じゃあねって手を振って、校門を過ぎるまで、ランドセルが開いてる事に気付かなかった。あっ、て、ふた留めの金具を掴もうとして、荷物を置いて振り向いた時だった。どっしり重たい学校が目に映った。再び、みんなの視線を思い出した。
…素直に教えてくれれば。あんなに馬鹿にしなくてもいいじゃない。そうすれば、恥ずかしい思いなんてしなかったのに。私だって悪いけどあの子だって悪いんだもん。あれは私の宝物だったんだ。不満をいくつも頭に思い浮かべながら、いらいらが募ってきた時だった。ふと、
優しく、なりなさい。
あれ。
ふいに、お母さんの言葉が浮かんだ。それと同時に、私はもう一度自分を振り返って見た。そう、そうだ。私も悪かったのかな。もちろん時計の事は悲しかった。
同時に、マツリちゃんに対する罪悪感が募った。みんなに避けられてる。ミドリちゃんの言葉が頭をよぎった。マツリちゃんからすれば、勝手に誰かが来て勝手に怒って、勝手に悪者にされているのだ。
「…私、大人げないな…」
ちょうどいい感じの、なるべく丸くて尖ってない石を。ノーコンだけど蹴りながら。とぼとぼと〈時津川〉を睨みながら帰っていた。時計を無くした時は夕暮れだったのと、たくさんの感情のせいで、その川の透明さに気付かなかった。
よく見ると、お祭りの屋台で塩焼きにされてるような、細長い楕円形の魚が泳いでいるのが見えた。もしかしたら、同じやつなのかも。古く錆びた看板には、モクズガニを取らないでくださいって書いてあった。なんて可哀想な名前。カニは海にしかいないと思ってた私。本当にいるのかなって興味を惹かれる。
こんな綺麗な川があるんだ。日光の角度を調整すれば、下の砂地が見えるもの。それでいて、うん、やっぱり溺れて沈むような深さじゃない。私が渡れた川だから、深くても多分1mぐらい。たぶん。お母さんの時計も、きっと見つかりそう…あぁでも、水泳セットなんか。
肩を落として、川から離れ、水張り田んぼのあぜ道を帰る。そうだよ、どうやって探せって?たいして泳げないくせに。いつまでも私は未練がましいんだよ。見つかりっこないじゃない。小さな事なんか、忘れて、もっと大人にならなきゃ。
「…あ」
「げっ」
田んぼに映る私を見つめながら、落ち込んでいた。そしたら、誰かとぶつかりそうになった。すみません、ってお辞儀をしようとしたら。
お互いちょっと気まずそうな感じになって、ぶらぶら動かしてた両手をランドセルの肩ひもに置いて、でもどっちも行動を起こさないからもどかしくなって。
「…この近くなの?」
「どっ、えっ」
絶対に最初は嫌味だと思って、どいて!って言ってくるだろうからどかない!って言葉を用意してた私はピピーッ。フライング。元の位置に戻って下さい、なんてね。
「あんたっち。じゃなきゃ、会わないでしょ」
眉を寄せながら、ぷいと目を逸らして、ぶっきらぼうに聞いてくる女の子。私より背が高いけど、その時は同じくらいに感じて。だらんと伸ばした腕をもう片方の曲げた腕でさすりながら、マツリちゃんは私にそう聞いてきた。
「うん、この近く、だけ、ど…」
どうしよう。どうしたらいいんだろう、こんな時。いつもなら先生がごめんねしなさい、いいよ、で終わるからすぐに解散出来るのだけれど。
ランドセルで蒸れる背中がよりむわぁっと、ひんやりと感じた。こんなの慣れてないよ。まごまごした口を下にずらして、上目遣いみたいな感じでもじもじしてしまう。普通に会話続ければいいのかな?それとも私からごめん?あぁでも謝れば謝ればで、ええっと…
「あぁ、もう!バーカ!弱虫のくせに泣いて、今度は泣き虫!?甘えんな!」
「はぁ!?なにそれ!」
いきなり、汚い言葉と、挑発的な態度で私の鼻に指を差す女の子。思わず、カチン。
「あんたのせいで勝手に悪者にされたあたしになってみろ!迷惑かかってんのはこっちよ!」
「ほーら、そういうと思った!意味わかんない!あなただって悪いじゃない!私の時計返して!」
「へーんだ!川の水たらふく飲んで探せばいいじゃん!カナヅチに出来ればだけど!」
「そうやって気が強いから人の痛みがわかんないんだ!一回死んじゃえ!」
「ばーか!汚い汚い汚い汚い時計ー!」
最初は腕を払いのけるだけだったけど、時計を馬鹿にされたのと、そうやって1人で考えていたせいでストレス溜まってたみたい。私は、初めて人の腕をがしっと、強く握った。ドクっと脈を打ち返すんだ、血管って。ランドセルを乱暴にそこらに置いて、生まれて初めて取っ組み合いの喧嘩をした。
お互い服を引っ張ったりして、見えるでしょ!知るか!なんて、いかにも男の子がやりそうな喧嘩をした。マツリちゃんは私のおさげを2本も引っ張って、私はマツリちゃんのほっぺを引っ張って、足はお互いの足を踏もうとステップしてて、それで少しよろけた瞬間だった。
「喧嘩はやめろぉーっ!うぉーっ!」
ごふっと、私とマツリちゃんはトラックに跳ね飛ばされたみたいに、足が宙に浮いたかと思うと、そのままドボォンと、水張りのされた沼にダイブした。鼻腔に粘りつく、ツーンとした大地。最後にみたのは、なんだかちくちくしてそうなイガグリ頭だった。
「本当、本当馬鹿!何であたしの周りにはこんなに馬鹿が多いの!!本当、ばか!このハゲ!」
「ハゲじゃねぇ坊主だ!だっしゃっしゃ」
取っ組み合いを止めようとしたのはいいものの、石につまづいて私達をバンカーとも池ドボンとも、ともかくこんな泥だらけにしたのはマツリちゃんのクラスの野球少年・アキラ君だ。
私を気にして追いかけてきたソータくんとミドリちゃん、トモヒコくんはそれはそれは大爆笑も大爆笑、みんな道路に自由に転げて大笑いの嵐だった。トモヒコくんは、負けてられねぇぜぇーって一緒に飛び込んできた。
そんな事するからミドリちゃん達は更にお互いの肩をバンバン叩いて、少し静かになって、1人がぶっ!と吹き出すとまた同じ事を繰り返して。本当の変人ってトモヒコくんの事言うのかな。
「もうもうもう!どーすんのよ、この栗頭!」
「俺の服で勘弁してくれ。今、茶色がトレンディーなんだよ」
泥まみれの服で胸を張るアキラくんとトモヒコくん。
「馬鹿じゃないの!!服代弁償しなさいよ!弁償!」
「うわー。そういうのホンット嫌われるよ。マツリ」
「あんたには関係ないでしょ!」
そりゃあ泥まみれだもの、そのまま帰ったら何て言われるか。頭のてっぺんから足のつま先まで、全部ぜーんぶ泥まみれだもの。はじめはおしとやかに、川の水を両手で飲むみたいにして、ぱしゃぱしゃ泥を落とそうとした。でも、そんなんで汚れが落ちるわけないでしょ。
もうそれならって、えぇい、ままよ、2人でばしゃあーん。川に飛び込んでしまった。何度も何度も飛び込んで、全身ぐっしょり、体はひんやり。まだ川の水は冷たくて、鼻水が沢山出た。
「〜〜ッ、全然、全然落ちないぃぃ〜ッ…!この、バカ!色白バカ饅頭!もとはと言えば、あんたのせいよ!待てコラ!」
「やだっ、暴力はやだぁっ」
「逃げんなっ!このっ、沈めてやる!」
「そうはさせねぇ!助太刀いたす!」
「我ら泥魔神が相手だ!」
「お前らは入ってくんな、バカ!」
「あっはは、愉快愉快」
ばしゃばしゃと、私を追いかけるマツリちゃん。遊びが始まったと思ってノッてくるアキラ君とトモヒコくん。それを見て面白がるミドリちゃん。体育座りで参加したそうなソータくん。
ばしゃばしゃと、トモヒコくんやアキラくんを薙ぎ倒して、背中から私に抱きつくマツリちゃん。もちろん、どぼぉん。何度も何度もやってるうちに、とうとう皆疲れて、浅瀬でちゃぷちゃぷと寝そべり始めた。
「あぁー、とうとう我々が敗れるとはっ…ぐがぁっ…」
「だっしゃっしゃ」
「はぁ、はぁ…本当、最悪。ガキばっか」
「夏美を泣かした罰ね。いい気味」
「さっきからあんたはうっさい!黙って!」
「うぅ…もう、帰りたぁい…」
そうやってマツリちゃん達が言い合ってるうちに、私は岸へと引き返して、河原の丘のちょっと高い所から、遠くの空の、カラスの背後に映る夕陽であったまっていた。アスファルトに、私の小さな足跡がピチャピチャと出来てゆく。
あんたも濡れなさいよ、うわサイテーって、マツリちゃん達は水をパシャパシャ掛け合っていた。無造作に投げ出された靴が、河原にこてんと、影を伸ばしながらひっそりと佇んでいた。
そんな時だった。マツリちゃん達のいる所から離れた、橋の脚の青く淀んだ所。なんだか、きらっと水中が光った気がした。最初は気のせいって思って、またボーっと空を仰いでいたのだけれど。
ふと、思った。
時計。
私は靴下も履かないで、ずぶ濡れの靴に足を突っ込んだ。かかとを踏んでる事も気にせず、ぱっかぱっか、ぱっかぱっか。もしかして、もしかして。
「おい、どうしたんだよ、夏美」
「何勝手に逃げようとしてんのよ」
「…あれ。あそこ、光った気がした!なんか、きらって!」
あれが果たして「それ」の反射だったのか、ただの夕陽の反射だったのか、それとも水中に無数に泳ぐ魚の群れだったのか、はたまた気のせいか。そんな事は今になって思えばどうでも良かった。ただ、誰かが呼んだんだ、でいいんだ。あれが私の物語の始まりだった。
「なんだなんだ?お宝か!?トモちゃん!行くぞ!」
「おぅあっちゃん!いくぜぇー!」
私が下に降りるより早く、アキラくんとトモヒコくんは裸足で痛ぇ痛ぇって叫びながら、丘を駆けて川へとダイブしていった。男の子って。
ソータくんはこういうノリに慣れてないから、参加したそうにはするけど、結局その場でオロオロするだけだった。
「なによ。これ。開けてみなさいよ」
「メッセージボトル…」
「ボトルメールって言わない?濡れちゃってるね」
「こまけぇこたぁどうでもいいじゃねぇか」
「骨折り損ー!うぉー!」
「いたた、髪を引っ張るのはやめてって」
時計を探していた私からしたら、すごくがっかりだった。服を着たまま水中に潜って行ったトモヒコくんとアキラくんをドキドキ待ってたら、予想とは大きく離れた物を手にして浮上してきたから。
なんだ空き瓶か、って、落胆して。
ピッチャー投げたぁ、って、アキラくんが遠くに投げ捨てようとした時だった。マツリちゃんが待ちなさいよ、っていうものだから、みんな止まって。それで、よくその空き瓶を見てみたら、湿ってくたぁっとした…手紙のようなものが入っていた。
《やあ、同志よ!これを君が読んでいるということは、君は今〈時津川〉にいるということだね!これを見つけられた君は非常にラッキーである。
よって、特別に〈放課後ゆうやけ隊〉をつぐ権利を与えよう!ただし!放課後ゆうやけ隊はひみつの組しきである。もしも放課後ゆうやけ隊に入る意思があるなら、ひみつを守れる友達を6人探してくること。
準備ができたなら、まずはにわとりを探すこと。そいつに次の手紙を持たせたんだ。普段は気付かないんだ。でも、大きなかねが鳴っているとき、町のどこかに現れるぞ。名前はスウェンっていうんだ。》
手紙は、くしゃあっとしていて、お世辞にも綺麗な字とは言えないのに、何回も文を書き直したような跡があった。放課後ゆうやけ隊。ひみつのそしき。子供っぽかった。
「放課後、ゆうやけ隊…?」
「なぞなぞとか俺苦手だぜぇ」
「ガキくさいわね。くだらない」
「マツリだってわかんないくせに」
「でもでも、おいらはこういうのやってみたい。ねぇー、いいじゃん、やろうぜ」
マツリちゃんに触ろうとした手を弾かれるトモヒコくん。
「でも、ちょうど6人いるぜぇ。なぁなぁ、誰が先に解けるか勝負しようぜぇ。あ、そうだ、お前だれ?」
「えっ、あ、奏太だよ…隣のクラスの」
「私、マツリが入んの嫌。ねー、ソータ」
「えっ…あ、その…うん…」
「マツリめんどくせぇけど、俺ぁ構わねえけどなあ」
手紙が入っていた、ただの瓶のせいで、話が変になってきた。
「ふん、そんなガキくさい事、頼まれたってやらないわよ。バーカ、全員しね」
噂の通り、マツリちゃんはみんなと仲が悪そうで、早速ピリッとした空気になりかけていた。なんだか嫌な雰囲気になって、私はマツリちゃんの方を見た。私はこういう流れが嫌いだった。誰かを離すのも離されるのも。
皆に避けられてるんだよ、マツリ。その、ゆうやけ隊っていうのにはあまり興味が無かったけれど、この流れを作ってしまったのは私だ。私が見つけたせいでこの子がまた仲間外れにされる。
一人に。
私が一番嫌な…一人に。そう考えた瞬間、私は無意識に言葉を発していた。
「せっかくだし、マツリちゃんもやろうよ。みんなでやった方が面白いよ」
皆がびっくりして、私の方を見る。私は続けた。
「それに、違うの。あんま上手く説明出来ないけど、マツリちゃんは悪くないの」
「えっ」
もうランドセルを背負って、みんなの輪から遠ざかる一歩手前だったマツリちゃん。意外そうな顔で私に振り向いた。私とマツリちゃんは、お互い目を合わせて、ちょっと気まずくなって、逸らした。
「おいらが聞いてたのと違うぞ、夏美ぃ。一方的にやられたんだろ?」
「違うよ。ごめん、私…卑怯だから。でも、あれ、私が悪いの。本当に」
「…」
黙ってしまうマツリちゃん。
「…よくわかんねえけど、じゃあなおさらオッケーじゃねえか。だっしゃっしゃ。いいじゃん、皆でやろうぜぇ」
ミドリちゃんは納得してなかった。けれど、アキラくんやトモヒコくん、そして私を見た後…不本意そうに、流れに合わせるように口を開いた。
「な、夏美がそういうなら。ふ、ふん。でもマツリ、調子乗んないでよね。またソータ殴ったら、承知しないから」
動揺したのか、呆れたのか、迷惑がってるのか…マツリちゃんは言葉を出さないまま、私の顔を凝視して、すぐにぷいと明後日の方を向いた。
「…くだらないわね。とりあえず、あたしはもう帰るかんね。今何時よ、全く」
逃げるように早歩きで踵を返すマツリちゃん。怒った感じで、どしどし足音を立てて行った。私は余計な事したかなって、申し訳なさそうにマツリちゃんの背中を見ていた。
「…私この後塾だぁ。まぁ、明日でもいいんじゃない。じゃあ折角だし、最初に解けた人にみんなが奢るってのはどう?」
「いいねいいね!おいらそういうの好き!あのー、じゃあ、宿題な!ナツミィ!ちゃんと考えてきてな!」
「オッケー。じゃ、俺も帰るかぁ。じゃな」
ばいばいって、手を振って、みんなが夕陽へと溶けてゆく。かさかさかさ。どこかのセカイからやってきた風が、黄金色に染まる河原のススキ達を撫でてゆく。
ぽた、ぽた。滴る雫が汗だったか、川の水だったかなんて、どうでも良かった。ぐしょ濡れの靴だって、ふやけた足の裏だって、何にも気になんてならなかった。
「ふふっ」
なんか…楽しかった。
小石を蹴ろうとした足を止めて、かかとをトントンしてしっかり靴を履いた。私の身長の2倍ぐらいに、影が伸びていた。そんな影に向かって、私は大人げないかもね、って、目を逸らしながらぼやいた。
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