「ぐぬぬ、教科書がテレビ画面に、シャーペンがコントローラーにいつの間にか変わっています」
「はぁ、呆れてものも言えないわ」
勉強に集中できていないから、つい他のことに気を取られてしまう。見える場所に誘惑を置くのは厳禁。奥に収納して見えなくするのがベストだ。
「約束の時間や場所を間違えることはある?」
「あるような……ないような……あんまり覚えてないや」
約束した際に気が散っていて正確に覚えてないと約束が守れない。迷惑がかかるので不用意な約束はしてはならない。
「授業中ノートを取る振りをしながら別のことをしてない?」
「げっ!」
「授業に集中しなさい。桔梗には授業が必要でしょ」
たった一言で桔梗が授業に集中していないことがわかる。華薔薇は授業を聞かなくても内容を理解しているので、授業中は別のことをしている。桔梗の場合は授業を理解してないので、後から苦労する羽目になる。授業を真面目に聞いていれば、テスト前に狼狽することもない。テストは授業の復習だ。授業を聞いていれば合格できるようになっている。
「エレベーターで目的地以外の階で降りたことはある?」
「それはないと思う。なんで降りるの?」
「スマホに気を取られて、開いたドアに反応して降りちゃう人がいるのよ」
階数表示をチェックしていれば起こらない。スマホや会話に夢中で表示を見落としてしまううっかりさんも世の中には存在する。
「一度読んだ文章が全然思い出せなくて、読み返したり?」
「…………何度もあります」
「集中して読み込んだら、概ね把握できる。読み返す時間は無駄ね」
ストーリー形式だと人は覚えやすい。無機質な文章でもなければ、一度で流れを覚えるのは造作もない。
「桔梗は私と話しているときに、別のことに注意が向くことはある?」
「それはほとんどない。こんな強烈な奴から目は離せない」
「私は至って一般人よ、失礼ね」
どこが一般人だよ、というツッコミを飲み込む桔梗。藪をつついて蛇を出す趣味はない。
目の前の相手に意識が向いていないなら、気が散っている証拠。そもそも別のことを考えているのは失礼だ。
「食事中にスマホがテーブルの上にあったり、スマホを触ったりする?」
「箸とスマホの二刀流だぜ」
「変な二刀流を覚える前に食事に集中しなさい」
食事とスマホのマルチタスクは食事の満足度を下げてしまう。満足度が下がれば、間食をしやすくなる。肥満に繋がるのでながら食べはせず、食事に集中して向き合う必要がある。
「授業中だろうとメッセージがきたら、すぐに返信しないと相手に悪い気がする?」
「できる限り返信は早い方がいいだろ」
「授業に集中しなさい。送信主が学生なら相手も授業の真っ最中でしょ」
返信が少し遅れたくらいで問題は起こらない。それなら授業を真面目に受けるべきだ。後から授業内容のおさらいをして、時間を無駄にしないように。
「重要なメモを適当な紙に書いて、そのメモが見当たらなくなることはないかしら?」
「ふっふっふっ、俺はメモを取らないから、メモをなくさない!」
「メモ以前の問題っ!」
メモをしたはいいが、整理する前に別のことに気を取られてメモを紛失する。メモを取ったら、清書や保管の必要がある。さっさと作業を終わらせるか、後から見つけやすい場所に仕分けて、メモを探す事態は回避する。
「一日を振り返って満足できなかった、授業がわからなかったと感じることはある?」
「しょっちゅうだよ、そんなもん」
「ひとつひとつの出来事に集中できてないから、満足いかないのよ」
中途半端にやるからモヤモヤする。何事も全身全霊で取り組めば、たとえ失敗しても満足はできる。結果も大事だが、過程も大事だ。
「テレビや新聞の情報が気になることはないかしら?」
「たまに、あるかな」
「どうせ何もできないんだから、気にするだけ無駄よ」
テレビのニュース、新聞の記事、SNSの発信、どれも些末な情報だ。無視しても生活になんら影響は与えない。そもそも気に病む必要がない。最初からシャットアウトすればいい。
もし話についていけないなら、その時に教えてもらえばいい。わざわざ自分から探すこともない。
「桔梗は『集中力がない』や『別のことをしている』と指摘されたりする?」
「いや、あんまりないと思う。少なくとも誰かに言われた記憶はない」
「雑談部は雑談できるようにしてるからね」
雑談部の部室は殺風景だ。教室にあるべきものしか置いていない。違和感がなければ脳も反応せず、慣れ親しんだ空間では気が散ることはない。
「電話で話している最中に、他のことをしたりしてない?」
「あー、軽くゲームしたり、ネットを見たりすることはあるかな」
「人の話はひたむきに聞きなさい」
ちょっとくらいなら大丈夫、と思うかもしれないが、そのちょっとは全然ちょっとではない。既にマルチタスクで生産性はガタ落ちしている。
「とまあ、いくらか質問したけど、桔梗も当てはまる項目が多かったようね。かなりのマルチタスクをしていては、シングルタスクの道のりは厳しそう」
「俺にもシングルタスクを教えてくれ。時間も満足ももっと欲しいっ!」
「ひとつひとつ潰していくしかない。全部を一辺に片付けるのは不可能。地道にコツコツできることから、マルチタスクをやめていくしか方法はない」
千里の道も一歩から。
シングルタスクに限らず、スキルの習得の一番の近道は真面目にコツコツだ。特殊な訓練で一足飛びに越えることはできない。できるとするなら、それは生まれつきの天才だけだ。
凡人は真面目にコツコツ積み重ねるしかない。積み重ねていれば、天才を越えることも可能だ。大抵の天才は生まれ持った才能しか活かせない。積み重ねるということを知らないから。
「凡人だから諦める必要はない。天才に勝つ方法は無数に存在するのだから」
「ひゅー、華薔薇は言うことが違うねぇ」
少なくとも華薔薇宴は自身を天才だと思ったことはない。故に小さなことをコツコツ積み重ねることしかできない。いつか本物の天才を越えるために。
「とりあえず、できることから実践する。マルチタスクを続けているとストレスホルモンのコルチゾールが分泌されるから情報の処理能力も落ちちゃうし、今すぐマルチタスクはやめなさい」
「はーい。俺は今、雑談に集中するぜ。……あっ、ちょっといいアイデアが思い付いたんだけと、これってどうしたらいいの?」
言ったそばから桔梗のシングルタスクの道のみは挫折した。一回二回試して身に付くのなら誰も苦労しない。最初は四苦八苦し、試行錯誤の先に没頭が見えてくる。
「作業中に何か思い付いたときはメモするのが一番よ。パーキングロット(駐車場)という考えがあるわ。本題とは関係のないアイデアはメモを残す。あらかじめ決めておくと後から探しやすい」
「なるほどなるほど、さっきのアイデアをメモするからちょっと待ってて」
桔梗はポケットからスマホを取り出してメモを残す。
「……」
「よし、終わった。なんだよ、その目は?」
華薔薇は無感情の視線で桔梗を貫く。
「……ふぅ、減点ね」
「えーっ! なんかよくわからんけど、減点された。理不尽だろ」
特に理由の説明もなく華薔薇は雑談を続ける。
「アイデアをメモに残す程度なら集中が途切れることもない。メモに残せば頭もすっきりするから一石二鳥ね。記憶だと後から思い出すのも苦労するし、正確に思い出せる保証もない」
メモ様様ね、と利点を語る。
メモひとつで集中力が維持できてアイデアも忘れないなら安いものだ。机の端にでも置いておけば作業の邪魔にもならない。
「やるべきとこはひとつ、目の前の作業に集中する、これだけ。勉強してるときは勉強以外に目を向けない。ゲームをしているときはゲームに没頭する。誰かと会話しているなら相手のことしか考えない。リラックスしているときはとことんリラックスする」
ひとつのことに集中する。これがシングルタスクの基本にして原点。
「とは言え、意思だけで実行できるなら、誰も彼もがスーパースターよ。だからこそ環境は整えなくちゃいけない。特に自室ともなれば誘惑の洪水でしょう」
スマホ、テレビ、パソコンのデジタル機器。漫画、ゲームの娯楽。おかし、スイーツの嗜好品。夢の世界へ現実逃避させてくれるベッド。
自室にわざわざ嫌いなものを置く稀有な人はいない。つまり自室というのは誘惑だらけの部屋なのだ。高学歴の人が自室ではなくリビングや図書館で勉強しているのは利に叶っている。誘惑がなければ勉強も弾むだろう。
「いかに誘惑から離れた環境を整えるかが成功の分岐点ね」
「嫌だ、捨てたくない。俺はゲームや漫画に囲まれて過ごすんだ」
誘惑の源がないのが一番だが、妥協として奥に収納してしまうのがいい。一手間かかるだけで、手を伸ばしづらくなる。逆に手間がかからないと簡単に誘惑に負ける。
たとえゲームが見えていても、鍵付きのショーケースに入っていれば手間がかかる。少しは誘惑から遠ざけられる。
「徐々に減らしていくより、思いきって一気に減らした方が苦痛も少ない。成功したきゃ思いきりのよさも大事よ」
「そう言われたら、やらなくちゃいけないじゃん」
「やりたくないなら、凡人として人生に不満を抱えたまま生きればいいじゃない。ただ成功してお金も地位も権力も家族も手に入れたいなら、頑張ればいいのよ。私が桔梗に強制するとはないのだから」
何も努力せずに成功する人はいる。人類でも一握りの中の一握りの絶滅危惧種並みに珍しい。
世の中で成功している人は大抵何らかの努力を続けた人だ。努力を続けていれば成功する確率が上がる。
「俺だって何か大きなことしたい。だから、やってやるぜ、シングルタスク」
最初から絶対に成功しないと決めつけて努力しない人もいる。どうやら桔梗は諦念を受け入れる人種ではないようだ。
「俺は女の子にモテて、お金も地位もビッグな豪邸も手に入れる。そのためならなんだってやるぞ!」
「とても素晴らしい動機ね」
一見すると不純な動機に思える。しかし人間の欲求の大半は桔梗と似たようなもの。誰かに認められたい。自分の能力を証明したい。お金が欲しい。異性にモテたい。聖人君子でもなければ多かれ少なかれ誰でも所持している。それは華薔薇も同じだ。
下手に隠して聖人ぶるより、よっぽど好感が持てる。
「今日から俺はゲーム中はとことんゲームに集中するぜ」
「ふふっ、桔梗はやっぱり桔梗ね」
人が変われることは疑いようがない。でも少しずつ積み重ねた結果で変化する。桔梗が本当に変化するのはいつになることやら。
「でもゲームをした後はちゃんと勉強するぞ。ホントだよ。オレウソツカナイ」
「説得力のない言葉ね。おまけにひとつアドバイスしましょう」
情けない桔梗を憐れんだのか、華薔薇は当初の予定になかった雑談を追加する。
「楽しい時間や自由時間の後に勉強の予定を入れるのはおすすめしない」
オハイオ州立大学の研究。実験の参加者には1時間の自由時間が与えられる。自由時間の前に半数は1時間後に友達が遊びに来ると伝え、もう半数には1時間後には特に予定はないと伝えた。
実際に1時間過ごしてもらい、1時間がどう感じたか聞き取りしたら、友達が遊びに来ると伝えられた参加者は40分くらいしか時間がなかったと解答した。もう半数は50分くらいだったと解答した。
ほとんどの参加者は主観の時間を短く見積もる傾向があり、さらに予定があるとその時間は余計短くなる。
実際には1時間でも主観では40分なら、40分の満足しか得られない。20分を損しているのと同じだ。
別の実験もしており、1時間後に予定があるグループと予定のないグループにわけて、30分で2.5ドルもらえる雑用と45分で5ドルもらえる雑用のどちらかを選ぶように指示した。
結果、予定のあるグループは30分で2.5ドルの雑用を選ぶ傾向にあった。損得で考えると45分で5ドルの方がお得なのに、実際に選ぶ人は少なかった。
予定があるだけで合理的な判断が下せなくなった。
また、別な研究では予定があると生産性が低くなることが確認されている。
「後に予定があるだけで、時間の余裕がなくなり、合理的な判断ができず、処理能力も落ちてしまう。つまり、やることはさっさとやりなさい」
「うぅ、嫌だけど。先に勉強します」
「ゲームをご褒美だと思えば、勉強も苦じゃないでしょ」
ご褒美があればドーパミンが分泌されので、やる気は上がり、先延ばしが減り、喜びが増え、記憶力が上がる。やる気ホルモンと呼ばれるのは伊達ではない。
「桔梗が勉強する気になったところで今日の雑談部は終わりよ」
「あえーっ! もっと雑談しようよ」
雑誌をして勉強を少しでも送らせようとする。
「すぐに帰って1分1秒でも長く勉強しなさい」
桔梗の幼稚な試みは容易く打ち砕かれる。
「とほほ、だぜ。仕方ないから今日は帰るよ。紫陽花にはまた明日話すよ。バイバイ華薔薇」
「さようなら、桔梗」
本日も無事に雑談部の活動は終了した。
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