あの日の事を毎日思い出す。毎日、毎日。毎晩ベッドに入るとき、私は私というスイッチを切る。そうでもしなければ、毎日見えない何かに胸を焼かれるように痛めつけられる。
子供にとって、母親といる期間が多いのは当たり前かな。そのせいで、そのおかげで、母親は子供に大きな影響を与える存在なんだ。だからお母さんをより大切に思った。お母さんの口癖は、優しくなりなさいだった。
優しくなりなさい。優しいって、どういう事?私はまだ幼かった。優しさの意味が、あまり分かってなかった。だから、言われた通りに振る舞うほか無かった。自分が悪くても、必ず謝る。人の話を最後まで聞いてあげる。いつもにこにこしている。誰かが困った時やいじめられてる時は、しっかり守ってあげる。周りの雰囲気を読み取って、しっかり判断して、誰一人傷付けない。
私だって子供だったんだ。お母さんがそういう事ばっかり言うから、それをしたら褒められるんだって思った。だから学校でよくやった。もちろん褒められた。成績表にも書かれた。お母さんもお父さんもたくさん褒めてくれた。いじめられてる子を助けた。いつも他人を気にかけた。悪口も愚痴も一切言わなかった。いつも自分を貶した。たとえスキじゃない子から告白されても、嬉しがった。
もちろん、はじめのうちは心があったかくて。みんながみんな、私にありがとうって言ってくれて嬉しかった。でもだんだん、私じゃない。私の瞳の奥の、見えない何かにお礼を言ってるだけだって気付いてしまった。家に帰ってきて、ランドセルを置いて、鏡の前で自分を褒める。偉いよ、私。今日もできた、って。いやじゃないもん。私、とっても偉いんだ。嫌じゃない。嫌じゃないよ。いや、いや、いやいや…
そうしてるうちに、涙が出てきた。学校での私は笑顔なのに、鏡の私は毎回泣いていた。たくさんの笑顔を貰ってるのに、私だけが宇宙にいて、とっても冷たく、そして煮えくり返るような感情がお腹の中でぐるぐるしていた。分かっていた。分かるさ。だって、本当の自分じゃないもの。だから私は、全部が全部、嫌になった。
だからほんの些細な出来事で、爆発してしまう。ましてや子供だったから。なんだったかな。もう覚えていない。なんで私がお母さんに突っ掛かったか。でもきっと、私が我慢しなきゃいけない場面だったと思う。叫んだんだ。大声で何かを。それで、私は家を飛び出た。5時の鐘が鳴ってたのに、何も持たないで玄関を飛び出てさ。家出。私は走った。
お母さんはもちろん待ちなさい、って追ってきたけど、私は構ってほしい気持ちもあって、ずっとずっと遠くの、お母さんの手の届かないところまで走っていった。がむしゃらだったから、どこまで行ったかは本当に覚えていない。ただ、ベンチに腰掛けて、道ゆく影を見つめながら、ただ一人夕焼けの中で…膝を抱えて待っていた。
来てくれる人を待って。
そんな、
そんな、
そんな…
そんな事をしてしまったから。
お母さんは、
死んでしまった。
寒いクリスマスの日。クリスマスに、私のお母さんは交通事故に遭ってしまった。
違う。
違う違う違う違う違う違う。
忘れてなんかいないんだ。共働きだった。だからクリスマスくらい、お父さんとお母さんに居てほしかった。でも、わがまま言っちゃいけない。弱いとこ見せちゃいけない。それが優しさだから。でも、でもでも。私だって8つの子供だったんだ。
お母さんが珍しく早く帰ってきた。だから嬉しくて嬉しくて、一緒にケーキ買いに行こうってはしゃいだんだ。でも、疲れてるから明日ねって言われて。私のために早く帰ってきてくれたんじゃないんだって悲しくなって。あんまりにも寂しくて、我慢ばっかして、本当の私を隠す事にうんざりしてて。
一緒にいてよって叫んで家を飛び出した。そのせいで。
生まれて初めて見る切ない雪にサイレンの音が紛れて、どこか永遠に届くことのない、ソラの世界へとお母さんは行ってしまった。私はかじかんだ手で救急車を外から叩いていた。体温のない救急車は冷たくて。たくさんの大人に体を掴まれて、私は泣いていた。
内臓が全部飛び出てしまうくらいに吐き気がして、たくさん暴れて擦り傷だらけになった。お父さんが焦燥と絶望と混沌と恐怖と…一生分が詰まった目で。私の肩を思いっきり掴んで、何があったんだって私に叫んだ。
私は震えていた。口が接着剤でくっつけられたように開かなかった。お父さんは大声で泣き崩れた。私が、お母さんを殺した。私のわがままで、お母さんが死んだ。お葬式の時。お父さんはお母さんの棺に突っ伏して、声はあげないで、唇を痛いくらいに噛み締めて棺を抱きしめて泣いていた。
私はその時、目の前がぼうっと、全て背景のように感じて、私自身を三人称で見ているような感じがして、不思議と冷静になってしまった。脊髄に氷を詰められて、悲しさよりも恐怖が勝ってしまう感覚を味わったお母さんの抜け殻。土気色とか、そんなんじゃない。
無。無だ。仰向けの、かつてお母さんだったその顔を覗いて、私はようやく私の罪を認識した。お葬式が終わって、家に帰って、ベッドに入る時になって、タイムスリップしたみたいにたくさんの感情が私になだれ込んで来た。ビリビリ頭痛を引き起こす電流が私の血管を貫いて、頭と体が攪拌されて、一筋の閃光とともに、私の頭が真っ黒に染まった。
夏美。おまえが、母親を殺した。おまえがこの家族の幸せを奪った。おまえがいなければ、おまえの母は死ななかっただろうに。モヤモヤした…顔が見えない、誰かだった。私は 何もかも失った瞳で答えた。なら、責任を持って死ぬって。でも、その誰かは私を許してくれなかった。
首をゆっくり振って、死ぬ事は許さない。許されない。それだけ言って、ふっ、と、私の目の前から消えていった。それから…それから。悲しさから目覚めた次の日、もうそこに私はいなかった。ベッドから起き上がっても、鏡は見なかった。引き裂かれたお腹から、ボドンと内臓が落ちた気がした。どうでもよかった。ショックでお酒に溺れるお父さん。
夜、すすり泣く音。散らかる部屋。そんなお父さんを見てて、私は罪悪感というもの以外の何も感じなかった。お父さん。元気出して。これは届かなかった。お父さん。お外に出ようよ。これも。お父さん、お父さん、お父さん…
どんな事も届かなかった。お母さんと一緒にいる時のお父さんはとっても幸せそうだった。だから、お母さんのしてくれた事を思い出してみた。ある日、私はおつかいをした。そしたらお父さんが、初めて喜んでくれた。次に、掃除をした。お父さんがまた喜んでくれた。
黒こげになった料理を作った。お父さんはもちろん喜んだ。お母さんの真似をしていけば、お父さんは必ず喜んでくれた。それからずっとお母さんの事を想った。香織さんは落ち着いてた。わがままじゃなかった。いつも遠慮してた。気付かないところで、人を支えていた。
いつも自分を犠牲にしていた。自分を最後にしていた。何があっても、ため息で自分をごまかしていた。それを通してわかった。皮肉にも、お母さんを殺した事によって、優しさの意味が分かってしまった。そこにいてほしい人になる事。そこに存在してほしい人になる事。言うならば。
代わりになる事。
これなんだ。私がお母さんの代わりになる事。お母さんみたいな人になる事。私が殺したお母さん。その償いは、私がしなきゃ。
私は。
もう。
「く、苦し」
私がそんな、遠い遠い日の旅路から帰ってきたのは、途中で殺されそうな私が見えたからだ。本当に苦しかった。冗談なしで殺されるかと思った。抱きしめられていた。骨が折れるくらい、強く。汚かった。鼻水と涙だらけで。
鼻をかんだティッシュみたいなくしゃくしゃの顔が。ネズミでも飲み込んだくらいの大きな唾が、私の首に伝わるくらい煩かった。引いちゃうくらいだった。そんな事漫画の子だってしない。大人だって子供だって絶対しない。ましてや女の子なんて尚更。なのに。
「い、痛い。茉莉ちゃん」
茉莉ちゃんは言葉を出さなかった。嗚咽みたいな呻き声みたいな、鳥の鳴き声みたいな…喉の潰れたおばあちゃんみたいな声を出すものだから。笑っちゃいそうだったけど、私は堪えた。虐待でもされたのってくらい、ボコボコになった顔で、茉莉ちゃんは私の顔を自分の胸に抱きしめた。喉が苦しいぐらい、私は抑え込まれた。
「ばかっ…ばかぁっ。言えよ、そのくらい…わかんないじゃないかぁ。ぶっちゃうじゃないかぁっ。話してよぉ、なつみぃっ」
「ごめん…」
生あったかい涙が、ぽたぽたと垂れてくる。ちょっと汚いなって思って抜け出ようとしたけど、抱きしめられて汗もかいてきたから、私はどっちでもいいなって諦めた。茉莉ちゃんがバンバンと、私の背中をあやすように叩く。
「なつみぃ。なつみぃ。いまあたし、何言ったらいいか分からない。こんな事しかできない。ぶってごめんね。何も知らなくてごめんね。分からなくてごめんね」
私は茉莉ちゃんにぶたれたから泣いたのに。茉莉ちゃんは自分から泣いた。初めて話せた。心の奥底の底まで。そして、この子。茉莉ちゃんは、私の為に泣いてくれていた。だから…泣きたくなるじゃんかぁ。私だって、もう限界なんだよ。
夕日が暮れていた。きらびやかに、去って行った。後ろで手を組んで、そんな夕日に寂しく背を向けながら…夜の風に吹かれながら、まるでこれから旅立つ人に語りかけるように、茉莉ちゃんは目を逸らして言った。
「あたし…何も言えない。自分を許してやりなよ、とか、夏美のせいじゃないとか、色々考えたの。でも、どれも空っぽ」
「うん。茉莉ちゃん」
「その先は言わないで。どうせ、ありがとう、でしょ。そうじゃない。そうじゃないの。それを夏美に言わせたら、またあんたどっかに行っちゃう」
「だれだって、いつかは」
「知ってる。でも、あたし、時間が欲しいの」
「時間…なんの時間?」
「あたし、行ってくるよ。だから、その間…あたしをお願い」
「どういう事…?」
「いいんだ。うん。急がなきゃ。じゃあね、夏美」
そう言って、茉莉ちゃんはまるでカミカクシの世界の一歩を踏み込むように…走っていった。他の世界とこの世界を繋げる道を踏むみたいに、力強く。意味が分からなかった。でも、嬉しかった。
夏が好きになった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!