「どうだ夏美!楽しかっただろ!」
「夏美ちゃんごめんなさいねぇ。毎日のように連れ出しちゃって。お父さん、夏美ちゃんみたいに気を遣えないから困るのよ」
「い、いえ!とっても、楽しかったです。こんな、毎日お洗濯もご飯も作って貰っちゃって…すみません」
「まぁ〜たおめぇは謙虚なんだからよぉ!そうだ、謝るくらいなら酌でもしろってんだ!母さん、ビールビール」
とうとう最終日が来た。あれから早くも、1週間が経った。今日の晩ご飯は、私が家で食べたいって言ったから、茉莉ちゃんのお母さんが腕によりをかけて沢山拵えてくれた。唐揚げに鯛のお刺身、ナスのお浸しにじゃがいもと玉ねぎのお味噌汁。どれも美味しそうだった。
茉莉ちゃんの家は、とっても新鮮だった。茉莉ちゃんのお父さんはちょっとデリカシーが無くて、お風呂からもそのまま裸で出てきちゃう人で。その度お母さんにパコっと殴られて、だっはっはってビール片手に笑ってた。
お母さんは、おしとやかで上品で、こういう人って絶対気取ってて腹黒そうって警戒して(私が勝手に)。初めはとっても関わりにくかった。だけど、私が料理をしてる時に、一緒に包丁を握ってくれたり、私の知らないコツや節約だとか教えてくれて、何をやっても頭を撫でてくれた。
つい包丁で指を切っちゃった時も、しっかり消毒してくれて、とっても面倒見が良くて暖かい人だった。気を遣ってる顔じゃない。子供を子供として見てくれる顔をいつもしていた。子供を、すみっこの家具のように、けれど決してその存在を忘れていない、そんな雰囲気だった。
だからとっても楽しかった。とっても居心地が良かった。茉莉ちゃんの両親が家事をやったりしてる時、私は久しぶりにぐでんと寝転べた。でも、結局そわそわして何もしなかったんだけどね。茉莉ちゃんのお父さんが、食え食えって私のお皿に沢山唐揚げを盛ってくれる。
「あの…本当に、楽しかったです。私、多分今までの夏休みで…1番、楽しかったかも。本当に、ありがとうございました」
お味噌汁に映る私の顔を見て、私はそう言った。そう。これは心から想ってる時の顔。夏美の顔。帰りたくない、って思うくらいに。
「いいのよ、夏美ちゃんはこれでもかってくらい頑張ってるんだから。たまには、息抜きしないと」
「そうだ夏美ぃ、うちのバカとは比べモンにならないくらい、お前はえれぇんだぞ!自信持て!」
うるっと来てしまった。だって、私は今まで、お父さんにしか褒められた事なかったから。誰だってそう。大変だね、っていう哀れな目でしか私を見ない。
それにお父さんの言葉はカウントしてなかった。親の褒め言葉は褒められたに入らないし、何より私は…褒められるどころか、軽蔑されるであろう事をしでかしているのだから。
それなのに。茉莉ちゃんのお母さんとお父さんが、本当に感心した様子で私を褒めるから。嬉しくて、自信が出るくらい…自分の罪を忘れるくらいに、この家族に生まれたかったって思うくらい…楽しかった。
帰りたくない。ただ、これだけが私に残った。帰りたくない帰りたくない帰りたくない。この家族の中にいたい。茉莉ちゃんのお姉ちゃんになって、この家族で過ごしたい。
はっきり言って、お父さんが嫌いになっていた。お父さんに私はあの日の事を話せていなかった。私が飛び出したせいで、お母さんが死んでしまった事。お父さんは私を恨むに違いない。それにもし言えても。家族だからこそ、親だからこそ、その事を口に出せず、永遠に過ごすんじゃないかって。
それにお父さんは私の事を大事に思ってるかすら分からない。お父さんは娘の私を、私のお母さん…香織さんに重ねたいだけじゃないかって。お母さんだって、私を恨んでいるんだ。きっと。
だからいつだってそうだ。私は家族すら信用出来なくなってしまった。居場所が無かった。苦しかった。毎日毎日、いつも1人だった。罪悪感に蝕まれる日々。心はすっからかんで。だから、私はぽろっと、つい言ってしまった。
「帰りたくない…」
心の底からの泣き言。甘え。願望。懺悔からの逃走。それまでは陽気だったお父さんも、お母さんの顔をちらっと見て、黙った。お母さんは、悲しそうな顔で娘に言った。
「ごめんね。茉莉から色々聞いてて、夏美ちゃんの事。ちょっと…残酷だったかも。夏美ちゃんをこの家に呼んだの」
「…」
「…お、俺ぁ上手い事言えねーけどよ。夏美ぃ、少なくとも、気を遣う家族なんて家族じゃねえんだ。思いやる、ってのとは全くの別物なんだよ」
「でも…」
「夏美ちゃん。夏美ちゃんの事、知った訳じゃないの。でもね、家族なら。言いたい事は言わなきゃ。あなたは子供なのよ」
優しく、本当のお母さんのように心配してくれる、茉莉ちゃんのお母さん。緩んだ。緩んじゃった。完全に心が。私は潤む瞳をぐっと堪えて、歯を食いしばった。吐き出しそうになった後悔を、懺悔を、苦しみを。喉で留めて飲み込もうとして…ダメだった。
「それが、とっても罪な事でも、ですか…?」
私はトーンを低くして、俯いてそう言った。もう限界だった。吐き出したら止まらない。止められない。夏美に戻っちゃったら、タガが外れてしまう。
お父さんに一度でも言いたかった事。死んだお母さんに一度でも聞きたかった事。私、日向夏美に一度でも忘れさせたかった事。私の中で走馬灯のように、あるかもしれなかった未来のビジョンが思い浮かんだ。茉莉ちゃんのお父さんとお母さんは目配せしていた。それで、しばらくした後、2人で頭を撫でてくれた。お母さんはなでなで。お父さんはわしゃわしゃ。
それがとっても哀しくて。じわぁと涙が溢れてきて。
「夏美ぃ。尚更、それぁ話すべき事じゃねえか。ウチのバカを見ろ。せいせいするくらい、自分勝手なんだよ。でも、そうでなきゃ。話すと楽な事なんて、世の中たくさんあンだからよぉ」
「夏美ちゃん。人様の家庭事情に首を突っ込むなんて差し出がましいけど、それでも言うわ。苦しいなら、一回吐いて楽になりなさい。全部、ぶちまけちゃいなさい。その方が、よっぽど体にいいんだから」
お母さんが私の瞳の、黒目の奥底を見つめて言ってくれる。誰も向けてくれなかった、この瞳。誰も気にかけない宇宙を、地上の望遠鏡でわざわざ覗いて、あれはこういう星なんだよ、って、名前を呼んで見つけてくれる瞳。だから、私の涙腺は。
「私…私っ。わたし、やだぁ。お母さん死んじゃったの。やだぁ。もう、お洗濯も料理も何もやりたくない。このお家に住みたい。いやだぁ」
また夏美が出てきた。私は両手で涙を必死に抑えようとはしたのだけれど、お箸を握る手も、お茶碗を持つ手のどちらも動かなかった。だから視界がどんどん濁る。
「いいのよ、それが当たり前なんだから。もしそれで、どうしようもなくなっちゃったら、ウチに来なさい。いつでも歓迎よ」
お父さんが私の顔を見て、静かに泣いていた。父親が泣く。それが新鮮で、私はもっともっと悲しくなった。
「泣きゃあいいんだよ。苦しい時は。もっと、人に頼っていいんだ、夏美」
はしたない。汚い。口に入れたご飯を溢れないように、私は泣いてしまった。ぼろぼろ涙が溢れて、お茶碗に入ってしまった。お母さんが袖で、私の涙を拭いてくれた。お父さんがティッシュをとってくれて、チーンってしてくれた。結局、私が泣き止むまで、お父さんとお母さんは私をあやしてくれた。一度ピタッと泣き止んで、ごめんなさい、大丈夫です、って言った矢先、もう一回泣いてしまっても。
だから、せめて。もう明日帰るなら。明日、私は香織さんに戻るのなら。もう二度と、夏美に戻る事が出来ないなら。
わがままを聞いてもらいたかった。私の本当のお父さんとお母さんに。寝る時、お母さんに本を読み聞かせてもらった。お父さんには、私が寝付くまでおんぶしてもらった。こんなの、12の子が頼む事じゃない。だけれど、私は赤ちゃんのようにワガママになってしまった。
私は、8つの時にナをツまれてしまった。だからこうやって、甘えてしまった。退行してしまった。それを決して嫌がる事もしないで、本当に楽しそうに、茉莉ちゃんのお父さんとお母さんが笑ってくれる。だから私も嬉しくなって。もっと、もっと、って、駄々を捏ねてしまった。情けないくらい。
この夏は、随分泣き虫になった。
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