げた。ぐしゃあっと音を立てて、空の箱が潰れる。卒業証書の筒を、バトンのように握りしめながら、足に力を込めた。私は家を飛び出した。あの時みたいな、構ってほしいという糸を引き千切って。何の未練もなく、せいせい引き千切ってやった。
あぁ、ようやく。ようやく、ようやく。
それだけが頭に浮かんだ。家から飛び出した。ブレーキを踏んだ車から、怒って降りてくるオジサン。がしっと私の腕を掴む。私は思いっきり、そのオジサンの手を振り解いて、真っ赤になった顔で、時津川の河原に沿って石和山の方へと走っていった。
走った。いくあてもなく、ただ足に任せて。上へ、上へ。川上に私は走っていった。何もかもが、ぐしゃぐしゃに見える。加速する世界の1秒も感じずに、私は駆ける。たった一人で居場所を探して。
そうするうちに、私はいつのまにか、時津川を眺めていた。時津川を上へ上へと登ったその先。正確には、遥か下の淀んだ河口に続く…流れの速く、私の足が届かなくなる深さの、声が響かない渓流を。
人が全てを諦めるとき。
それは莫大な借金を抱えた時でも、愛する人間を失った時でも、誰にも気にかけてもらえず一人ぼっちになった時のどれでもない。世界で唯一の味方。その味方…いつだってそばにいてくれる、唯一無二の存在。
自分。自分に見限られる時、人は初めてその全てを終える。
優しいお母さん。優しかったお母さん。子供の頃は母親がどんなに苦労してたかなんて気付かない。ちょっとした指先の動きから言葉の端っこに至るまで、お母さんは相当気を遣ってたんだと思う。今なら分かる。いま、全力の私でも、お母さんの半分にも及ばない。お母さんは「いい人」ではない。人に何されてもへーこら、面倒事だから我慢だとか、そういう類の人ではなかった。
「人」に「憂」の、「優しい」人だった。正直、代わりになると決めなくても、私の中では自分に劣等感を覚えずにはいられない、尊敬できる…目指す人ではあった。私は程遠かった。クズだ。
お父さんに、あんな事。でも、自分をそう認定しても、不思議と謝る気にはならなかった。自分の中で最低な事をしてしまったのだから、何があっても私はその場所から上がれない…安心感のようなものがあったからだ。
「今行くよ、おかーさん」
紐だけを外して、ぽい、と、卒業証書と筒を投げ捨てた。ぼそっと、私はお母さんの眠る時津川に言い放った。あんなにざわめいて五月蝿かった木々のざわめきが、ピタリと止まった。あたりが静寂に包まれた。ぶらんと、古びた橋から足を投げた。
世の中に言葉は山ほどある。生涯をかけても、決してその峠すら拝むことは出来ないくらい、たくさん。そんな言葉の中に…簡単に、人間で居られなくなる言葉が二つある。言ってしまえばお終い。一生、引き摺っても離せない言葉。死んだ後も、永遠に誰かの胸に遺される言葉。思うだけならまだしも、決して言ってはいけない呪文。
「生まれたくなかった」「生まなきゃよかった」
そんな人間をやめた言葉を、言ったんだ。だからもう、戻っても遅い。帰る場所なんかない。私が死んでも、あの言葉は一生お父さんを苦しめるだろう。でもいいんだ、言っちゃったんだから。私はまるで、自分が赦されたような、諦めと安堵の顔で、祈りを捧げた。卒業証書に巻いてあった紐を解いて、私は丁寧に、自分の両足を縛った。おさげの髪留めも両方外して、しっかり巻きつけた。
夕陽が、しっかりと私を見ていてくれた。お母さんはよく言ってた。誰も見ていないところで、誰かがきっと見ていてくれてるって。本当にそうだ。お母さんは、いつだって正しかった。すっくと立ち上がった。何故か、悲しかったのに。暖かい気持ちになった。お母さんが、下で両手を広げてくれている。
もし…もしも、赦されるのなら。これで救われるのなら。もしも、罪が消えるなら。もしも、魂が解放されて、新しい生命を生きれるのなら。
二度と…生まれてきませんように。
目を閉じて、身体を前に傾けた。ふわっと、空気が体を包み込んだ。頭が下になって、びゅううと地球に引っ張られて、ドボォンと音を立てて、私の命が沈み始める。抵抗する気は無かった。抵抗出来なかった。
川の水の冷たさに、心臓が追いついていけてなかった。水泳の時は何も頑張らなかった、使えない手足が今になってようやく、動こうとする。
苦しかった。上に行きたかった。でも、川底にお母さんが居た。私を優しく掴んでくれていた。だから言い聞かせた。お母さんがいる、お母さんがいる、お母さんがいる…ごぼっと、内臓が破裂したように、身体が水になった。手足が痺れて、1秒が10年に思えて、脳が気持ち良くなった。
痺れ。
何故か、水中に光があった。穏やかで、クッションみたいなふんわりする光だ。あぁ、暖かい。私を、肯定してくれる光だ。頭からつま先まで、余すところなく私を愛してくれる光。私をこの絶望の谷から、ようやく眠らせてくれる甘い光。私を救う…
光。
目を閉じた。沈んでいく体の、体重がなくなった。ソラにいる。ソラで、私は生きる。この大空に、ようやく飛んで行けるんだ。
がぼっと、最期の息を吐いた。
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