胸の火薬が爆発した後の、火照った体と胸のモヤモヤが鬱陶しくて。あたしの足は風を求めて、夏美の家から飛び出した。全く訳の分からないアイツの言い草。あの冷たい、死んだような…いつかも見た、あの生きる事を捨てたような目。
と、玄関を出て、そのまま道路に出ようとした時だった。誰かとぶつかりそうになった。何よ、って言葉が飛び出そうになったけど、あたしはすぐにその口を閉じた。
大きいオトナの人。なんだかすごくやつれて曲がった腰で、おじいさんみたいな弱々しさ。なのに、無理に背を引っ張ってるような、アンバランスで全体的に頼りなさそうな雰囲気のヒト。もちろん、イライラ溜まってたあたしだったからいつもならオトナにでも邪魔!って言えたのだけれど。
薄べったいカバン持ってるオトナでしょ、そんな人と玄関ですれ違うなんて、夏美のパパって分かるでしょ。夏美とは似てなかったから、夏美はママ似なのね。どうでもいいけど。
「おぉ、すまない。あ、えっと、あれ、家を間違えたかな?」
「あ…えと、ごめんなさい。お邪魔しました、夏美の…パパ、さん?」
そう、パパ。お父さんとかバカオヤジとかじゃなくて、まさにパパって感じの人だった。家の表札を確認しようと、体をこちらに向けたまま首を後ろに、数歩下がった夏美のパパがぱっちり目を見開いて、私に振り向いた。それですぐ閃いて、分かりやすい顔で、口を大きく綻ばせた。
「あぁ!夏美の友達か!友達か!すまないすまない、いやいいんだ、別にもっと居てくれても。夏美と遊んでくれていたんだな、ありがとう」
子供のあたしに、まるで取引先にするように深々とお辞儀をするオトナ。あたしはただ夏美の事をぶっちゃっただけだったから、言葉を喉のすぐそこまで溜めながら、あっち向いたりこっち向いたりして戸惑っていた。
「あっ…えっと、それ、なんだけど…ちょっと、えと、あの…ここじゃ、なんか」
夏美のパパが不思議そうな顔をしているうちに、窓の奥で何かに気付いたような物音と動く影が見えたから、私は焦って夏美のパパの手を引いて、道路にそのまま飛び出した。
夏美っちって、時津川のすぐ近くにあるのよね。だから、道路に出たついでに、そのまま時津川の河原まで来ちゃった。お茶を濁そうかと思ったけど、あたし嘘つけないし絶対バレるタイプだから。夏美の家にもう一回行って謝る覚悟で、もどかしげな口をとうとう開けた。
「ごめんなさい。夏美のこと、ぶっちゃった」
きょとんとした顔をする夏美のパパ。疲れた目をぎょろっと、さっきよりも瞳孔が大きく、でもその奥に別に軽蔑や憎悪があるわけでもなくて、なんだか夕日を見つめるような光沢のある瞳だった。
普通のパパなら、少し顔を引きつらせて、あぁ大丈夫さ、なんて心にも思ってない事を言う。もしくは怒る。でも夏美のパパは違った。口と眉が緩んだ。だから私自身、えっ、って感じの反応だった。
「そうか。…そうか。そうか。君のおかげだったんだな。ありがとう」
「え?どういう事?あたし、夏美ぶっちゃったんだよ?何で怒らないの?」
そうあたしが言っても、夏美のパパはクスっと笑って、遠くの地平線を、けれどもっと…その先の何かを見つめる瞳で物思いに浸っていた。だからますます、何で私に怒らないのか、夏美の事大事にしてないのかなって思ったら、また声が出ちゃった。
「夏美のパパは、夏美の事が大切じゃないの…?」
夕日が陰って、それまで眩しくてあまり見えなかった夏美のパパの輪郭がはっきり見えてくる。それまで笑っていた口をゆっくりと閉じていって、しゅんとしたような怒っているような呆れてるような…子供のあたしには分からない顔に戻っていった。
まずかったかな、って思いつつ、でもやっぱりそこを聞かずにはいられなかった。友達と喧嘩して、友達をよく分からない気持ちでぶっちゃったのは初めてだったから。友達に言いくるめられそうになったのは初めてだったから。分からないって感情が引っかかるから。
「大切さ。この世のどんなものよりも」
じゃあどうして、って言おうとした。あたし、すぐ飛びかかろうとするから。でも、さっきのバカ夏美の事を思い出した。それで、夏美の家庭事情がなんとなく複雑な事が分かった。だから、ちょっとはモノを考えようとして、口を閉じた。でもやっぱ子供だったから。
「…夏美、苦しそう」
それだけは伝えたかった。
「分かっているさ。もちろん。子供の君が気付くくらいに。…すまなかったね。もし良かったら、また夏美と遊んでやってな」
そう言って、あたしと夏美のパパはそこで別れた。しばらく歩いた後、帰っていく夏美のパパを怒ってないか確認しようと振り返った。
あの場所から一歩も動かないで、空を見つめていた。
いつかの、あたしみたいに。
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