夏美のパパは優しかった。びっくりするくらいに。あたしが女の子って事もあって、毎回温泉に連れてってくれたし、何より素直だって褒めてくれたの、とっても嬉しかった。色んなところに連れてってもらえた。アスレチック、ケロッとピューロランド、大型ショッピングモール…老舗のお寿司屋さんで、ちょっと高いのを頼んじゃったのは夏美には秘密。
あたしが泊まりたいってワガママ言ったのに。コインランドリーであたしの服や下着をわざわざ別々にしてくれたし。さすがに何かやらなきゃな、って思って、柄にもなく料理をしてみたのだけれど。あたし器用じゃないし。
初めて作った麻婆豆腐。
片栗粉の量間違っちゃって。ゴタゴタになっちゃって。食材は焦げるわ指は切るわで。ちなみにお皿のヒビは隠しちゃった。そんなグダグダなあたしにも、嫌な顔一つしないし、ワガママだらけでも付き合ってくれた。そりゃ、友達の親だからかもしれないけど。
優しいパパ。夏美の事を褒めてるパパ。やっぱり確信した。夏美のパパは夏美が嫌いなんじゃない。夏美の事を本当に大事に思ってるんだ。そう思ったからこそ…お節介かもしれないけど、あたしがこの家族の力になれるなら…夏美のわだかまりを取ってあげたいと思った。だから最終日。あたしは、覚悟を決めた。
「しかし、最終日に散歩なんかでいいのかい?」
「いーの。あたしいつも、休日は親に付き合えって言われて連れ回されるし。たまにはのんびり過ごしたい」
「はは。そうか、君でもそう思う時はあるんだな。てっきり、疲れ知らずだと思っていた」
夕暮れの時津川。あたしにとっては別に珍しくは無かったのだけれど。そんな川を、夏美のパパは珍しそうに、懐かしむように眺めていた。
「あたし、わがままだったでしょ。家事もなんもやんないし、料理下手っぴだし、お菓子買ってだのコンビニ寄ってだの。迷惑だった?」
パパを覗く。本当に全然気にしてなさそうだった。
「迷惑ではないな。むしろ、子供が2人いればと思ったんだ。君みたいに、素直な子がね」
ここのタイミングかな。ここで言うべきなのかな。もし、夏美のパパが気付いていないなら。あたしは意を決した。言う。言うんだ、茉莉。
ドキドキする心臓を少し落ち着かせて、間を待った。夏美のパパが、あたしの顔を見るのを待って。
「でも、これが普通なんだよ?」
夏美のパパは少し、動揺したように。ピタと足を止めて、私の方を見ないで…頭の中で反芻しているように。あたしは続けた。
「パパ。これが、普通の、12の子供なんだよ。家事もやらないしわがままばっか言うし料理は失敗するし、気も遣えないんだよ」
夏美が頑張ってる事を、さりげなく伝えた。
「…そうか。そう、だな。あぁそうだ、私も12の時はそうだった。忘れていた。夏美は、頑張ってくれているんだったな。気付かなかった。茉莉くん、子供の君に…すまない」
まだ、気付いてない。ええい。あたしはもっと踏み込んだ。
「パパ。お母さんがいないって、すごく寂しいの。すごく辛いの。一人っ子なら、お父さんを支えてあげなきゃ、って、必ず頑張るの。自分を殺してでも」
「もちろん、分かっているさ。夏美にはいつも寂しい思いをさせてる。苦労をかけてる」
「そうじゃないの、パパ。ごめんなさい、生意気で。でも、あたしもっと…オトナの話、したいんだ。子供だから、って、そう考えないでほしいんだ。あたしの事」
普通、そう言ったら、ガキが、とか、大人の気持ちも知らないくせに、って、誰だってそう思う。でも、夏美のパパと初めて会った時からだけど…夏美のパパは、真剣な話になると、子供でもしっかりと相手にしてくれる人だった。
「そうか…君は、きっとそういう話が分かる子なんだな」
大きく深呼吸をして、空を見上げる夏美のパパ。夏美のパパが、重い口を、ようやく開いた。
「だからこそ、再婚はするべきなのだろう。しかし、私自身の感情もあるが、何より夏美がそれをどう思うかが…私には分からない。夏美は優しい子なんだ。裏を返せば…良くも悪くも、騙す事が上手という事なんだ。来年、夏美は中学生だ。これから忙しくなるのに、このままじゃ」
「違うの!!」
あたしは夏美のパパの手を、思いっきりギュッと握った。驚いたパパが、後ろによろめいた。これを言ったら。言ったら。たぶん、最悪家族が壊れちゃう。この発言で、夏美の周りも夏美もおかしくなる。でも、あの夏美の死んだような、光沢を失った目。あたしはあれが、夕日を映さなくなるのだけは阻止したかった。
だから、パパに食い入るように。
「夏美のパパは勘違いしてる!夏美が苦しんでるのは夏美のお母さんが居なくなった事じゃない!自分がお母さんを殺したって、そう思ってるの!だから自分が代わりになる事が苦しくて苦しくて!毎日胸が張り裂けそうな思いで生きてるの!!!」
「夏美が…香織を殺した…?」
映画みたいに私をゆっくり、けれどキッと睨みつけるような、迫真の顔だった。
「ごめん。たぶん、夏美があたしだけに話してくれた事なんだけど…言わないほうが、良かったかも。だけど、あたし」
「茉莉くん。すまない、詳しく教えてくれ。どういう事なんだ、夏美が香織を…母さんを殺したっていうのは」
あたしの肩を掴むパパ。その顔は恐怖に満ちていた。
「パパ。パパに…夏美の事、分かってほしいの」
夏美があたしに語ったみたいに、あたしは夏美の言葉を丁寧に思い出して、一つずつ夏美のパパに説明した。夏美はお母さんを殺したって思ってる事。代わりになる事に必死で、自分を押し殺している事。もう…諦めかけてる事。
あたしにはもう解決出来ない。あたしは子供だから、そこだけオトナの夏美には、何の言葉も届かない。子供のあたしに、言葉選びなんか出来なかった。家族でもなかったから。だから、最後の頼みの綱…パパに頼むしか無かった。
パパは終始、真剣な顔で、相槌もなにも打たなかった。ただ、黙って聞いていた。時折、メガネを片手で外して鼻骨に手を当てて。結んだ唇を更に奥に飲み込んで。河原の丘に腰をかけて、あたしは全部を話した。それから夏美のパパが口を開けたのは、あんまりにも長い沈黙が続いたから、あたしがえっと、とか、あの、とか、ぼそぼそ言ってる時だった。
「…すまない、茉莉くん。君は、いい子じゃなかったみたいだ。ありがとう」
えっ。
夏美のパパは立ち上がった。いつもは仕草だとか、言葉の一つ一つに気を遣ってくれるパパ。そんなパパが、突き放したような暗いような、諦めたような…よく分からない声でそんな事を言った。
あたしは、バツの悪そうな顔をして、あぁ、やっちゃった、って、地面に置いた手を離せなかった。代わりに、ギュウ、ブチブチってそこらの雑草に八つ当たりしてしまった。ふらふら歩き始める夏美のパパ。あたしに目もくれず、夕陽に向かっていく。追いかけようとした。足が動かなかった。前以外の全方向なら、そのまま逃げ出せるくらいにエンジンがかかっていた。
早かったんだ。あたしがこんな話に首を突っ込むの。あぁ、神様!時間を戻せるのなら、戻して。夏美のパパからこの記憶を消して。夏美のお母さんを連れ戻して。あぁもう、やっちゃったよ、バカ。
それから先。パパはあんまり話さなかった。すんごく気まずかった。あたしは1週間の居候の身だし。パパの用意してくれたご飯もササッと食べちゃって、逃げるように夏美の部屋に戻っていった。
夏美の部屋に戻ってすぐ、あたしは机に突っ伏して頭を抱えた。エアコンも着けないで、蒸し蒸しした部屋の中。カーテンも開けない真っ暗な部屋の中。ものすごく長いため息をついた。あたしバカだった。そうだ、そうだ。事情も何にも知らないただのガキが、解決出来る問題じゃないし首を突っ込む問題じゃない。
あたしなんで、あんな自信満々だったの。
オトナになった今だからこそ分かるけれど、子供って本当に、純粋なのよね。自分1人で物事を変えられる、自分は勇者だ、何でも出来るっていう自信に満ち満ちてる。失敗しても不安があっても、こんな世界間違ってるって、いつまでも自分を信じる。正しいと思ったら、ヒロイックな気分で物事に噛みつく。
伸ばし切った腕を机の上で組んで、その中に顔を埋めるようにした。けれど暑くて、顔だけ横にした時だった。ほっぺにざりっとした感覚。毎日着けてて、それがルーティンになっちゃってて、全く気付かなかった手首の感覚。
カナのミサンガ。あたしの誕生日に、カナが作ってくれたミサンガ。貧乏だからごめんね、手作りなんだ、って、申し訳なさそうにあたしにくれた。もう、自分を否定してしか生きてけない、あの顔。とっくに色あせて、所々ほつれて、洗う事すら躊躇うくらいに、毎日大事に着けてた。
カナ。ごめん、あたし…また、あんたみたいな奴を助けられないのかも。あたし、こんなにも無力で世間知らずなんだ。カナが死んじゃって当たり前。あたし、こんな人の感情も分からない、ただのワガママ娘だったんだ。
こんなに暑いのに、エアコンに手が届かない。うつらうつらとしてきて、椅子の上なのにまぶたが重くなる。汗でペタペタしてるのに、お風呂にいく気力も出ない。
ごめん。ごめんね、夏美、カナ…
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