私はトモヒコくんの置いていった虫網と虫カゴを両手で抱えて、教室を飛び出た。だんだんだん、と、音を立てて下から誰かが来る。もちろんその足音は怒りに満ちていた。一階下まで、音が近付いてきた。
体を左右交互に振り回して、どうしようって躊躇していたけど、おい、と、踊り場らへんから怒号が放たれた。私は急いで階段を上がった。もちろん下から来てる先生もそれに気付いて、速度をあげて付いてきた。網も虫カゴも捨てちゃって、がむしゃらに逃げる。
「待てと、いっているだろうが!ええい、待たんか!」
「いやいや!いやいやいや、嫌嫌!!!」
叫ばなければいいのに。自分がやったって言っているようなものじゃん。そんな事も考えられないくらい、私は涙目で、必死に上へ上へと階段を駆けていった。
…まずい、チェックメイト。どうやら最上階まで来てしまったらしい。上へと続く階段にシャッターが下りていた。どうしよう、どうしよう…
私は仕方なく目の前の女子トイレに入った。どしどしどし。足音が近付いてくる。まずいまずいって。あぁ、トイレに入るんじゃなくて廊下を駆けていくべきだった。このままトイレの個室に隠れてもバレる。
間違った!完全に行き止まり!私、これでまた注目されたら、完全に変人じゃん!浮くってレベルじゃないじゃん!
泣きたくなるような状況。髪を思い切りわしゃわしゃする。あたりを早く見渡す。私の目に小さな窓がうつる。急いで鍵を開けて、ガララと横にスライドさせて、下を見ると同時に…ゾッとした。どう見ても無理。絶対死ぬ高さだよ、これ。
どうしよう、それをやったのは私じゃないけど、虫網と虫カゴを持ってたもの。疑われてまず仕方ないし、第一絶対信じてくれない。もう、謝る?今、私はすでに王手の状態。それとも逃げる?いや、もう諦めた方が。
迫る足音は更に加速する。
来てる!
謝る準備に入った時に、1番奥の個室が木の板で封鎖されてる事に気付いた。やだ。そうだよ、大人が信じてくれるわけない!気付くわけない!こっちはいつも気付いてほしいのに!
私はとっさに、その個室の隣の部屋に入った。和式トイレのぽっこり膨らんでる所に足をかけて、続けてトイレットペーパーを取り付ける金属に飛び乗って、そのまま思いっきり上にジャンプ。
びたんと両手を衝立のてっぺんにかけて、歯を食いしばってお腹に力を入れて、じたばたじたばた足を動かしてなんとか登ろうとする。もう足音は廊下まで来てる。ふん、と踏ん張るのだけれど、か弱い私の手は頑張ってくれない。ずるっと、また滑ったせいで、完全に位置が把握されてしまった。
「ようやく見つけたぞ!トイレだな!」
涙目になって、最後の力を振り絞って、ようやく隣の個室に落ちる。どんがらがっしゃん。タンクに足をかけようとしたけれど、私はもちろん踏み外した。大きな音を立ててしまった。完全にバレた。
「おい!今見えたぞ、ムスメ!!ここにいるな!10数えるうちにさっさと出てこい!!!これ!!」
もう絶対血眼になってるよ。こういうのを怒髪天って言うんだ。ドンドンなんて可愛いものじゃない。ドガァンズガァンって感じで私のいる個室を殴ってきて、その修羅の如く鳴り止まない大砲の轟音に、私は耳を塞いだ。
しゃがみこんで顔を膝にうずめて、出来たのはゴメンナサイって泣きじゃくる事だけ。生温かい涙が私の膝を濡らす。頭がぐわんぐわんとして、吐き気を誘うめまいが起きる。プルプル震える足に力が入らなくなって、曲げた足がどんどん広がって、ぺたりとお尻が床についてしまった。少ないもみあげを引きちぎるぐらいに、汗ばむ両手に力が入っていた。
「いっ、いやぁ…いやいや、許してぇ!」
「なぁにがじゃ!えい、言い訳せんで、とっととここを開けい!」
うぅ、うぅ。あぁ、終わった。終わったよぅ。お父さんも呼ばれて、家族会議だ。警察も来て、きっと逮捕されちゃうんだ。全校集会で、私の事が話されちゃう。新聞にも載っちゃう。どうしようどうしようどうしよう。あぁ、神さま、今すぐ私を助けて。
集中砲火が鳴り止んだ。板一枚の向こう側から、ぜぇぜぇと大きな息遣い。諦めてくれたかな、なんて一瞬は思った。でも次の瞬間、すぐにさぁっと血の気が引いた。
「そこで待っとれよ!すぐに他の先生を呼んでくるからの!!絶対逃がさんぞ!!」
ずかずかずか。足音が遠のいてく。板で固定されてるから、開けるにはバールのようなものが必要だ。今のうちだ!
って思った矢先、プルルルル。携帯の話し声が聞こえた。あぁそうだ、わざわざ下に行かなくても、こんな文明の利器があるんだ。今は。すぐそこの階段で話し始めた。下への出口が塞がれた。
くしゃくしゃになった顔で、上を見る。嗚咽が個室に響く。外にいる先生も、私に聞こえるようにわざとらしく大きな声で話している。私の反応を楽しんでるんだ。嫌な大人。もう全部が終わった。そう思った時だった。
鼻水をすすって涙を拭いた時だった。天井。なんだかぼんやりと線が見えた。白く塗られててかなり分かりづらいけど、確かに線…そこに多分、換気扇でも点検口でも付けようとしてたのか、四角く切り取られたような跡。
子供はとても目が良い。取手があったであろう、ほんの少しの凹み。迷ってる暇なんか無かった。余裕をかました怒髪天が、ぶらぶら遠くに歩きながら携帯に集中してるのを私は聞き逃さなかった。
タンクに足をかけて、衝立のてっぺんに無理な姿勢で跨った。やっぱり。かしかし天井を撫でると、その凹みに手がひっかかった。ここだ。もうここしかない。
えいっ、と、その凹みに力を入れてみると、バカァっと、埃をたくさんまぶしながら、その秘密の扉が開いた。幸い、扉が開ききらない為の、途中で支える金具があったおかげで音は響かなかった。奥を覗くと、ずいぶん足の短いハシゴがかかっていた。神さま!!これなら、多分。
「あぁ、松戸先生、橋下先生。来てください。こっちです、こっち」
階段からの声。遠い声。絶対、この瞬間。下から上がってきた先生達に早く会うために、踊り場まで怒髪天が降りてったこの瞬間。
この瞬間!!!
私はそのハシゴになんとか手を伸ばして、筋肉痛をも厭わない、最後の力の絞りカスを更に絞って、その狭すぎる空間に入った。指が挟まりそうになる、その扉を支える金具に手をかけて。うんしょと上に持ち上げて、カチャリ。右手ハシゴに両足ハシゴ、左手でなんとか蓋を閉める。ボールになるように、セミの幼虫になるように、その狭く息苦しい空間に身を収めた。
どたどたどた。すぐに、下が騒がしくなる。四肢でハシゴに捕まってる事以外、何も分からない真っ暗闇。光が入ってこないで、もし入ってきたら、なんて、ただ祈る事しか出来ない状態。
ばき。下の扉の板が剥がされる音。
ドッドッドッド、ドッドッドッド。
この数日で、私は何回心臓に負担をかければいいのだろう。すぐ真下。扉一枚隔てたそこに、無数の生体電気。人の気配がびんびん伝わってくる。息を殺して、水泳のように目をギュッとつむる。
お願いお願いお願い。上を見ないで。見たら私、上から落ちちゃうよ。
握ったハシゴが手汗でぬるっとして、危なく滑りそうになる。プルプル足も震えて、壁につけた背中がミシッと音を立てそうになる。たらりと落ちそうになる汗を舌で舐めて、その舌を歯でギュウっと固定してしまう。早く早く、出て行って。
扉がとうとう開く。過呼吸にならんばかりの勢いで、私の心臓が躍動する。下で、ぬるりぬるりと、舐め回すような足音が這ってゆく。ハシゴを掴んでる両手に顔をうずめて、必死に震えを抑えようとする。暗い、黒いままでいて。光なんかいらない。私をこの宇宙にいさせて。
大人は背が高い。だから、私が入ってるここ。ここと大人の頭の距離なんか、せいぜい60cmぐらい。たとえ目が悪くとも、上を向いただけで私は見つかる。
もうどのくらい経ったのだろう。そんな、1分が100万年ぐらいに感じて。とうとう下の方で、怒髪天に対しての疑いの声が出た。私は瞑っていた目をぱち、と、大きく見開き口を緩ませた。
ガラガラガラ。チャリチャリした鍵の音が聞こえて、次に扉の開く音。階段に近い所の教室から調べてくつもりだ。もう体力の限界だった私は、右手で蓋を開けて、ハシゴに手をかけながら、音を立てないようにタンクへと、ふわっと足を乗せる。板を外してくれたおかげで、私はすんなりそのトイレから出られた。
鍵の音が隣の隣の教室まで遠のくのを聞いてから、柱の陰から先生達を覗いた。先生達が一歩を教室に踏み入れた瞬間に、私は抜き足差し足で、階段を降りていった。
とん、とん、とん、だん、だん、だだだだ。
震える足を加速させて、脱獄犯のように階段を駆け下りてゆく。嫌な汗が良い汗に早変わり。やったやったやった、って感じで、校門に着いた。ランドセルを奪うように拾い上げて、マツリちゃんぐらいに意地の悪い笑みを浮かべて。
「ばぁーか!ザマアミロ!」
って、人生最高の喜びを大声にして叫んだ。周りの大人達が、動物を見るような目で私を見る。恥ずかしくなかった。私はぴょんぴょん跳ねて、くるくる回りながら、学校から逃げていった。身軽にスキップ。腕をぶんぶん振り上げて、汗をそこらに飛ばしてゆく。はたから見たらとんでもない変人だけど、そんな事なんか吹っ飛ぶくらい気持ち良くて、嬉しかった。
いつもなら横断歩道を渡るのだけれど。私は歩道橋を2段飛ばしで上がって行き、歩道橋のど真ん中に立った。手すりに両手をかけて、まだ収まらない高揚をもっともっと続けさせるために、柵に足をかけて得意そうにあたりを見渡した。
夕焼けが綺麗だった。風がとっても涼しくて、心地良かった。べったりした嫌な汗が、一日終わったっていう満足に変わった。行き交う車の風を感じる余裕すらあった。
しばらくそこにいたら、信号が赤になって。止まってる車の目線が気になって、ようやく熱が冷めた時だった。すぐ近くの、開けた庭があるお屋敷っぽい所。どこかで見た事のある、わんぱくそうな少年。じっと空を見つめて、微動だにしていない…トモヒコくんがいた。
ぱぁっ。この今のはちきれないばかりの高ぶりを、武勇を、喜びを、誰かに話したい。おーい、おーい、なんて叫びながら、私は歩道橋を降りていった。
「トモヒコくん!こんな所にいたの。聞いてよ、私ね、すごく大変だったんだよ。トモヒコくんがあんな事するから…」
そう話しかけた所で、私はトモヒコくんが私に目もくれないで空を見上げている事に気付いた。何かを一心不乱に見つめて、目を細めていた。はじめは人の家(人の家だけど)かと思ったけど、近付いて見れば、木のツルが生い茂ったまま、手入れもされてないただのハイオクだった。
トモヒコくんの目線の先。空…いや違った。風見鶏だった。キィキィ音を立てて、風に気ままに揺られていた。刹那、トモヒコくんが、あぁ、と、短く叫んだ。キラッと空中に、ナナイロ流れ星。逃げた玉虫がそこにいたのだ。
トモヒコくんはガックリ肩を落として、玉虫の後を目で追うのもやめて、でも諦めきれない様子で、ようやく私に気付いた。慰めたくなるような、しょぼんとした顔。疲れを知らない男の子がため息なんてつくものだから、より一層励ましたくなった。
「…いなくなっちゃったね」
「行っちゃった…」
「…残念だったね」
「…」
「まぁ、次、一緒に取ろうよ。私も手伝うからさ。いなくなったものはしょうがないよ」
「ううん…」
トモヒコくんが呼吸を整えて、空を仰ぎ見た。
「いなくなったんじゃない。見失っただけ」
伏せていた目を、つい上げてしまった。友彦くんは真剣な目で、空を見ていた。誰に言ってるのかわからない口調で、まるで空に言い聞かせているように、寂しく。私も一緒になって、その玉虫のいた空を見上げた。
私は口を開こうとして、やっぱり閉じた。居なくなったわけじゃない。見失っただけ。何故か分からないけど、その言葉が私の中で何度も響いていた。
きぃきぃ、と、風見鶏が、虚しく揺れていた。私もちょっとため息をついて、友彦くんにそうだね、って言った。友彦くんに親近感のようなものが湧いて、なんだか妙に納得していた。
「あ、あぁ、くっそ!でも、惜しかったんだよー!何度も何度も、捕まえるチャンス、あったのに!」
まるで魂が入れ替わったかのように、友彦くんは一気に子供らしくなった。頭をわしゃわしゃしながら、たくさんの文句を空にぶちまけていた。
それにしても風見鶏って久しぶりに見た。風見鶏から伸びた影を見つめてる時だった。S、W、N、E。それぞれがどこだっけ、って、復習してた時だった。S、W、E、N。SWEN。
あ。私はポケットに入れていた、くしゃっとしたのをさらに折り目をつけてくしゃくしゃにしてしまった紙の切れ端を広げた。鉛筆だから多少掠れてしまったものの、確かにそこにはそう書いてあった。す…すう?スウェ、スウェ…SWEN。もしかして、スウェン。あっ!そっか!夕方の鐘が鳴ってる頃には、風見鶏の影も伸びて…
「ねぇ、トモヒコくん!これさこれさ!にわとりって、あの子の事じゃない!?エス、ダブリュー、イー、エヌ!スウェン!」
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