ぼくが物心ついた頃から10月9日は我が家にとって特別な日だった。
我が家と言っても、ぼくと父と二人だけの家だったから、ふたりにとってでしかないのだけれど。
毎年10月9日は、家から歩いて10分ほどのところにある小さな墓地に、ぼくと父は墓参りに出かける。
それはぼくが大学生になり、小さな田舎町から、少しだけ都会にある大学のすぐそばにあるアパートに下宿をするようになった今も変わらない。
今年もぼくはその日一日の講義を自主休講し、片道四時間かけて電車やバスを乗り継いで実家に帰り、父と墓参りにでかける。
小説家である父は、もう十年以上仕事らしい仕事はしておらず、寂しそうな背中で「おかえり」と一言だけぼくに言う。そして墓参りの支度を始める。
父はバケツにたわしなどを入れ、ぼくは母が生前好きだったという花を抱いて、ぼくたちは父がさした傘の中で身を小さくして、小さな田舎町の軽自動車がすれちがうのがやっとくらいの小さな道路を黙々と歩き、墓地へと向かう。
毎年決まって、10月9日は雨が降る。
七色の花弁がきれいなその花の名前をぼくは知らない。
母の顔も今ではおぼろげだ。
覚えているのは、優しい声とある言葉だけ。
「もう少ししたら、あなたはこの子のお兄ちゃんになるのよ」
14年前、母は死んだ。
母は妊娠していて、ぼくの妹をそのお腹の中で育てていた。
だけど出産のときに母子共に危険な状態になり、ふたりとも死んでしまったそうだ。そうだ、というのはぼくにはその記憶がほとんどなかったから。
以来父は小説を書かなくなり、寡黙になった。ぼくはそんな父の背中を見ながら18歳までをこの小さな田舎町で父が昔書いた小説たちを読んで過ごした。
「学、バケツに水をくんできてくれないか」
母さんをきれいにしてあげなくちゃな。と父はぼくに言った。
ぼくは父と母がつけてくれたその名に恥じないようぼくなりに勉強し、恥ずかしくない程度の偏差値の大学へと進学した。実家にひとり父を残して いってしまうのは少し不安があったけれど、たった四年だ。ぼくは卒業したらこの田舎町に戻ってくるつもりでいたし、もうどんな物語も物語ることをしなく なった父の代わりに小説家になりたいと考えていた。
幼い頃から馴れ親しんだ父の小説は、とてもきれいな文体で書かれており、まるで小説の作法書のようだった。見よう見まねで書いた小説が、地方の小さな文学賞の最終選考に残るくらいには、小説の作法はぼくの中に脈々と受け継がれていた。
ぼくは母の眠る墓をみがきながら、父から少しだけ母の話を聞き、そして生まれてくるはずだった妹の話を聞く。
女優だった母は、父が原作の小説が映画になったときにヒロインに抜擢され、それが縁で父と恋に落ち、結婚した。母は惜しまれつつも女優を引退し、そしてぼくを生んだ。母はそのときまだ17歳だった。22歳で死んだ母の死に多くの人達が涙したという。
「知ってるか。赤ん坊の棺桶って小さいんだ。普通の棺桶を半分に切って作るんだ」
寡黙な父は、年に一度だけ饒舌になる。それは決まって、今日だった。
墓を洗い終わったぼくたちは、まだ濡れたそこに七色の花弁の花束を置き、手をあわせる。父はきっと心の中で、一年分の気持ちを言葉にしているのだろう。目を開くのはいつもぼくが先だった。ぼくが思うのはいつも生まれてこなかった妹のことだった。
父に、どうしても聞きたいことがあった。
「生まれてくるはずだった、ぼくの妹だけど、父さんと母さんはなんて名前をつけるつもりだったんだい?」
父は、
「麻衣」
とだけ短く答えた。
加藤麻衣、か。
なんだか14歳になったら誘拐されてしまいそうな名前だなとぼくは思った。
ぼくは語りかける。
もし生まれることができたなら、今日で15歳になるはずだった妹に。
ぼくはずっと君に会いたかった。君に話したいことがたくさんある。父さんのこと、母さんのこと、君のこと、それからぼくのこと。
叶わない夢だと知りながら、ぼくは毎年10月9日だけ、そんな夢を見る。
母の顔も今ではおぼろげだ。とぼくは言ったけれど、母としての内倉綾音の顔を、という意味だ。
母は生前、父が原作の映画だけでなく、何本かのアイドルの登竜門のような映画に主演していたし、今でも何年かに一度母の死を悼む特別番組が組ま れることがある。もっと言えばグーグルで母の名前を画像検索すればいくらでも写真を見ることができたし、youtubeやニコニコ動画ではDVD化されて いないバラエティ番組や旅番組に出演する母を見ることができた。映画ではいつも儚げに物憂げに見えた母は、バラエティ番組ではぴょんぴょんと小動物のよう にステージを飛び回っていて、一体どちらの母が本当の母なのかぼくは毎度毎度戸惑わされる。
黒目がちの大きな瞳を縁取る長いまつげと、小さな鼻と薄い唇。長く、艶のある黒髪。きれいに化粧した、ぼくよりも幼い母は、息子ながらとてもかわいらしく見えた。
母としての内倉綾音をぼくは知らないけれど、アイドルとして女優として活躍した内倉綾音は、ぼくの初恋の人だった。
そんな人がぼくの母親だと言われても、ぼくにはいまいち実感がわかないし、初恋の女の子が若き日の母親だなんてマザコンめいた話を、だからぼくは誰にも話したことがなかった。
片道四時間かかる電車の中で、車窓から見える雨の景色を窮屈に感じながら、墓参りの帰りに父が言った言葉をぼくは思い返していた。
「母さんは雨がよく似合う人でね」
はじめて会ったときも雨の日だった、綾音はまだデビュー仕立ての新人で、垢抜けていなくて、赤い長靴を履いて黄色い傘をさして、セーラー服を着ていた、父さんは一回り以上も下の彼女に一目で恋に落ちたんだ。
なんとなくわかる気がした。
都市伝説小説作家であった父、花房ルリヲが、作風を変えたのは母に出会った直後のことだった。
「口裂け女、人面犬を飼う」なんていう小説を書いていた父は、母が映画で演じた、公衆便所に生み捨てられ15歳までの時をひとりで過ごした悲しき 少女、花子を主役とした新シリーズを書き始めた。それまでの都市伝説上の人物たちがかわるがわる登場し、街に起きる怪事件の謎を解き明かすといったミステ リー小説であった作風は、一転してヒロイン花子のアイデンティティを探す旅路と淡い恋の物語へと変わっていった。
花子の物語は、
「親愛なる内倉綾音に」
という書き出しでいつも始まっていた。
父は本当に母と初めて出会ったときから、ずっと母だけを見ていた。愛していた。
だから母が死んで、物語を紡ぐことができなくなってしまった。
母の死後まもなく書かれた父の最後の作品は、父や母やぼくの名前が実名で登場し、死んだはずの妻が、彼女が死ななかった世界より父のもとにやってくるという、荒唐無稽なものだった。
女優内倉綾音の死が、作家花房ルリヲを殺した。
文芸誌にはそう酷評され、父の小説の中で唯一その小説だけが絶版となった。
ぼくは大学前の停留所でバスを降り、傘をさしてアパートへ向かった。
停留所からアパートは徒歩数分だ。
小さな書店があり、個人経営のカラオケがあり、大学の前の大通りを西に進めば、去年の初夏に立てこもり事件があった家がある。パチンコ屋の裏 に、ぼくの下宿するアパート「多年荘」はある。壁に蔦がからみついたこのアパートに住んで丸1年、週に二、三度、下の階の部屋から女の大きなあえぎ声が聞 こえる以外には何の不満もない。ぼくはこのアパートが好きだった。
雨に濡れた階段で足を滑らせないよう、慎重に階段を登り、そしてぼくは、赤い長靴と黄色い傘を見つけた。
体が冷えるのか、濡れたセーラー服の体を抱くように膝を抱えて、その少女はぼくの部屋のドアの前に座っていた。
ぼくに気づき、顔を上げる。
黒目がちの大きな瞳を縁取る長いまつげと、小さな鼻と薄い唇。長く、艶のある黒髪。
少女は、
「お兄ちゃん?」
と、そう、ぼくを呼んだ。
少女は、お兄ちゃん、とぼくをもう一度、そう呼んだ。
「お兄ちゃん、だよね?」
ぼくは戸惑った。
下宿先の部屋のドアの前に少女がいたことよりも、その少女にお兄ちゃんと呼ばれたことよりも、何よりも、少女が内倉綾音に瓜二つの顔をしていたから。
「よかったぁ」
少女は両腕をまっすぐのばして伸びをして、ぴょんと立った。ぼくにぐいと詰め寄る。
「学校行っても芹菓も雪もわたしのこと知らないって言うし、わたしの席ないし。家に帰ったら知らない人が住んでるし。お母さんは電話つながらない し、お父さんには切られるし、お兄ちゃん電話出てくれないし。ほんとどうしようかと思ったんだよ? なんで電話出てくれないの?」
戸惑うぼくのことなどお構いなしに、少女は一息でそう言って、またぼくにぐいと詰め寄った。
雨に濡れたセーラー服が透けていて、下着が見えていた。ぼくは慌てて視線を少女の胸から逸らした。
電話。
そういえば確か、電車の中で知らない番号から何度か着信があった。
ぼくは鞄から携帯電話を取り出して、着信履歴を開いた。090-3563-XXXX。やっぱり知らない番号だ。
少女もいっしょに画面を覗き込んでいた。
「うそぉ。お兄ちゃん、なんで麻衣の番号アドレス帳に入れてないの?」
少女の電話番号らしい。
「確かにさ、麻衣とお兄ちゃん、全っ然仲良くなかったけど、だからって普通妹の番号消す? 消さないよね?」
また、ぐいと詰め寄られた。
「ご、ごめん」
ぼくは何故だかわからないまま思わず謝ってしまった。
少女はため息をついて、ドアにもたれかかった。そこがぼくの部屋だと知ってはいるようだけれど、ぼくを部屋に入れてくれるつもりはないらしい。
そして不審そうにぼくを一瞥して、
「いつから髪の色、元に戻したの?」
と訊いてきた。
いつからも何も、ぼくは生まれてこのかた一度も髪を染めたことなどなかった。
「前会ったときは、真っ赤で、もっと短くて、ツンツン立ててたじゃない」
そんな恥ずかしい髪型できるわけがなかった。
「それに、服の趣味もだいぶ変わったね。前はもっとこう、パンクな感じっていうの? 黒とか赤の、なんかびっりびりに破れたシャツとか着て、骸骨のシルバーアクセサリーとかつけて、ズボンも膝の裏で紐みたいなのが両脚を繋げてるみたいな、そんな格好だったよね?」
いまどき、そんな絵に描いたようなバンドマンみたいなのNANAくらいにしかいないんじゃないだろうか。
「バンド、やめちゃったの? バスストップとなんとかっていう」
どうやらぼくはバンドマンだったらしい。
まったく意味がわからない。
「ほんとにもう、どうなってるの?」
少女もぼくと同様、現状が理解できていないらしい。
だから、ぼくは訊いてみることにした。
「すみません、どちらさまですか?」
少女のこぶしが、ぼくのみぞおちに食い込んだ。
「加藤麻衣。
お兄ちゃんの妹の、麻衣、よ」
状況を、少し整理しよう。
ぼくはとりあえず、ぼくの妹を名乗る少女を部屋に招き入れることにした。
10月とはいえ、雨に濡れたままでは風邪をひきそうだったし、少女は随分雨に濡れていたからだ。
部屋干しの少し嫌なにおいの残ったバスタオルを少女に渡し、ぼくたちは部屋の真ん中にある冬はこたつにもなるテーブルを囲んだ。
目の前で濡れた髪を乾かす少女の名は、加藤麻衣。ぼくの妹、なのだそうだ。
確かに、ぼくには15年前に生まれるはずだった妹がいた。
母といっしょに死んでしまったのだけれど。
父と母は、その生まれてくるはずだった妹に、麻衣、と名づけるつもりだったらしい。父がそう言っていた。
ぼくの苗字は確かに加藤である。妹の名が加藤麻衣というのも頷ける。
だけど、妹は生まれてくることができなかった。
だからぼくには妹はいない。
しかし、目の前で濡れたセーラー服を脱ごうとしている少女は(ぼくは慌てて少女に背中を向けた)、ぼくの妹であると言い張るのである。
そして、ぼくの母、若くして引退し、若くして帰らぬ人となった女優内倉綾音に瓜二つの顔をしているのである。
一体これはどういった新手の詐欺だろうか。
妹詐欺、なんてものがあるという話は聞いたことがなかった。
ぼくは、これまた部屋干しの嫌なにおいのするTシャツを、少女に手渡した。
「なんかにおうよ、これも、バスタオルも。お兄ちゃん、ちゃんと部屋干し用の洗剤使ってる?」
「……ごめんなさい。使ってません」
ぼくはまた、わけもわからず謝ってしまった。いや、今回に関しては、ちゃんとわけはわかっているのだけれど。
少女は先ほど、確かこう言った。
「学校行っても芹菓も雪もわたしのこと知らないって言うし、わたしの席ないし。家に帰ったら知らない人が住んでるし。お母さんは電話つながらない し、お父さんには切られるし、お兄ちゃん電話出てくれないし。ほんとどうしようかと思ったんだよ? なんで電話出てくれないの?」
少女の狙いが何なのかはわからないけれど、話を聞く価値はありそうだ。というより、ちゃんと話を聞かないと帰っていただけなさそうだ。
ぼくはまず、学校の話から聞きだすことにした。
「その制服、千のコスモ学園の制服だよね?」
少女は脱ぎ捨てたセーラー服の胸のポケットから生徒手帳を取り出した。表紙に星がいくつも刻印された高級感漂う生徒手帳だった。さすが有名私立だな、とぼくは思った。
表紙をめくると、少女の顔写真が貼ってあり、その横には、私立千のコスモ学園中等部、三年B組、出席番号四番、加藤麻衣、とあった。
「担任の先生の名前は?」
「棗弘幸先生」
学校の住所や電話番号も同じページに記されていた。
ぼくは携帯電話に手をのばし、名古屋市の市外局番ではじまる10桁の番号をプッシュした。プルルルル、と電話が呼び出し音を奏でた。
「はい、千のコスモ学園中等部です」
若い事務員らしい女が出た。
「あの、三年B組の加藤麻衣の保護者ですけれど、担任の棗弘幸先生はいらっしゃいますか?」
「少々お待ちください」
三分ほど待たされて電話口に出た若い男性教員は、
「そのような名前の生徒は我が校に在籍しておりません」
と、それだけ言うと受話器を下ろした。
ぼくは少女に同じ言葉を繰り返した。
少女は悲しそうな顔をして、
「麻衣、嘘ついてないもん」
と言った。
頬を膨らませて、唇をとがらせて。
それはバラエティ番組でぼくの母がよく見せた表情だった。
千のコスモ学園中等部に加藤麻衣という少女は存在しない。しかし少女が嘘をついていないというなら、少なくともこの生徒手帳は本物のはずだ。
ぼくは携帯にもう一度だけ手を伸ばした。
「今度は誰に電話するの?」
少女は不安そうにぼくを上目使いで見る。
「大丈夫。警察じゃないから」
ぼくはまだ濡れた少女の頭を優しく撫でてやった。「もしもし」電話に出た男は、ぼくが尋ねるよりも早く、
「今君の手にある千のコスモ学園中等部の生徒手帳が本物かどうか確かめたい。そうだね?」
ぼくの依頼を言い当てた。
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