夕焼け隊の手紙。すっかり、夏が終わっても私は忘れていた。この夏は、私にとってとても有意義な夏休みだった。これから生きる80年間の中で、最高の夏だった。茉莉ちゃんとの交換会の後、ゆうやけ隊のみんなとは何回も遊んだりした。ショッピングに出掛けたり、散歩に出掛けたり、宿題を手伝ったり手伝ってもらったりした。
その中でも、1番面白かったのが自由研究だった。アキラくんちの家の近くに集まって、画用紙一枚、メントス、コーラたくさん。道路の真ん中で、カキっと開けたコーラ。そこにすぐにメントスを入れて、あとはブッシャーって空にメロウのアクアリウム。一個二個って増やしていって、その飛距離だとか何個目から勢いが無くなるか調べる、今思えばくだらない研究。
その結果をいちいち書く。蜃気楼の道路のど真ん中だしあっつい。準備に時間がかかる。そこに加えて、手でメントスを入れるから、何回も暴発しちゃってね。
飲め、飲め!ってアキラくんと友彦くんがお互いの口に押し付けたりするものだから、私達にまでコーラがかかった。それで皆が喧嘩し始めて、後半はメントスコーラ合戦になっちゃった。
汗でベタベタ、コーラでペタペタ。シャツからパンツまで全部ぐっしょりで、でも楽しくて。笑いながら、道路に大の字で寝てしまった。家に帰ってもなくならない余韻。作り置きのご飯が増えた。エアコンと掃除機のフィルター掃除も投げた。『今日の献立BOOK・8月号』も買い忘れた。
先生に怒られた新学期。こんな自由研究駄目でしょ、は当たり前だったけど、それ以上に宿題が終わらなかったから。ガミガミ怒られて。廊下に立たされても、嬉しかった。
でもすぐに、学校が嫌いになった。行きたくなくなった。だって…
「では、選抜リレーは、関根くんと、俊祐くん、それから若菜さん。えと、次は…」
はぁ。すごく嫌な季節が来た。水泳も嫌だけど、これが一番嫌いなんだ、私。
「キタキターっ!はぁい、先生ー!はーい!私、借り物競走がいい!!」
手をぶんぶん振るミドリちゃん。
「俺、綱引きがいい!」
「うちは騎馬戦がいい!」
「おいらはムカデー!」
わいわいがやがや。みんな、餌をもらう雛みたいに騒ぎ立てて、色んな種目に出たがる。先生が黒板に書く量がどんどん増えてって、とうとう一回みんなを落ち着かせる。
運動会。何が楽しいんだ。本当に。本当に苦痛なのは、やっぱり、あれ。「全員」リレー。徒競走ならまだしも、クラスの全員に見られる、一時だって目を離されないあの臨場。白熱の激戦、大盛況。そんなところで、ミスしたくない。私速くないもん。足遅いもん。絶対みんなの足、引っ張るもん。遅いってブーイング食らっちゃうんだ。
ミドリちゃんの方を、ちら、と見る。せんせぇ、せんせぇってまだはしゃいでる。友彦くんを一瞥。黒板の前までハーイハーイって行って、先生に怒られて笑われてる。なら奏太くんは…あぁ、控えめに手挙げてる…もう、何が楽しいんだよぅ。あんなの、走るだけじゃんかぁ。いないの?私のほかに…運動嫌いな人って。まぁ、いたとしても自分からは関われないけど。
キンコンカンコン。チャイムが鳴って、クラスのみんなは作戦会議とかやってた。その輪に入りたかったけど、やっぱり私は転校生。やぁって感じで入るのもどうかと。
茉莉ちゃーん。いつもならきっと、茉莉ちゃんを呼んで練習付き合ってよとか誘ってたけど、駄目だった。4組、とっくに帰っちゃったみたい。誰もいない放課後の教室に夕焼けの光が差し込んで、ちょっと切なくなった。ミドリちゃん達とは友達だけど、私の事を話したのは茉莉ちゃんだけだ。
私…茉莉ちゃんだけに頼りすぎてたのかも。
「おっ、夏美じゃねえか。どした?」
「あっ…アキラくん。どしたの」
「バッカヤロウ。忘れ物に決まってんだろ」
いがいが頭の男の子。ゆうやけ隊じゃ一番背が高くて、面白くて、いつもニコニコしている子。エネルギーがすごくて、友彦くんとよく遊んでる子。おいしょぉ、と、ドアの上にある窓にジャンプして、教室に入っていくアキラくん。ポカンと呆気に取られる私を全く気にしないで、ガラガラとドアを開けて中から出て来る。
もっと人に頼っていいんだ。唐突に茉莉ちゃんのお父さんの言葉を思い出した。そうだ、アキラくん。同じゆうやけ隊の友達だもん。だから…
「あ?なんだ?走るコツ?」
ゆうやけ隊の中で一番足、速そうなんだもの。2人で話すのは初めてで、ちょっと体育会系っぽくて怖かったけど…思い切って、アキラくんに相談してみた。
「うん。野球好きって聞いてたし、速そうだし。だから教えて欲しいなって」
「だっしゃっしゃ。おまえバカヤロウ。そんなん、感覚だよ感覚!イッチニ、イッチニ、ほいきた!盗塁!バッターアウツ!」
その場で芸人みたいにバッバッと動いて、ものすんごく鬱陶しい動作をするアキラくん。終わった後どんな状況だよ、って、セルフ突っ込みもするものだから、がくんと頭を落としてしまった。
「もー。そうじゃなくて!教えてほしいんだって!アキラくん!頼むよ、一生のお願いだから」
本当に困った顔で、私はアキラくんにお願いした。アキラくんはえー、とか、面倒くせぇだとか白い歯を終始見せて、私をからかった。だけれど、最後にはしょうがねぇなって言ってくれた。
「じゃあ、とりあえずやっか。いいか夏美、これバトンな。行くぞ!受け取りからだ!」
そう言って、私から20mぐらい離れた所から、くるくるに丸めた40点のテストを持って、アキラくんは勢いよく走ってきた。
やっぱり速い。走り始める時のかがみ込みから、腕を振る動作まで、素人目でも違いが分かった。ドンドンドンと大きな音を立てて列車が飛び込んでくる。一瞬怯んじゃって、走り始めようとした時にはすでにアキラくんの体が追いついていた。おいおいおいって、減速が間に合わなかった明くんにどしどし背中を押される。
「ばっか夏美、走れって」
「は、走れないよ!速いよ、アキラくん」
「おまえバカヤロウ!鈍いな!じゃあもう一回やってやるから、しっかりやれよ!行くぞ!」
「ゆ、ゆっくりね?」
そう言ってアキラくんは、呆れながら両方の手を腰に当てたままスタート位置に戻って行った。
ちゃんとやってるもん。足遅いだけだもん。結局、2回目も失敗して、アキラくんにバッカヤロウって怒られた。うぅ、やっぱちょっぴり苦手かも、アキラくん。出来ない人の気持ちも分かってよ。私、走る事すらあんましないんだから。
「ったく。面倒くせぇからこれはいいや。じゃあ、今度は…試しに走ってみろ、夏美。あそこまで」
朝早くから白い線で落書きをされたグラウンド。運動会の練習がもう少しで始まるから、線は消さないで残されていた。目測だけど、100mぐらいの長さ。アキラくんが半周先で、私を待っていた。
「行くぞー!夏美!よーい…ドン!」
その声と同時に私は走り始めた。遊ぶダッシュでもなく、急かされるダッシュでもなく、ゴールに向かう全力のダッシュ。
はっはっ、はっはっ。ゴールが遠い。半周って、めちゃくちゃキツい。スタートから50mくらいで息が上がってしまって、アキラくんの所についた時は、すでに気持ち悪くなるくらいに虫の息だった。
目を開けられなくて、ハーハー膝に手を置いて、乱れる髪の毛を片手で掻き上げる。そんな苦しそうにする私の前に、アキラ君が来る。
「おまえ…センスねぇな!おせぇ!ダメだぁ!」
ずっきーん。普通に傷付く。こんな頑張ってるのに。そんな言い方ってある?疲れた顔で口をムにして、アキラ君ををジト見する。
「もう…いいよ。どーせ私、遅いもん。無理無理。もう、帰る」
そう言って、私が帰ろうとした時だった。突然、進行方向に足が進まなくなった。あぁ、忘れていた。そうだった。いつかの野球の時もそうだった。一番やっちゃいけない事。アキラくんの前で一番言っちゃいけない事だった。
恐る恐る後ろを振り向く前に…遅かった。ギュッと手を握られて、真剣な顔で止められていた。男の子の手。大人ほどじゃないけど、やっぱり固くて大きくて、ゴツゴツしてて。
だからアキラとは嫌だったの。あの時の茉莉ちゃんの言葉が今、理解できた。呆れてバイバイって手を振る茉莉ちゃんが空に見えた。
あぁ、しまった。
「夏美、おまえ今…なんつった?」
「あ…う、その」
笑ってばっかりのアキラ君の表情が、かなり強張っていた。照れ、っていうのもあったけど、アキラ君の手を振りほどこうとしても…ガッチリ握られてて、動けなかった。
「バカヤロー!てめぇ、コノヤロー!無理って言ったな!ぜってぇ許さねぇ!死ぬまでやるぞ夏美!叩き込んでやる!」
もういや。
「いいか夏美?今のお前じゃ…たぶん、今から練習しても走れねぇな。そんな単純じゃねえんだ、速くなる方法って」
「そ、それじゃお話にならないじゃん。私、期待してたのに」
「バカヤロー!一気に物事が変わるかってんだ!少しずつの積み重ねが大事なんだよ!」
アキラくんの口癖。バカヤロー。何十回も聞いてたけど、その声だけはいつもの調子のバカヤローじゃなかった。叱ってくれるためのバカヤロー。私を真剣に考えてくれてるバカヤロー。
それに、男の子にこんなに積極的にされたのは初めてだったから…ちょっとだけ嬉しくてアキラ君の説明を聞いていた。
「夏美。まずは受け取る時からだ!いいか?よく聞け。走ってくる奴じゃなくて、走ってくる奴の足を見るんだ。それこそ、目印代わりの石でも白線に置いとけ」
間髪入れずに、身振り手振りで、様々なアクションをやりながら、熱心にアキラくんが言葉を続ける。
「せめてバトンタッチは速くすりゃいい。ほら、手、出せ。練習だ、バカヤロー」
アキラ君は全く気にしてなかったけど、私はかなりドキドキしていた。一日に、何度も男の子と手を繋いだから。
バトンタッチのたび、指が触れるたび。
「はぁ、はぁ…うぅ、ちょっとタンマ。い、一度に言われると…わかんない」
「バカヤロー!もっと、やるんだよ!おら走れ!」
ものすごく失礼な事言うけど、アキラくんって完全に感覚派の…言い方めちゃくちゃ悪いけど、うん。脳筋って、はっきり言っちゃう。
でも、こんなにも熱心に私を見つめて教えてくれる。何回も、何十回も必死に、私だけの為に。私わざと失敗して、アキラくんに構ってもらいたかったのかも。もしかしたら、だけど。
何度も失敗して、何回も同じ事指摘された。その度明くんにガミガミ怒られて、でもアキラくんは諦めずに何度も私に教えてくれた。何十回も私に教えてくれるから、明くんのホクロの位置を覚えてしまったぐらい。
だから私ものめり込んでしまって。靴がボロボロになっても、一生懸命走り込んだ。とうとう、足にズキっとマメが出来てしまって、ずるっと剥けちゃったから、そこで諦めちゃったけど。そしたら、アキラくん。意外と優しかった。自分の服を保健室から借りてきた(盗ってきた)ハサミで切っちゃって、グルグル私の足に巻いてくれた。
「わりぃな、夏美…無理させちまった」
あんなに豪快で、デリカシー無くて、いつもうるさいアキラ君が、しょんぼりした。
「そんな、無理だなんて。私が頼んだ事だし。かなりタメになったよ。そ、それに、わ、私、嬉しかったし」
「まじか。マジで気にしてないのか。なんだよ、バカヤロー」
俯いて、そう伝えてみたけど…アキラ君は気付かなかった。まぁ、だからアキラ君なんだけどね。ちょっと、残念だったり。
帰り道。とっくに日が暮れちゃって、鈴虫の声がかすかに響く河原を、明くんと。茉莉ちゃんとは一緒に帰った事あるけど、他の子…しかも男の子と帰ったのは初めてだった。茉莉ちゃんと帰ってると、安心感がある。明君と帰っていると、心強さがある。
「夏美ィ。やるじゃねえか、見直したぜ」
だっしゃっしゃと、私の背中をバンと叩いてくれる明くん。痛いくらいに強くて、けれど自信が出るような叩き方で、嬉しかった。
「ごめんね、こんな遅くまで…付き合ってくれて、本当にありがとう」
「いいんだよ。俺は諦めねぇ奴が好きだ。面倒みたくなるんだよ」
その言葉を聞いて、私はまた安心した。私の事を嫌いじゃなかった。むしろ、友達だって思ってくれてた。幸せな気分になった。
「じゃあよ、俺こっちだから」
「え、もう?」
「何言ってんだ、もう夕飯の時間だぞ、バカヤロウ」
って思うくらい、私は時間を短く感じた。いや、違う。ただ、帰りたくないだけだったのかも。友達といると、本当に新しい発見ばかりだ。家にいるとつまらない。面白くない。いつも通りだから。友達の方が、親よりも分かってくれる。いつまでも私を見てくれる。
変な優しさももどかしさもないし。ゆうやけ隊と一緒にいた方が…よっぽど発見ばっかりだ。
でも、もうすぐ18時になる。そろそろ帰らないと、私もご飯の支度が間に合わない。本当は、私がする事じゃないのに。帰りたくないって明くんに言ってもどうにもならない。もう一回教えてとかもあるけれど、足が痛くてここまで来るのも一苦労だったから。
「って今日、門限守んなかったら捨てるってオカンに言われてたんだった!やべー!バカヤロウ、じゃあな、コノヤロー!」
「うん…じゃ、じゃあね」
走り出す明くん。私は、名残惜しく明くんの背中を見つめていた。けど、しばらく経った所で、明くんが踵を返して、私の方へと走ってきた。少し、またドキっとする私。明くんが、ぜぇぜぇ息を切らしながら、その場で足踏みしながら私に言った。
「夏美、諦めちゃ駄目だぜ。なんかお前んちが色々あるってのは知ってんだ。だけど、諦めたらあとは腐るだけだ」
「えっ…」
「心配してんだよ。色々聞いてんだよ、一応な。それにダチだろ。頑張れよ、じゃあなっ」
明くんはそう言って、来た道わかんねぇ、こっちかって言いながら帰っていった。私は、ありがとう、って言葉も忘れて、佇んでいた。
私の事…みんな、知っててくれたんだ。
そっか。友達だもんね。あぁ、友達といるって楽しい。ゆうやけ隊を作れて、本当に良かった。外にいると、毎日生きている気がする。話せるだけで、私は夏美だったんだと思える。ゆうやけ隊のおかげだ。ありがとう。明くんの背中に、小さく、寂しく手を振って、私も帰ろうとした時だった。
あ。
そういえばで思い出した。そうだった。ずっと、いや1ヶ月ちょっとだったけど、ゆうやけ隊の手紙…まだ開けてなかった。夏休み明けの楽しみに取っておいて、ランドセルの外側に入れてたんだ。
私はランドセルを下ろして、きゅぽっと牛乳瓶の中身を確認する。てっきり1枚だけかと思ってたから、ひらひらと舞う便箋に気が付かなかった。拾い上げて、眉を高くした。珍しい。封筒に入ってるなんて。
2枚入ってた。片方はそのまんま紙を追っただけの手紙で、もう片方が封筒に入っていた。そのまんまの紙には、
クリスマスの日 奇跡は起こるよ 起こって きっと
と書いてあった。手紙を開くと…なんだろう。これ、旅館の地図だ。ここに行けって事なのかな。部屋の番号まで。ナゾナゾ、面白かったから、期待してたんだけどなぁ。明日、みんなに話してみよう。
次に、封筒に入ってる手紙。それを手に取った時、私はハッとした。この手紙。エスパーじゃないから、触っただけで分かったわけではないけど。
嫌な…なんか、寂しい感じがした。
ざりざりした封筒に、しずくみたいな痕。封筒のシールは、何回も剥がしたようにびろんとしていた。中の手紙は、ヨレヨレで、何回も消したように汚かった。ごくり、と唾を飲み込んだ。恐る恐る、その手紙を取り出した。
《さよならも言わず行っちゃう私を許してね。きっとみんなと一緒にいたら行きたくないってわがまま言っちゃうから。
私は必ずここに帰ってくるよ
みんなに会いに。
私には、嫌われる勇気が無かったよ。黙っててごめんね。言えなくてごめんね。だから、帰ってきたら、たくさんお話しようね。本当に、本当にごめんね。
ありがとう 天音 春香》
多分、泣きながら書いたんだと思う。
だって、字が震えていた。文字の間隔がおかしかった。名前のとこだけ…力を抜いて書いてあった。
私は、自分に重ねてしまった。この人。春香ちゃん。引っ越しがあったんだ。遠くに行っちゃう所だったんだ。最後まで…言えなかったんだ。
春香ちゃんに似たような状況の私。私は他の人には言ったけど…言えたけれど、どんな思いで書いたんだろう。そうだよ。別れるのって、辛いよ。
春香ちゃん。あなたも、私と同じだったんだ。
春香ちゃんの手紙を、私は黙ってポケットにしまった。私にはあと…そうだ、何ヶ月かある。まだ私は楽しく遊べる。それに、ちゃんと言えてるんだ。私は。だから…今は忘れよう。
お父さんとの問題は何も解決してなかったけど。自分に似たような状況の人がいるって思ったら、不思議と気持ちが楽になった。旅館の…旅行の事だけ考えよう。そう思って、私は歩き出した。忘れる勇気を持って。
私は、その時、気が付かなかった。気が付けなかった。私は今まで、思い込みで自分を制していた。それがあっさり出来てしまう事が後々、皮肉にも、大きな壁になる事も知らずに。
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