柱に付いてるハシゴに怯えつつも、警報解除のアナウンスとマツリちゃんに急かされ、私は上へと行く決心をした。とってもワクワク。体温が高くなって、全身を駆け巡って、かなり興奮していた。
マツリちゃんを衝立に跨らせて、準備は万端。行くよ、って、ごくりと唾を飲み込んだ。マツリちゃんも今回ばかりは真剣そうな顔で、こくりと頷いた。「秘密の部屋」へと続く梯子を登りはじめた。光が漏れてる所に辿り着いて、震える手で少し押してみる。ぐい。持ち上げる。
恐る恐る、頭の半分だけを出して、死体やぞんびが居ない事を事を確認する。私はゆっくりとその部屋に上がって、周囲を確認した。脚立やほうき、何の目的で使うのか分からないものが置いてある、3人入れば息苦しくなるような小さな狭い個室に辿りついた。マツリちゃんが後に続いてくる。
物凄くファンタジーな事を想像していた私。魔女の部屋だとか、学校の怪談の正体とか、金銀財宝の部屋とか…だけども、現実はそんなに甘くなかった。あまりにも無機質で普通すぎる部屋に、私ははぁ、と、ため息をついた。
「うへっ、埃くさっ。何よこの部屋、普通じゃん」
「みたいね…もっと色々あるかと思ったのに」
「ふん。所詮こんなもんよ。あー、期待して損した」
「私もだよ。はぁ…ん?」
目の前に、ドア。こんな所に、次の部屋へと続く…ドア。ドアのガラスが、曇ってる仕様のガラス窓だったから、先はよく見えなかった。だけれども、光が差して、なんだかあったかい感じがした。
「マツリちゃん。ここ、どこに繋がってるんだろう?」
「知らないわよ。あー、もう、ここ降りるのが大変じゃん。ソータ、ねー、ソータ。いない〜?」
もう帰ろうと、梯子に手をかけるマツリちゃん。そのまま私の手を引っ張るけど、私は何だかドアの先が気になった。 まだ…何かありそうな気がした。もしかしたら…私の退屈を吹っ飛ばしてくれるような、何かがあるんじゃないかって。私は意を決して、がさぁっと嫌な手触りのノブをくるっと回した。
瞬間。
まるで、楽園。白のかき氷に、青のシロップをつけて食べるような時の清涼感が、私の体を駆け抜けていった。台風が過ぎた後の、雲の白さだけが際立つ晴天の蒼天に、屋上が雨で…ミニプールのように、水浸しになっていた。
太陽の眩しすぎる逆光。ぶわぁっ、びゅううと台風一過の風が私の髪を吹き飛ばした。初恋みたいな、あの甘く、太陽に恍惚とした瞬間。ポタリ。私の汗が、天空の鏡に水紋を描きながら、一人で勝手にそのウミへと溶けて行ってしまった。
「わぁ」
大きな大きなその水たまりが、太陽の光を反射させながら、雲と太陽だけの映る女神の鏡を作っていた。わざわざ空を見上げる必要は無かった。眼下に広がる大海原に、雲の船隊が大集合していた。無意識だった。まるで催眠にかけられたみたいに、勝手に私の手が靴下を脱がした。太陽が霞んで見えた。マツリちゃんも、ぼーっと佇んでいた。
ちゃぷ。温泉に入るみたいに、つま先立ち。足が馴染んでくれたところで、かかとをとぷり。水紋が端っこの方まで流れていって、屋上からこぼれていった。なにやらゴムっぽい素材で出来ている屋上。足が沈んで、とっても気持ちよかった。まるで、プールに溶け込むような感覚。
キラキラ輝く、太陽の水絨毯を進みながら、私は端っこのフェンスまで歩いてゆく。ゆっくりあたりを見渡す。マツリちゃんだけ。居るのは、マツリちゃんだけ。あとは、天国みたいな景色。鬱憤の下に埋まっていた、忘れ去られた感情が、泉のように湧き上がる。
「…あは。うふ、あはは!やっほー!」
初めて自転車に乗って、初めて坂を下っていった時みたいな声で、私は地面の大空に軽やかなステップを披露した。
ばちゃ。水に濡れる事も気にしないで、膝をたたんで大きくジャンプ。飛び散る水しぶきに、いくつもの太陽。気持ちいい。冷たい。
「すごい!すごいよ、マツリちゃん!ここ、本物のプールみたい!天国のプールだぁ!」
「ば、ばっかみたい。そんなはしゃいで…こ、こんなの、普通だし」
眼下に広がる家々の屋根達が、とってもカラフルな折り紙みたいに見えて。マツリちゃんもいるのに、私は嬉しくて嬉しくて、何度も何度も大きくジャンプした。
いぇい、やっほぉ、ばんざぁい。思いつく限りの喜びを表す言葉を叫びながら、私はとうとう壊れてしまった。久しぶりに、子供になれた気がして。とっても幸せだった。
「が、ガキみたい。ガキ、ガキ…」
うるさくて気取ってるマツリちゃんが、初めは呆れたように腕を組んでいた。けど、そんな私を見て…とっても意外だった。照れながら、ちょっとずつ…ぴちゃぴちゃと、とうとう私の方に走ってきた。
「…えいっ」
マツリちゃんが、大きく跳ねて、ばしゃんと地面に着地する。びっくりした水玉が、逃げるように、きらきらと地上へと溢れていく。そうすると、マツリちゃんは、もっと大きくジャンプし始めた。
マツリちゃんがそんな事をやってる事に驚いたけど、私は気に留めなかった。そのぐらい、ストレスが溜まってたみたい。言葉は交わさずに、2人で嬉しくて、ジャンプしまくった。本当にタガが外れてしまったというか、理性が壊れてしまったように、ただただ水飛沫を学校から撒き散らしていた。
風に場所を代わってもらって。ぽたぽた泣く足をぶらぶらさせて、泣き止ませようとする。太陽の暖かな光が、私の足をぴかぴかと照らす。世界を一望、かんし台。塔屋についてたハシゴに2人で肩車して、給水タンクの狭い網格子から風の旅路に足を投げ出す。給水タンクのすぐ下に、ゴミにまみれて霞んだ牛乳瓶が置いてあった。でも、中の手紙は無事。
おしりのフチが狭かったから、私とマツリちゃんはピンとした背中をざらざらタンクにつけて手紙を広げた。マツリちゃんの横顔。今までに見た事のないくらい、年相応の…小学生だった。だから、私はくすっとして、
「なんか…意外。バカにしないんだ。私絶対、呆れて帰るかと思ったのに」
「ふん。うるさい。あたしだって、その…つ、つまんなかったの。学校が」
「えっ…?」
意外な言葉に耳を疑った。あんなにやりたい放題で、すぐ人に手を出して、私なんかと違って…自分ばっか出してるワガママなマツリちゃんが、学校、つまんない、だなんて。その視線に気付いたのか、マツリちゃんは一瞬顔を赤くして、私から目を逸らした。
「なっ、なによ、なんか、文句あんの?」
「いや、別に…意外だなって思っただけ。あ、そうだ、手紙の続き、なんて書いてあるの?」
「あぁ、えーと…」
《鳥の血に悲しめど魚の血に悲しまず
そんな言葉を見つけるために
大きなまきびしに導かれて
暗い荒野を船は進む
昼は血の海夜天の川
港につけた命づな
早く僕らを助けておくれ》
「…まったガキくさいのが出てきたわね。相変わらず、わけわかんない。こんなの、どーせ実もないなぞなぞよ」
「マツリちゃん、さっきはしゃいでたのに。信じてたじゃん。別人みたいだったよ。ふふ、大人げない」
「電車の乗り方知らないお子様なんかに言われたくないもんねーだ。でも、」
腕まくりの濡れた手でしっかりフチを抑えて、ぶらぶらさせてる足を高く空に伸ばすマツリちゃん。しばらく何にも言わず動かないものだから、私も怖かったけど足をピンと空に上げてみた。キラッとした水滴が、私の裸足を伝ってくる。
「…こんなに楽しいの、久しぶりだった」
そうやって、子供みたいに笑うマツリちゃんの横顔に、私はつられて笑う訳でもなく…何故か哀愁を感じた。切ないような感情が、湧き上がった。どこか…どこかで見覚えがあるような誰かの顔が重なって見えた。私はこの横顔を、はるか昔から知っているような気がした。
「…そうだね。きっと、楽しい」
また少し、夏が好きになった気がした。
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