私立探偵の硲裕葵は、ぼくの大学の一年のときに同じゼミに在籍した男で、同じゼミ生たちが揃って二年に進級する中でひとりだけ大学を自主退学した男だった。
退学して間もなく、下宿先のマンションの部屋をそのまま探偵事務所とし、探偵業を営んでいる。学生であった頃から変わった男だったが、本当に変 わっているのは、依頼人が彼に依頼を持ち込んだとき、彼はその依頼をすでに把握しており、その回答までも用意している、ということだった。
ぼくの今回の依頼も例外ではなかった。
「千のコスモ学園の生徒手帳は偽造防止のためのあるしかけがほどこされている。十年ほど前に、どこからか制服を手に入れた他校の女子中学生たちが 援助交際という名の売春行為に手を染める、という事件があってね。その対策の一環としてね。今君の手元にある生徒手帳が本物かどうか確かめるには、君の部 屋には確かファックスを兼ねた電話が置かれていたね」
この探偵は、一度も訪れたことのないぼくの部屋の電話機の種類までも把握しているのだ。
「コピーもできたはずだ、してみるといい」
ぼくは探偵に言われるまま、生徒手帳をコピーにかけた。
「正しく印刷されているなら、それは偽物。プラネタリウムの星空のようなノイズがあるなら」
出力された感熱紙には、探偵の言う通りノイズがあった。
「それは本物の生徒手帳だということだよ」
一体どういうことだろう。
少女は千のコスモ学園に在籍していない。
けれど少女の持つ生徒手帳は本物なのだ。
「報酬のことだけど……」
探偵は言いづらそうに報酬という言葉を口にした。
「わかってる。朝比奈みくるのフィギュアだろ」
「文化祭の映画の、ウェイトレス姿のやつを頼む」
依頼解決の報酬に、美少女フィギュアを所望する探偵をぼくは彼の他に知らない。もっとも、犯人がすでに名乗りを挙げているにも関わらず33分間事件の解決をひきのばす探偵もいるような時代だから、おかしなことではないのかもしれない。
「もうひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「みくるちゃんのフィギュアが先だ」
こういう男なのである。
「それじゃまた何か知りたくなったらいつでも依頼を」
「あぁ、今度事務所にフィギュアを持って顔を出すよ」
電話は切れた。
少女についてはわからないことだらけだけれど、あとは自分の力でどうにかしようとぼくは決めた。
この探偵にまかせれば少女のことはすべてわかるだろうけれど、ぼくの財布が破綻する。
「この生徒手帳は、本物、みたいだね」
ぼくは少女に生徒手帳を返した。
「信じてくれた?」
「君が、千のコスモ学園に在籍していないのに、その生徒手帳が本物だということはわかったよ」
「だから麻衣は、ちゃんと千のコスモ学園に通ってるし、お兄ちゃんの妹なんだってば」
また少女は、頬を膨らませて唇を尖らせる。
「それにしても」
と、少女はぼくの部屋を見回して言う。
壁に貼られた内倉綾音のポスターに、非売品の等身大のポップ、東京に修学旅行に行ったときに買ったマルベル堂の写真の入ったいくつもの写真立て。
それらを見て少女はため息をついた。
「お兄ちゃん、マザコン?」
父と母の話をしよう。
「ねーお兄ちゃんおなかすいちゃった」
ぼくは冷蔵庫を開け、何も食材が入っていないことを確認すると、
「ガストでいい?」
ぼくたちはガストで夕食をとることにした。
「でもその格好で外はまずいか」
少女は下着の上にぼくが渡したTシャツを一枚はおっただけだった。コンビニが近くにある。そこで二人分の弁当を買ってこようか。
「いい。制服、乾いてきたから。もちろん、お兄ちゃんのおごりだよね?今日は麻衣のお誕生日だし」
母が1993年の10月9日に死んだことは、何年かに一度放送される母の追悼番組を見ていれば誰にでもわかることだった。その日に、母といっ しょに生まれてくることなく死んだ妹がいたことも、あるいはそれらの番組で放送されていたかもしれない。だけど麻衣と名付けられるはずだったことは、父と 母とぼくしか知らないはずだ。ならばなぜ少女は麻衣と名乗ることができたのだろう。わからない。
ぼくはセーラー服の少女を連れて家を出た。
雨はもう止んでいた。
「父さんの名前は?」
「花房ルリヲ」
「違うよ。本名」
「加藤忠昭」
正解。
「母さんの名前は?」
「内倉綾音。本名は加藤裕子」
これまた正解だ。
だけど、それくらいの情報はウィキペディアにだって載っている。
ぼくは信号待ちをしながら、ぼくたち家族にしかわからない少女が知り得ないことを考え、そして尋ねる。
飼っていた犬の名前は? シロとリー、あとローってのもいたね、親戚のおばさんちにもらわれて行ってバンて名前になっちゃったけど。
ぼくのどんな質問にも少女は答えてみせるのだった。
「これ、取り調べか何か? まだ麻衣のこと、疑ってるの?」
「疑うも何もぼくの妹は15年前の今日、母さんといっしょに死んでるんだよ」
少女の足が止まる。
「嘘……」
ぼくは、本当のことだよ、とだけ言って、立ち止まる少女の手をひいた。
「以来父さんは小説を書かなくなって、わずかばかりの印税で細々と暮らしてる。ぼくはそんな父さんを見ているのが嫌で、こんな遠い大学に進学したってわけ」
「嘘よ」
「嘘じゃないよ」
「だってお父さん、今でも小説を書いてて、去年直木賞をとって。お母さんだって去年わたしのデビュー作で女優復帰して共演してくれたし、それにお兄ちゃんだって……」
「去年直木賞をとったのは松井今朝子と桜庭一樹。父さんは母さんが死んだ後に書いた小説が、酷評、され、て……」
話しながらぼくは、父の最後の小説を思い返していた。読んだのは一度きりだけれど、母を失った父の辛さが痛いほどよくわかるその小説をぼくは今でもはっきりと覚えている。
母が、母が死ななかった世界から、父のもとを訪ねてくる、そんな小説だった。
雨の日に。今日のような。
少女は、さきほどからずっとぼくをお兄ちゃんと呼んでいる。もし、母が死なず妹が無事生まれた世界が存在したとしたら。その妹が何らかの超常現象によって、こちら側の世界に迷いこんでしまったのだとしたら。
そこまで考えて、ぼくは笑った。馬鹿らしい。そんなことあるはずがない。
「お兄ちゃん」
少女に呼ばれてぼくは振りかえる。
「ガスト、ここでしょ。通りすぎちゃってどうするの?」
「二名様でいらっしゃいますか? お煙草はお吸いになられますか?」
ぼくは首を横に振り、ぼくたちは禁煙席へと案内された。
「煙草、やめたの?」
やめたも何もぼくは生まれてから一度も煙草を吸ったことはない。そう言うと、少女はふぅんとだけ言って、「わたしジャンバラヤで」と席を案内してくれた店員に早速料理を注文した。
「ぼくはまだ決まってないので……」
「お決まりになりましたらそちらのブザーでお呼びください」
ぼくはメニューをテーブルに広げた。
少女はその上に一冊の小説と一枚のDVDを置いた。
小説には花房ルリヲ著「口裂け女、人面犬を飼う 最終章 御手洗花子対口裂け女、フランダースの人面犬のレクイエム」とある。
ぼくは目を疑った。
未完のまま、もう十余年続きが書かれることのなかった父の小説の最終巻がそこにあった。
表紙をめくれば、そこには自信に満ち溢れたぼくが見たこともない父の顔写真があり、プロフィールには確かに2007年直木賞受賞とある。既刊に は、ぼくの知らないタイトルの作品が並び、そこには父の最後の作品であるはずの、死んだ母が父のもとに帰ってくるというあの作品の名はなかった。
「この本とDVD、芹菓に貸す約束してたんだけど、あの子麻衣のこと忘れちゃったみたいだから、お兄ちゃんにあげるね。読んでないんでしょ? これ」
「あ、ありがとう」
ぼくはそれだけ声を絞り出すのがやっとだった。
視線の先にあるDVDがぼくをさらに驚かせるものだったからだ。
DVDのタイトルは「ドリーワン」とあった。
ドリーワンは、ぼくが去年、下宿先のすぐそばで起こったたてこもり事件をヒントに書いた小説だ。夢を見たとき夢からひとつだけ何かを持ち帰るこ とができる、夢を見なければ現実の大切なものをひとつずつ失う、そんな奇妙な力を手に入れた「ぼく」と妹の物語だった。ぼくはその小説を、生まれてこな かった妹のために書いた。
ぼくはそれを、大学のぼくが所属する文芸部が年に一冊発行している文芸誌に寄稿した。学校祭で配布はしたが、活字離れと言われて久しい昨今、素 人の大学生が書いた小説を読みたがる者などいるわけもなく、部員たち以外に誰もその存在を知ることのない小説だった。先輩からは「君の小説はまるで花房ル リヲが書いた小説のようだね」と言われた。部員たちにはぼくが花房ルリヲの息子だということは話したことがなかったけれど。だからぼくは戯れに二代目花房 ルリヲというペンネームで小説を書くようになった。
それが映画化され、DVDになっているのだ。ジャケットの写真は、ひきこもりの主人公の、自動販売機やマネキン、電話ボックスなどが散らかった足の踏み場のないような部屋に、「ぼく」役らしい市原隼人と少女が手を繋いで立っていた。
二代目内倉綾音、鮮烈デビュー、とある。
「麻衣のことだよ」
と、少女は少しはずかしそうに、しかしまんざらでもなさそうな顔をして言った。
二代目花房ルリヲの小説デビュー作、待望の映画化、とも書かれていた。
「これは、お兄ちゃんのこと。忘れたわけじゃないよね?」
忘れるも何も、ぼくのペンネームだ。忘れるわけがなかった。
DVDの裏ジャケットには市原隼人だけでなく有名な俳優たちの名前が軒を列ねて並んでいた。
加藤麻衣・ドリー(二役)……二代目内倉綾音(新人)
加藤学……市原隼人
安田呉羽……小木博明
戸田ナツ夫……矢作兼
榊李子……池脇千鶴
佐野友陽……大杉漣
棗弘幸……ユースケ・サンタマリア
加藤綾音……内倉綾音(特別出演)
「お母さんはね、この映画で女優復帰したんだよ」
親子二代共演で、かなり話題になったんだから、と少女は楽しそうに笑った。
そして、
花房ルリヲ……花房ルリヲ(特別出演)
父が花房ルリヲ役で出演していることにぼくは驚かされた。
少女が頼んだジャンバラヤを持ってきた店員に、ぼくは「同じものを」と頼んだ。
驚かされたのはそれだけではなかった。
原作・脚本・監督……二代目花房ルリヲ
原作だけでなく脚本まで、それどころかメガホンまで「ぼく」がとっていることにぼくはただただ驚かされた。
「お兄ちゃんね、自分も出るーってはしゃいで、最初にたてこもり犯に射殺されるSAT隊員がいるでしょ。その役やったん……だけど、でもほんとに何にも覚えてないんだね……」
悲しそうにジャンバラヤを一口、口に運んだ。
「もしかして記憶喪失? でもそれにしては変だよね。まるで麻衣に関する記憶だけなくなってるみたい。ううん、まるで麻衣が最初からいなかったみたいにお兄ちゃん変わっちゃったみたい」
ぼくは頭を悩ませる少女を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
本当に少女はぼくの妹なのだと。
妹が生まれてくることができた世界においての。
父の最後の小説の母のように。
その世界では母も健在で、父は直木賞作家になっている。妹は二代目内倉綾音として、ぼくは二代目花房ルリヲとして、芸能界に、文壇に、いる。
妹は、その世界からこちら側に迷いこんでしまったのだ。
ぼくは、ぼくが撮ったという映画を見てみたいと思った。
「麻衣はね、この映画で女優デビューしたけど、でも映画に出たのはこれっきりでもうそういう活動はしてないの」
ガストから帰ったぼくたちは、「ぼく」が撮ったという映画をふたりで見た。物語は、映画化にあわせて多少の設定の変化はあるものの、おおよそぼくが文芸部の雑誌に書いたものと同じだった。
ぼくは小説を書くとき、他の小説家志望の人たちがどうしているかは知らないけれど、頭の中に浮かんだ映像を文章に変換して表現する。ぼくにとっ て小説を書くということは、頭の中にすでに完成した形としてある一本の映画をただ小説におとしこむ、という作業でしかない。だからぼくは、ぼくが映像的に おもしろいと思う表現をよく使う。
ドリーワンにおいて、主人公「ぼく」が夢から持ち帰ったものが写真から切り取って別の写真に張り付けたような、合成映像のような違和感があるこ とや、その一部にモザイクがかかっているという設定はそういう理由からだった。だからぼくの小説は、小説としてよりも映画にした方が絶対におもしろいとい う自負があった。少女の兄である「ぼく」が自らメガホンをとったのは、彼もまたそう考えていたからだろう。
「この映画は、お兄ちゃんが話題作りのために麻衣を無理矢理出させただけだから。だから麻衣は芸能事務所とかそういうのには登録してないし、マネージャーとかもいないの。お芝居するのは嫌いじゃないけどね」
少女は、兄である「ぼく」と仲があまりよくなかった、と言っていた。なんとなくわかる気がした。
「お兄ちゃんは小さい頃から勉強も運動もできて、小説だけじゃなくてね、バンドもうまく行ってて、何をやらせてもいつもすごくて、麻衣は何をやってもだめだったから、小さい頃からずっと馬鹿にしてて。都合のいいときだけ麻衣を利用するの」
「ぼく」は、ぼくとはまるで正反対の人生を歩んできたらしい。才能と自信に満ち溢れた人生。それはうらやましくもあり、悲しくもあった。たったひとりの妹に嫌われてしまう兄に、ぼくはなりたくはなかった。
「この映画のときだって話題作りのためだけに私を出して、演技なんてしたことない麻衣を隼人くんや千鶴さんやお母さんの前ですっごく馬鹿にしたの。みんな麻衣をかばってくれたからなんとか頑張れたけど、何度も降りようかなって思ったんだ」
映画がクライマックスに差し掛かり、家族を失い家を失った主人公は核を手にする。
ぼくが書いた小説と同じだ。
間違いなかった。
妹は、こちら側に迷いこんでしまったのだ。
映画を見終わったぼくは、DVDをプレイステーション2から取り出すと、早速パソコンを起動してトレイに入れた。
「何するの?」
と、妹はぼくに聞く。
「コピーするのさ」
ぼくは短く答えると、デスクトップにある、ほとんどのDVDのコピーガードを外してコピーすることができる、魔法のフリーソフトを起動した。違法かもしれないけれど。
「そんなことできるんだ?」
妹は興味深そうにパソコンのモニターを覗き込んだ。モニターでは早速DVDが早回しで映し出され、DVDの分析が行われている。ぼくの経験上、 ウタダの前の旦那が撮ったアニメ映画のリメイク以外のDVDはすべてコピーすることができた。コピーガードが外せなければ、分析の途中でエラーが発生す る。分析は無事すぐに終わり、ぼくは胸を撫で下ろした。
妹がこちら側に迷い込んでしまったのなら、いつかは元いた世界に帰るときが来るかもしれない。そのときにこちら側に持ち込まれた物はやはり彼女 とともに元いた世界に返すべきだろう。このDVDだけはどうしてもこちら側にコピーをとっておきたかった。このDVDはこちら側には存在しないはずのもの だけれど、ぼくにも著作権があるはずのものだ。誰にも文句は言わせない。
ぼくの標準的な一般家庭用のパソコンならバックアップに30分、DVDを焼くのに15分といったところだろう。小一時間でDVDのコピーは終わる。ぼくは保存用、観賞用、布教用に3枚焼くことに決めた。
バックアップが終わるのを待ちながら、
「明日さ」
ぼくは少女に言った。
「明日、会ってほしい人がいるんだ。ちょっと遠いけれど、ついてきてくれる?」
いいよ、と少女は、ぼくのかわいい妹は、笑った。
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